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「西行」 高橋英夫

2012-12-24 | 読書

誰とてもとまるべきかはあだし野の草の葉ごとにすがる白露  山家集2180

化野念仏寺 2009年7月撮影


古来、西行に関する本はあまたあり。先日の西行物語が西行入寂後、時を経ずして書かれしものならば、こちら前世期の終わり、わずか20年ほど前の著作にして、ものの見方感じ方、けだし現代人のものならば今を生きる我らの腑に落ちると言うべきか。

むむむむ、いかん。和歌をあれこれ読むうち(詠むではなく)変な言葉遣いになってしもうた。


 

著者は東大独文科出身の文芸評論家。1933年生まれ。いまだご存命なのだろうか。

西行の一生を和歌に即して辿り、出家がいかなるものだったか、詩境はどのように深まったか、分かりやすく解説している。文学者の西行論が、結局は自分の文学観を披歴する材料として扱われるのに対し(読んでないので偏見でもの言ってます)、この本では和歌の中で見つめる西行自身の心を、公正に評価しようとする姿勢に私は好感を持った。

西行はただ単なる漂泊の詩人にして隠者ではなかった。身を聖に置きながら、歌を通じて人と関わり、武士の豪気を内に秘めた心の強い人でもあった。その強い心で自然を見、その中に自分の心を見る。

それまでの歌が自然の中に自分の心が溶け去ってしまうのに対し、自然を見ることで自分の心象に気が付く。押さえようもなくわきおこってくる荒々しい自我。それを素直に歌い、どうなるのか、目を凝らしてみている。なんかものすごく文学性があると思った。この時代の人はふつうこんなに自分に執着しないし、文字に残しもしない。

旅をして各地を歩きに歩き、気に入ったところには庵を結んで二、三年滞在。縁が尽きたらまた旅に出る。でも歌壇の評価も気になり、俊成、定家に自作の一人歌合せの評を頼んだりしている。

旅をする人に憧れ、思いを字に残せる知性に憧れ、歌われた内容に読む者の意識下の心が共振する。西行の人気はこんなところだろうか。

いいなあ、風景を見ただけですっと歌の詠める人は。有り触れた眺めも言葉が添えられて風景として完成する。

私の好きな歌をいくつか。

番はねどうつればかげを友として鴛鴦住みけりな山川の水 

     こうありたいものです

あくがるる心はさてもやまざくら散りなんのちや身にかへるべき 

     公園にずらりと並ぶソメイヨシノは大通俗。桜と言えば山桜。

年たけてまた越ゆべきと思ひきや命なりけり小夜の中山

     ちょっとはまりすぎだけど、越→来にして、再訪した地名を入れたら即興の歌になるのでよくお借りしています。

     デズニーランド、東京タワー(解体?)などなど。修学旅行で行った京都の神社仏閣も可。

見るも憂しいかにかすべきわが心かかるむくひの罪やありける

    因果応報を言うところは時代の制約。自分の心をしっかり見ているのは近代文学のようでもあり。

他にもいろいろありますが機会を改めてまた。