川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
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<大阪維新> 橋下徹府知事(当時)が大阪府庁の咲洲(湾岸埋立出島)全面移転にこだわったことで「この人はあかんわ」と思いました(2)

2019-01-28 08:44:52 | Weblog

2018-12-29
<大阪都構想> 松井一郎大阪府知事(日本維新の会代表)が2回目住民投票に関する維公合意書を記者会見で公表
2019-01-08
橋下徹氏と大阪維新の動き 安倍首相へのおねだり成果
2019-01-26
<大阪維新> 橋下徹府知事(当時)が大阪府庁の咲洲(湾岸埋立出島)全面移転にこだわったことで「この人はあかんわ」と思いました(1)
2019-01-28
<大阪維新> 橋下徹府知事(当時)が大阪府庁の咲洲(湾岸埋立出島)全面移転にこだわったことで「この人はあかんわ」と思いました(2)
2019-02-24
<大阪維新> 橋下徹府知事(当時)が大阪府庁の咲洲(湾岸埋立出島)全面移転にこだわったことで「この人はあかんわ」と思いました(3終)
2019-02-27
<大阪維新> 橋下徹氏は経済人・国政政治家の後援を確認してから出馬した/二重行政問題は大阪市を制御したい府目線
2019-03-09
橋下徹大阪府知事時代 二重行政改革、府市水道統合協議、WTC府庁移転に隠されている大阪市支配への意欲
2019-03-31
大阪では維新政治が安定しません / 都構想なしの太田房江府知事時代には府市連携協議が持たれていました
2019-04-02
<大阪維新> 橋下徹大阪府知事は二重行政改革の手始めに、前任太田知事の府市水道協議成果である「府水道予算800億円削減案」を見捨てた




前回記事(1)につづいて、今回も「1995(H7).1.17.神戸大震災」の追体験をしたいと思います。追体験の分野は、「大阪府庁舎咲洲移転」のキズになる「液状化」と「連絡交通」のテーマに寄せています。


神戸市水上消防署員の体験 液状化の突発を見た

1月17日午前5時46分。私は、ポートアイランドにある水上消防署受付勤務についていた。次の勤務者とそろそろ交替しようかと考えていたところ突然、庁舎の下からゴォーッと地鳴りがし、その直後、今までに経験したことのない揺れに襲われた。

縦揺れでもなく、横揺れでもない体がねじ切られるような揺れだった。揺れがおさまるまで何もできず、ただ柱にしがみついているのがやっとだった。

揺れがおさまりかけたころ、再び地鳴りとともに今度は庁舎と道路のあいだに亀裂がはいり、泥水がすごい勢いで地上に噴き出した。高さ1メートル、幅数メートルにわたってまるでカーテンのようで、建物ごと飲みこんでしまうのではないかと思えるほどだ。一瞬のうちにあたり一面、泥水が川のように流れていた。  (以上「阪神大震災 消防隊員死闘の記 P102」神戸市消防局「雪」編集部 1995.9.       25.労働旬報社刊)

消防署の中も物が倒れたり散乱したりしてたいへんでしたが、どの消防署でも地震発生とともに夜間待機の署員が出動していきました。全員出動の招集(甲号非常招集)が出され、通知を受けた者も、通知を受けられなかった者も自主判断で、勤務地に出勤しました。


非常招集で家族を置いて水上署に出勤、すぐに出動した

(当日公休だったが)、全員出動の招集(甲号非常招集)がかかっていることを母に告げてすぐに単車に乗った。すでに電話は通じず、とにかく水上消防署に向けて走り出した。すると寸断された道路、崩れた家やビル、それと青空が少なく見えるほどの黒煙と、いたるところで火災が見えた。

やっとの思いでポートアイランドの入口までくると、神戸大橋の亀裂のため通行禁止になっていた。その場にいた警察官に事情を説明し通してもらった。

するとポートアイランドが泥水に埋まっていた。これは後で知ったのだが、液状化現象がポートアイランドで発生し、さらに地盤低下もいたるところで発生していた。泥だらけになりながら水上消防署にたどり着いた。
  (以上「阪神大震災 消防隊員死闘の記 P150」神戸市消防局「雪」編集部 1995.9.25.労働
   旬報社刊)


この消防署員は署長命令で長田署管内・菅原通の火災現場に出動し、二、三日は休む暇もなく懸命に消火活動を行いました。

しかし注目しておくべきは、神戸大橋が通行禁止になっていたことと、ポートアイランドが液状化で泥水に埋まっていたということです。前記事(1)の2段目右が広範囲に泥水に埋まっている写真です。


甲号非常招集 朝7時自転車で自宅を出た 消防機動隊ヘリ離陸準備

電話のベルが鳴った。甲号非常招集が発令になった。「参集せよ」の連絡を受け自宅を自転車で出発。7時だった。ラジオ放送によると、「神戸が大きな被害を受け火災が発生している」。

西神戸有料道路、山麓バイパスを通行し機動隊庁舎に向かう。ひよどり料金所を通過したところで目を疑った。市内から数本の黒煙が立ち上がっている。市内は薄黒く朝日が見えない。

生田川を南下したところでビルが倒壊し横倒しになっている。
神戸大橋にさしかかる道路は凸凹。

行けるところまで行こう。下り口のところで車が止まっている。
一面が泥だらけである。
車をポートターミナルに置き庁舎に向かう。

道路、公園一面に泥が浮き上がって思うように歩けない。
歩道橋は地面との段差ができている。ビルとも段差ができている。

やっとの思いで庁舎に到着した。8時40分だった。

すでに単車にて参集していた3名の隊員とともに、飛行準備にとりかかる。救助機材の準備、散水機の準備をし、本部との連絡を取る。しかし連絡がつかない。専用機、加入、無線…。

格納庫内、ヘリポート一面にも泥が噴出し、凸凹ができている。
ヘリを出すことができるかどうか、ヘリスポット、誘導路を全員で確認する。
噴出した泥の深さは約20センチぐらいで亀裂等は確認できない。
「出せる」。ヘリをおそるおそる格納庫より出しヘリスポットへ移動。

すると機動隊長が到着、状況報告後整備士を運行管理者として待機させ、9時24分神戸ヘリポートを離陸。 (以上「阪神大震災 消防隊員死闘の記 P216」神戸                      市消防局「雪」編集部 1995.9.25.労働旬報社刊)


消防機動隊ヘリ 神戸市上空から被災状況収集(1995.1.17.)

東灘区から須磨区にかけて約数十カ所から黒煙が立ち上っている。すぐ本部に状況を送信するが応答がない。各署本部ともコンタクトが取れない。

市街地の状況をポラロイド写真、VTRで撮影し、東遊園地に着陸し司令課員に手渡し、離陸。ポートアイランド、六甲アイランドを経由し東灘から状況を確認する。

ポートアイランドは液状化現象により一面が泥に染まり、コンテナバースには亀裂が入り大型クレーンは傾いている。島の形が変形しているように見える。

六甲アイランドはポートアイランドほどの液状化現象は見られないが、護岸はゆがみ六甲ライナーの橋脚が落下し、六甲大橋の下には水道管らしいものが垂れさがっている。

灘区から東灘区にかけての酒蔵がない。煙突も。
阪神高速が横倒れになって、ゆがんでいる。
道路上には車両が放置されているが、人は確認できない。
鉄道軌道上には電車が停車し、軌道はゆがみ、高架は倒壊しているが人は確認できない。

東灘区から灘区にかけて特に民家の倒壊が多く一面が赤茶色に染まったように見える。各公園、グランドには避難者が数多く確認できる。

三宮地区は、市役所2号館(6階がへちゃげた)、明治生命ビル、交通センター、新聞会館、国際会館等数えきれないほど多くのビルが倒壊、傾いており、どのビルが正常であるのかわからない状態。倒壊したビルで道路を塞いでいるところが数カ所確認できる。

兵庫、長田、須磨区上空の空は黒霧に包まれたように黒く、地上からは限りなく黒煙が噴出し火柱が上がっている。(以上「阪神大震災 消防隊員死闘の記 P217」                   神戸市消防局「雪」編集部 1995.9.25.労働旬報社刊)


神戸行き道路は大渋滞 原付バイクで神戸大震災取材
 1995(H7).1.17.午前


大阪市都島区に事務所を持つフリーライター今西憲之氏は1995年(平成7年)1月17日午前6時前、大阪府八尾市の自宅に居て、地震で目を覚ました。八尾は震度4だったが、室内ではいろんなものが次々落ちた。余りにも揺れがひどいので地震が静まるまで、妻と二人でふとんをかぶっていた。時間が長く感じたと言う。

今西氏は午前7時過ぎに自宅を出て、近鉄電車で大阪に向かう。途中、久宝寺駅付近で高速道路の鉄柱が倒れているのが見えた。終着駅の上本町駅付近では地面にひび割れがあった。

上本町からタクシーに乗って、大阪市都島区の事務所に到着。事務所で取材に必要なものを鞄に詰めて、事務所の原付バイクで大阪駅に行った。午前8時35分、電車は止まっているから、タクシーで神戸に行くつもりだったが、10台ほど交渉しても神戸に行ってくれるタクシーはなかった。どっちみち神戸行き道路は渋滞や不通で大混雑しているだろう。車で行くのは苦労するだろう。今西氏は覚悟を定めて原付バイクで神戸に向かった。

神戸への道路は、阪神電車野田駅交差点付近から大混雑していた。大阪市西淀川区に入ると、1階が潰れた2階建て家屋、大きく傾いた家が見えるようになり、屋根瓦やガラスが飛び散っている。


原付バイクで大阪-神戸往復 フリーライターの大震災取材
さて、ここからは今西憲之著「バイク大震災を走る」(1995年3月15日第1刷 朝日新書) からアトランダムに拾い書きをします。

【1】 国道43号では、武庫川を渡る橋が壊れたために通行止め。何度も通ったことのある武庫川橋だ。あんな頑丈そうな橋がダメとは、どんなにひどい地震だったのか。やはり、国道2号しか行く道はないようだ。しかし、相変わらず渋滞は続いている。あまりの渋滞に、大阪方面行きの車線を神戸へ向けて逆行する車もある。

 歩道では歩行者と自転車、行き場を失ったミニバイクが交錯する。ひと目で、とるものもとりあえず逃げてきたとわかる若い夫婦。子供をかかえて歩く男性。みんな目が血走っている。(1995.1.17.-P23)

【2】 国道2号をまたバイクで走り出した。東灘区という表示が見えた。やっ神戸市内に入ったようだ。時間は10時40分少し前。― 略 ― 倒れた建物や自動販売機が歩道や車道をさえぎる。

 車道にあふれる人と自転車。そこを行くバイクや車。警察官や消防隊員が声を枯らして、「危ない、危ないから」と注意するが誰も聞かない。聞いていたら、一歩も前へ進めない。(1995.1.17.-P26)

【3】 肝をつぶすような光景が目前に広がったのは、国道2号と43号が合流する、灘区の岩屋交差点だ。「うそ、ほんまかいな」 西側では、なんと高速道路が落ちていた。愛媛ナンバーのトラックがいっしょに落ちたようで、運転席は潰れている。

 ― 略 ― 東側でも高速道路が斜めに落ちていた。隙間があったので、高速道路の中に入ってみた。大阪方面行きの2車線が崩れていた。3台の自動車が左に寄せられている。崩れて急こう配の高速道路を一気に駆け上がる。― 略 ― 遠くをみると、まだいくつかの場所で高速道路が落下していた。自動車がつぶれているのもわかる。(1995.1.17.-P27,P28)

【4】 11時29分、神戸の繁華街、三宮。見慣れた阪急百貨店がボロボロになっている。白いビルがなぎ倒されたようにつぶれて、隣のホテルによりかかっている。信じられない。これが、あの三宮なのか。1995.1.17.-(P28)

【5】(JR新長田駅近く、午後2時過ぎ)しばらく走ると、また火炎。嗚咽が聞こえる。近所の人たちが、「まだ、わからへんから、希望持って」と励ましている。

 1月15日、16日の連休で一人息子が2年ぶりに帰ってきた。勤めていた東京の会社を辞めて、神戸の会社に転職する面接も兼ねての里帰りだったという。母一人、子一人の家庭で、息子は、女手ひとつで育ててくれ、近ごろ糖尿病に悩む母親のことを考えての転職だった。

「息子と私は別々の部屋で眠っていた。そこへ地震でした。ドドドーンと音がして、次はドカンという音と同時に屋根が目の前に落ちてきた。私は30分ほどもがき苦しんでいました。そのうち、誰かが手を引いて助けてくれた。『たけし、たけし』と息子の名前を呼んでも返事がありません。必死で『息子を、息子が中にいる。助けてください』。そう頼みました。すると、ちょうど、火が私の家あたりに迫ってきました」
 母親は飛び込もうとしたという。だが、まわりの人々に制止された。(1995.1.17.-P38)

【6】(午後6時過ぎ、国道2号を大阪へ)走っていると不気味な感じがする。停電で街灯がつかない。車のヘッドライトと焚火だけが暗闇を照らす。道路は、大阪方面へ歩く人でいっぱい。布団や毛布を担いでいる人が目立つ。

 「もう3時間ほど歩いてる。とにかく東の方へ歩けば、無事な大阪に到着
 する。神戸から脱出したいんや。もう、怖くて住んでられへんわ」
 神社で一休みしていた家族連れの男性は言った。自宅は半壊したという。
 大渋滞のなか、大阪に帰ってきた。午後8時前だった。朝日新聞大阪本社ですぐにトイレへ行った。(1995.1.17.-P43)

【7】翌18日は、フリーの熊谷武二カメラマンと同行する。どちらも50ccのバイクだ。― 略 ― この日の最低気温はマイナス0.3度。―略― 朝6時25分、朝日新聞大阪本社を出発。

 唯一の神戸へのルート、国道2号は昨日以上の混雑ぶりだった。
 自動車はまったく動く気配がない。
 パトカーや救急車は冷たいサイレンを鳴らして、大阪方面行き車線を逆行して神戸へ向かう。あまりの混雑ぶりに、さすがの50ccバイクもなかなか前に進まない。(1995.1.18.)

【8】神戸に近づくと、「援助」「救援物資」と書かれたトラックが走っていた。遅れている熊谷カメラマンを待ちながら、ミチさんというトラックの運転手を取材する。
 「衣料品と水を運んでいます。昨日の午後から物資を調達して大阪を夜10時
 に出ました。
けど、まだ神戸に着かない。ある程度、覚悟はしていたが、ど
 うなるやら」

 ガソリンの心配から止まっている時はエンジンを切り、動き出すとエンジンをかけているという。結局、14時間かかったと、あとで連絡をくれた。なんと、時速3キロにも満たない。(1995.1.18.)

【9】白バイがサイレンを鳴らして山道を登っていうのが見えたので、追いかけてみた。白バイの後ろを走っていたのは、給水車。行く先は名倉小学校。待ちかねた給水車に歓声が上がった。すでに、行列は校庭から外にまではみだしている。

「ああ、水や、水や」
「やった、やった、来たで」
 住民から、そんな声が湧きあがる。運転席にいたのは大阪市水道局のベテラン職員。大阪から8時間ほどかけてきたという。(1995.1.18.-P58)

【10】焼け野原の中で、男性が遠くを見つめていた。電機メーカーに勤める会社員。28歳という。

 「瓦礫の下敷きになった子供がいたんです。手を差しのべたが、瓦や屋根が
 落ちて、火がまわってきたときには、姿はみえませんでした」
 そのとき子供が叫んだ声が耳に残って離れない。
 「子供が『助けて、助けて』と二度、繰り返した。あの声は一生、忘れられ
 ないでしょう。きっと可愛い女の子だったと思います」
 彼の目からぽとぽとと焼け野原に落ちた。(1995.1.18.-P61)


廃墟となった三宮から市役所へ 1995(H7).1.17.
 (この項は「官邸応答せよ P123~125」高見裕一 1995.4.10.第1刷 朝日新書)から引用

 市役所に向かう途中、市の中心地である三宮を通った。異様な雰囲気だ。停電をしているから――なのであろうか。街全体が断末魔のうめき声を発しているように感じる。暗黒の破滅のオーラが発信されているのだ。

 何ということだ! 柏井ビルが今にも道路側へ倒れてきそうなほど傾いているではないか。さくら銀行のビルも何か様子が変だ。阪急三宮駅のビルが最も異様な雰囲気。交通センタービルもおかしい。市役所前の明治生命ビルは、途中で折れて三角になってしまっている……。

 いったい三宮の街はどうなってしまうのだろう。
 市役所に入ろうとすると、、ロビーは大勢の避難者でいっぱいだった。誰もが表情を失い、茫然とその場に座り込んでいる。

 8階にあるという災害対策本部まで行くには階段しかない。正直なところ、一日中走り回った体には少々こたえる。両膝に手をあて、あちこちの痛みをこらえながら、ひとつひとつ踏みしめるようにして段を上がった。

 (エレベーターを使えない8階の) 災害対策本部の中に一歩踏み込むと、そこは文字どおり戦場のような騒ぎ。市の職員の方たちは、なさしく死にもの狂いだ。水道局、広報課、土木部、住宅局、それぞれのセクションが、机一つずつに張りついている。

 みな緊張でいっぱいの表情。報道関係者も大勢詰めかけている。広いフロアを見渡しても、一人として動いていない人が見当たらない状況なのだ。けたたましい声を上げて電話をかけている人がいる。書類と怒号が休みなく飛び交っていく――。

 市長に出会った。 「大変なことになりましたね」と申し上げる。笹山市長も、「いやあ、大変なことになりました」と、心底お疲れになった様子で答えられた。(※ 隣接の第2庁舎は最初の一撃で6階が座屈してぺちゃんこになっている。)

橋下徹氏は防災理由の反対が強かったにもかかわらず、大阪府知事時代に大阪府庁全面移転の目的で、超高層ビルWTC(現大阪府咲洲庁舎=コスモタワー)を買いました。WTCが建っている大阪南港の咲洲さきしまは六甲アイランドやポートアイランドと同じ埋立地出島です。災害には弱く、遠く離れた2011.3.11.東日本大震災や2018.9.4.台風21号来襲の折に被害が出ました。







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