あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

国立新美術館の「セザンヌ展」を見て

2012-04-16 07:28:08 | Weblog

茫洋物見遊山記第85回


久しぶりのセザンヌだがちっとも心に響かなかった。

この画家はあくまでも理知の人。山や画廊主やリンゴを前にしてキャンバスの上でそれらを一度解体してから、ああでもない、こうでもないと組み立てることに腐心する。

それが悪いというのじゃない。その試行錯誤が稔りにみのって後期印象派から構成主義的キュビズムとやらへの突破口を切り開いたなぞと美術史家が高く評価しているようだが、だからと言って面白くない絵は面白くねえと言おうじゃないか。

私は彼が糟糠の妻を描いた縞模様のセザンヌ夫人(横浜美術館蔵)除いてただの1点も感動しなかった。別に他の海外作品など要らなかったのである。

ああ、冷徹の絵画王よ。貴公の大芸術は遂に余の趣味には相容れぬ塵の山さ。我が家の狭い庭に眠って腹から大島桜を咲かせてくれている愛犬ムクに呉れてやろうとまでは思わぬが、盗んでも持ち帰りたいと願う作品の巡り合えない展覧会ほど虚しいものはない。

かてて加えて本展の照明は最悪じゃ。上方からのスポットライトが画面に乱反射して見難いことこの上もない。この節の展覧会はやたら細かなテーマで会場を細分化して編集することに夢中になっているようだが、そんなことは迷惑千万。すべて製作年代順に普通に陳列せよ。いったい学芸員はどういう仕事をしているのか。


               100点のセザンヌより1点のアンリ・ルソー 蝶人

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東京国立近代美術館の「ジャクソン・ボロック展」を見て

2012-04-15 08:15:52 | Weblog


茫洋物見遊山記第84回


いわゆる「アクション・ペインティング」の元祖の作品が60点以上も見物できるというので竹橋まで出かけたら、金曜の午後だというのに人影もまばらでありました。

やはり世間の人は上野公園のパンダや桜見物には繰り出してもアメリカ人の酔っ払いの抽象表現主義の作品なんて見たくもないのでしょうね。

ハンス・ネイムスによって撮影された製作中のライヴ映像を見ると、ボロックは庭に置かれた巨大なキャンバスに向かって結構激しく塗料を垂れ流したり刷毛で殴り描きしたりしているのですが、完成された作品を見るとそういう現場の乱暴さや粗暴さはどこかに消し飛び、いくぶんかの不穏さを背後に秘めながらも、見えない神知によって整然と区画された秩序のようなものを感じるから不思議です。

アクションといわんよりは、恐るべき孤独の世界で金色の沈黙を守っているペインティングでした。
一方における人為的芸術行為と他方における非人間的偶然性とが奇跡の融合を遂げて、ここに前代未聞の複雑さと単純さ、醜さと美しさを兼ね備えた前衛美術が誕生したのです。

しかし画面全体を強烈な色彩と綾模様で制覇した時価200億円の最高傑作をしばらく眺めていると、絵の焦点がどこにもないものだからだんだん不安に駆られてくる。

私はいくら金があっても、またいくら値打ちのある傑作であっても、こういう不気味な代物を家の中に飾っておこうとは思いませぬ。それはかのメキシコの壁画が与えるめまいと吐き気に限りなく近いものを放散して已まないのです。

余りにも短すぎた生涯の最晩年に、ボロックはこの一斉風靡した一点突破全面展開画法を急転させて、黒一色の抽象画を描きはじめたようですが、どこか一休の書や白隠の禅画を思わせる東洋的な古淡の味わいこそは、私が彼にひそかに求めていた理想の画境でした。


その男尾籠なれどもぐぇいじゅつ家 蝶人
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ボストン美術館「日本美術の至宝」展を見て

2012-04-14 08:33:03 | Weblog


茫洋物見遊山記第83回


といっても米国のボストンまで行ってきたわけではありません。櫻満開の上野の東博平成館でつらつら見物したのです。

そこにはかの岡倉天心やフェノロサなどが本邦からせっせせっせと持ち運んだ国宝級の仏像、仏画、絵巻物、中世水墨画から近世絵画、染織、刀剣がワンサと並んでおりましたが、私の目をくぎ付けにしたのは、やはり「吉備大臣入唐絵巻」と「平治物語絵巻」でありまして、とりわけ後者の猛火と群衆の動的描写にはほとほと感嘆、二嘆、三嘆いたしました。

お次は長谷川等伯六八歳最晩年の傑作六曲一双の「龍虎図屏風」の圧倒的な壮観で、尾形光琳のポップモダンな「松島図屏風」も相変わらず良かったが、芸術の品格からいえばやはり等伯に軍配が挙がるでしょう。

それよりなにより奇想の芸術家と称される曽我蕭白の作品がなんと一一点も並んでいるのは春の珍事、驚異の眼福と言わずにおらりょうか。どれもこれも素晴らしいが、吾輩が一等感涙にむせんだのはやはり宝暦一三年制作の「雲龍図」で、真ん中の胴体が欠落しているのがいささか無念ではあっても、この気宇壮大なること空前絶後の恐るべき頭と尻尾をいつの間にか両の掌を合わせてつらつら眺めているうちに、嗚呼、ありがたや有り難や、あろうことか涙さえ流れてくるではありませぬか。

こんな世紀の逸品をどさくさまぎれに太平洋の彼方まで運び去ったウイリアム・スタージス・ビゲローは思えば小憎たらしい男ですが、当時の日本人なぞ及びもつかない目利きだったことが痛いほど分かります。これこそ日本芸術の最高峰であるのみならず、世界美術の最高傑作というても間違いないでせう。



                  気が付けば花散里となりにけり 蝶人

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内田樹&中沢新一著「日本の文脈」を読んで

2012-04-13 07:19:37 | Weblog


照る日曇る日第509回

 新進気鋭、というよりは今や論壇の主流に躍り出て大活躍の「男のおばさん」によるアットホームな雰囲気の対談集である。

3.11の大震災が来るまでは「日本の王道」というタイトルで出版されるはずが、内田の提案でこともなげに急遽「文脈」に変更したというのであるが、ここら辺は「武士」への憧憬を隠そうともしない現役武道家の抜く手も見せぬ早業を感じさせる。

 私はこの文武両道、日猶兼用の思想家が唱える師レヴィナス譲りの「始原の遅れ」哲学とか、「すべての人間的営為は「贈与と反対給付」よって構成されている」などという学説には俄かに同意できないが、彼が中沢選手と共に推奨している「廃県置藩」は大賛成だ。

官僚統治の効率化をめざして急速に膨れ上がる中央集権的共同体を破壊的に再分化して司法・軍事・行政区画を再び江戸時代の藩の状態に復元したり、あるいは吉里吉里国のように三三五五自立独立化すれば、昨近の無責任政治やアホ馬鹿白痴市民の大増殖にも少しは歯止めが掛かるだろう。

沖縄にしてもヤマト&アメリカ両国と一日も早く手を切って非武装中立の新琉球国を旗揚げすれば、彼らの米軍基地問題は速やかに解決するに違いない。もし衆議一決すれば、日本やアメリカや中国やロシアや北朝鮮やインドやイスラエルやイランと張り合って核武装するも諸君の選択肢の裡にある。

 それはともかくこの座談の中でいちばん面白かったのは能の話で、バレエの主役が舞台で死んだら公演は中止になるが、能の舞台では最後までやる。シテが死んだら後見が死体を「切戸口」から出して代わりに舞うことになっているそうだ。 

能は死霊たちが出現する芸術であるとは承知していたが、「切戸口」は老子のいう「玄牝の門」(子宮口)であり、その対極線にある目付柱がファロス(男性器)であるとは知らなんだ。これを要するに、能舞台とはラカンがいう穴のあいた三間四方の無限宇宙であり、生(性)が、死霊と激しく交感するエロスの殿堂なのであった。

 
                   桜万朶関東平野駆け巡る 蝶人
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鈴木杜幾子著「フランス革命の身体表象」を読んで

2012-04-12 08:48:31 | Weblog


照る日曇る日第508回


ジェンダーから見た200年の遺産という副題が付されているように、これは人類の半分が女性である以上、美術史学もまたその事実を尊重すべしと断言する、新古典主義について造詣の深い著者に因って執拗に掘り起こされたフランス革命時代の絵画や彫刻、建築、図像等の新解釈である。

これまでの美術史はそこで出現する身体について男女の性差を考慮に入れず、いわば「普遍的なもの」として取り扱かわれてきたことに激しく異議を唱える著者は、あえて女性の観点に立った身体論の適用に因って「フランス革命史の一点突破全面書き換え作戦」に挑戦しているともいえよう。

著者が解き明かすように、ダヴィッドの代表作「マラーの死」においては、美しき女性暗殺者コルデーの姿をあえて画面に登場させないことによって、当時既に身体的にも経済的にも政治的にも限りなく死に瀕していたジャコバン派の醜男を、一挙に「不滅の男性革命家」に引き上げる政治的役割を果たしたし、ロマン派の曙を告げたドラクロワの「民衆を率いる「自由」」に描かれたもろ肌脱ぎの女神は、「自由」という観念に導かれてバリケードを越えて進むパリの、なんと「男性」!を描いているということになる。

著者がいうように、自由、平等、博愛を標榜して民衆が武装放棄したフランス革命の初期には民衆の女たちが大活躍を遂げたにもかかわらず、彼女たちはすでに革命の最中に男性革命家たちによって抹殺され、美術に登場するのは「現実の男たちと抽象的な女の凍った身体」に過ぎなかった。

このように栄光の大革命は、男が外で活躍し女は家庭内でそれを優しく支えるという男女の役割分担システムの草創期であり、その本質は「女性不在の男性革命」であったとする著者の見解は、事の真相の一端を鋭く剔抉するものではあるが、来たるべきフランス革命美術史は、男性性と女性性を止揚した男性女性性の統一的視座の元で書かれるべきではないだろうか。

男性性に依拠した美術史が女性性を武器にした新美術史によって駆逐された暁には、その双方を弁証法的に止揚し終えた男性または女性、あるいは心身ともに両性を兼備した双方向トランスジェンダーたちの手で「次代の新々美術史」が編纂されるに違いない。


               ダルが投げイチローが打つ愉楽哉 蝶人
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ドナルド・キーン著作集第1巻「日本の文学」を読んで

2012-04-11 09:07:10 | Weblog


照る日曇る日第507回&バガテルop151

せんだってキーン翁は、晴れて我らが同胞の一員となられた。これについてわたくしは北区西ヶ原の区役所が小さな花束を贈ったことは知っているが、その他からあまり歓迎の声が掛からないのはいかなる仕儀であろうか。

わが国はアメリカなどと違って二重国籍を許さない偏狭な国家なので、すでに老境に達した異国の人が、いかに日本および日本人を愛しているとはいえ、大震災で来日に二の足を踏む外国人や原発被害で南西日本や海外に逃げ出す日本人も多い中、愛する母国アメリカを捨ててまで東洋の島国に骨を埋める決意を固められたことについて少しは思いを致し、江湖の声をひとつにしてその勇気ある決断を称えてもよいのではなかろうか。

さりながらめでたく帰化して「かけがえのない日本人の宝」のとなられたキーン翁から、改めてわが国の古典文学についての話を聞くことは、さしたる愉しみなき境涯の身のわたくしにとって、またとない悦びであった。

本巻では吉田健一の訳した「日本の文学」を皮切りに、篠田一士訳の「日本文学散歩」、大庭みな子訳の「古典の愉しみ」、そして全国各地で日本語で語りかけられた文芸講演、エンサイクロペディア・ブリタニカに掲載されている「日本文学」の英語解説まで、じつに多種多様、バライェティに富む本邦の文学、小説、詩歌、演劇などの論考や随想が載せられているが、執筆年代が少し古いにもかかわらず、いま読んでもどれも新鮮で面白い。

とりわけ「日本文学散歩」出てくる大村由己、細川幽斎、木下長嘯子、宝井其角、平田篤胤、大沼枕山、仮名垣魯文などの諸氏の文芸事績とその作品評価は、彼らについて暗いわたくしには初めて聞くことばかりで勉強になった。

芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」について、「イ音」が多いことに注目し、芭蕉はこれがセミの鳴き声に似ていることを知って意図的に詠んでいると指摘しているのも興趣深いが、ここからその時に鳴いていた蝉が、アブラゼミでもクマゼミでもヒグラシでもミンミンでもなく、ニイニンゼミであることを改めて認定できよう。

NYのメットで「アイーダ」の終幕のリハーサルをしていたトスカニーニが、主役のソプラノに「そんな悲しそうに歌うんじゃない。これは生涯のうちの喜びの瞬間なんだ。喜びをもって歌いなさい」と指示するのを聞いた瞬間、「これこそは近松の心中する主人公たちが考えたことだ」とつい思ってしまうのが、ドナルド・キーンという人なのである。

キーンさん、日本人になってくれてありがとう! 蝶人

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ジョン・ヒューストン監督の「黄金」を見て

2012-04-10 08:43:15 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.226


1948年製作のアメリカ映画で、黄金の欲に取り付かれ常軌を失った貧乏な浮浪者をハンフリー・ボガードが熱演している。

舞台は1920年代のメキシコで一攫千金を狙うアメリカ人の山師がメキシコ人の山賊や軍隊や現地人の目をかいくぐって暗躍するのが見どころである。

ボガードは老齢のヴェテラン、ハワードとたまたま知り合った文無しカーティンの3人組で山奥に入って首尾よく黄金を探しあてたが、その性もっとも不純にして善良な仲間たちに疑心暗鬼を抱き始めるのだが、これはボガードならずともこういう状況では誰もがこうなるのかもしれない。

そんな形で人間心理の魔に迫るジョン・ヒューストン監督の父親ウオルター・ヒューストンが、非常にいい大人の味わいを出している。


櫻見るなんの己が櫻哉 蝶人
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小林正樹監督の「人間の條件・第6部 曠野の彷徨篇」を見て

2012-04-09 07:17:34 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.225

 逃亡兵を引きつれて秋深い旧満州を放浪する梶は、一人の老人(笠智衆)に率いられた女たちが住む家を見出す。その夜寄る辺なき女性たちは自らの身体を開いて男たちを招き入れたが、高峰秀子扮する人妻の誘いを、梶は断って独り朝を迎える。

 翌朝やって来たソ連兵たちを前にして梶たち日本兵は投降して捕虜となったが、ここも安住の場所には程遠く、誇り高い我らが主人公は森林鉄道の強制労働に駆りだされるが、その間に息子のように可愛がっていた新兵(川津祐介)を執念深い旧敵(金子信雄)のために殺されてしまう。

 怒り狂った梶はその伍長を殺してから収容所を脱走し、雪降る荒野の涯に小さな白い丘となって斃れる。最愛の妻美千子の名を呼びながら……。

 まことに残酷で可哀想な最期を遂げた梶ではあったが、内務班の暴力に耐え、戦場の露と消えずにここまで逃げおおせたのであれば、ソ連兵のイデオロギー攻勢になんとか耐えて、最悪はシベリア送りになったとしても命だけは取り留めて帰国出来たのかもしれない。

 ともあれ、人々の平穏な暮らしのかけがえのなさを奪い去る戦争の過酷さと愚かさを思い知らしめる比類なき反戦連作映画として、その表現技法や俳優の演技をうんぬんする以前に大きな推奨に値するだろう。


いいねいいねと内輪褒めしているうちに沈没していく私たち 蝶人
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小林正樹監督の「人間の條件・第5部死の脱出篇」を見て

2012-04-08 06:28:44 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.224

 梶は生き残りの部下たちと共に妻美千代の住む方角をめがけて脱出行を試みるが、途中でソ連兵の斥候と遭遇したためにやむを得ず彼を刺殺してしまい、血に染まった右手を何度も見詰める。彼には何の恨みもないが、梶は自分が生き延びるために人を殺してしまったのである。

やがて梶は、ちりじりばらばらになった兵や民間人の逃亡者と一緒になり、喰うや喰わずの生き地獄の森の中で多くの犠牲者を出しながら辛うじて脱出したが、ようやく見つけた農家で、梶に好意を抱いていた娼婦(岸田今日子)を現地人に殺されてしまう。

彼等の急襲から逃れて偶然社会主義者の丹下一等兵(内藤武敏)と再会した梶だったが、あくまでもソ連を理想化する丹下との間には次第に溝が出来ていく。やがてまた逃亡する邦人女性の一行と出会った梶は、いたいけな少女中村玉緒の処女を仲間の兵たちに蹂躙されてしまうのであった。

本作品ではヒューマニストであるのみならずフェミニストでもある主人公の正義感振りが力強く表現されている。当時梶のようにそれなりに民間人を保護誘導し、食料を分け与えて人間並みに取り扱った兵隊が果たしてどれくらいいたのだろうか。甚だ疑問である。


俳諧を第二芸術などと侮蔑した男ももう死んだ 蝶人
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小林正樹監督の「人間の條件・第4部戦雲篇」を見て

2012-04-07 09:14:23 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.223


退院した梶が所属した部隊にいたのは、彼のかつての同僚影山少尉だった。影山(佐田啓二)は上等兵になった梶を初年兵教育係に任命して引きたてようとするが、部下を殴らず温情主義で育成しようとする梶は古兵たちの敵意と反感を買い、猛烈なしごきにあう。

仲代達也の証言によれば10名の古兵は本気で彼をぶん殴り、血にまみれ腫れあがった顔面をカメラマンの宮島義勇はいそいそと撮影したそうである。

古兵たちとの対立が決定的な局面を迎えることを懼れた影山は、梶を前線の別部隊に移すが、その間にソ連軍に急襲された影山とその部隊はほぼ全滅してしまう。

やがて梶の小隊にもソ連軍の戦車が襲いかかるが、自衛隊の戦車を使用した戦闘シーンは身の毛もよだつすさまじさで、梶が初年兵をひきずりこんだタコつぼの頭上を戦車は間一髪で通過していくのだった。


            フクシマの惨禍再来を待つと言うのか稼働を急ぐアホ馬鹿民主党 蝶人

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小林正樹監督の「人間の條件・第3部望郷篇」を見て

2012-04-06 09:24:26 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.222

大卒の満鉄エリート社員でありながら2等兵として営倉に放り込まれた梶は初年兵としての過酷な任務に耐えながら帝国陸軍のおそるべき非人間性と直面していく。この極限の世界では異端の思想者と肉体的精神的な弱者はますます差別され過酷な取り扱いを蒙るのである。

ちなみに梶役の仲代達也は監督小林正樹の命で大船撮影所で1ヶ月間の初年兵教育を受けたそうだ。軍隊経験のあるリアリストの面目が、ここでも遺憾なく発揮されている。

しかしこの映画では、千里の道を遠しとせず兵営に駆けつけた美千子が梶と物置小屋で一夜を共にするが、当時いくらなんでもこういうことをする女性はいなかっただろうし、上層部がこういう温情で2人に配慮するようなこともなかっただろう。原作と映画の虚構に違いない。

梶と同期の小原2等兵(田中邦衛)は行軍に遅れ便所で自殺するが、もし私が当時この年齢で兵隊に取られたとしたら、きっと小原と同じ状態に追い込まれていただろう。

梶と思想を同じくする新城1等兵(佐藤慶)は隙をついて国境の彼方に脱走を図る。ソ連への過大な幻想を描く新城と疑問視する梶の違いがここで表面に出たが、新城の逃避行を成功させるために、梶は新兵を暴行する吉田上等兵の追跡を阻止し結果的に彼を死に追いやる。

負傷して入院した梶は看護婦(岩崎加根子)とほのかな慕情を交わし合うのだが、やがて運命は彼をもっと過酷な死線へと押し出していくのである。


       稼働基準の前に原発容認否認を国民に問えどぜう政権 蝶人

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小林正樹監督の「人間の條件・第2部激怒篇」を見て

2012-04-05 07:29:36 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.221


部下の陰謀に因る工員と陳(石浜朗)の鉄条網感電死事件に続いて、7人の脱走者をめぐる処罰事件が引き起こされ、ヒューマニスト梶は最大の窮地に立たされる。

梶がいくら良心的な個人として振舞おうとしても、彼が支配者の一員である限り、己を滅しない限りはその支配に構造的に加担せざるを得ない関係性が冷徹にそびえたっている。

次々に憲兵軍曹渡合(安部徹)の軍刀で斬首されてゆく無実の工人を目の前にして、梶はついに立ち上がる。その決死の反抗に呼応した捕虜たちの身を呈した抗議によって、処刑は3人目の高(南原伸二)を終えたところで中止になったが、梶は憲兵たちの惨たらしい拷問を受け、ようやく帰宅を許されたものの、所長は当初の約束を反故にして召集令状をつきつけたのだった。

己の保身のために権力の走狗となる所長の老獪さと厭らしさを、三島雅夫が好演している。



明日は各地で落雷があるでせうと嬉しそうな顔で予報するなお天気男 蝶人
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小林正樹監督の「人間の條件・第1部純愛篇」を見て

2012-04-04 13:31:39 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.220

五味川純平の原作を映画化した第1作では、主人公梶の満州老虎嶺鉱山における苦闘を描く。満鉄調査部における机上の空論を過酷な現実に適用することになった梶(仲代達矢)は、現地の鉱山労働者のみならず、上司や同僚、部下、現場監督の抵抗と軍の介入のはざまで苦悩する。

強制労働と搾取に苦しむ工人の労働条件を緩和することによって労働力を向上させようと図る梶だったが、そこに北支から大勢の捕虜が送りこまれ、更に2割増産の命令が下され、理想主義者の梶は新婚まもない妻美千代(新珠三千代)との関係もぎくしゃくしてくるのだった。

佐田啓二・有馬稲子・淡島千景・南原伸二・山村聡などの当時の人気俳優が続々登場するが、娼婦の元締めを演じる淡島千景が妖艶で有馬稲子は陰が薄い。常に力みかえった熱演型の梶は私の苦手な役者だがこれが第1作なので我慢して見物。さすがに山村聡の演技はスケールが大きい。


論理学専門の学生部長神沢惣一郎氏大衆団交で論理が破綻 蝶人

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オリヴィエ・ダアン監督の「エディット・ピアフ 愛の讃歌」を見て

2012-04-03 12:53:37 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.219

名高いシャンソン歌手のあまりにも数奇な生涯をさまざまなエピソードを交え、時系列を無視した回想録風に映像化しています。

オランピア劇場におけるコンサートなどいずれも歌手本人の録音が使われており、「薔薇色の人生」や「愛の讃歌」「私は後悔しない」など彼女の代表作を楽しむことができるのはたいへん結構なこととはいえ、肝心のピアフを演じる役者マリオン・コティヤールの顔が気に食わない。いや、そもそもピアフはああいう顔をしていたのかしら。

昔顔、「顔、顔が嫌い」というエピック・ソニーからデビュー―した新人の作品がありましたが、芸人と政治家は顔がいのち。実際にピアフがあんな顔をしていたか否かは知りませんしどうでもよいことですが、あんなけったくその悪い泣き顔を見ているとこちとらの生きる気力も萎えてきます。

ダアンという監督の力量もいまいちで、往年のおフランス映画の輝きを知る人にとっては無惨というほかはないていたらくの出来栄えです。


われのことを三白眼の狂四郎と言いし男をまだ憎む 蝶人
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エドマンド・グールディング監督の「グランド・ホテル」を見て

2012-04-02 13:18:18 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.218

1932年に製作された史上初めてのグランド・ホテル形式による映画。同じ場所に集う多くの人々の諸相を同時進行でスケッチしていく手法が、新しいドラマチックな興奮を生みだした。

従業員を奴隷視する強欲社長やその被害者で余命いくばくもないその企業の社員(ライオネル・バリモア)、泥棒や詐欺で世を渡っている女殺しの「男爵」(ジョン・バリモア)など興味深い人物が次々に登場するが、なんといってもロシアの有名バレリーナ役のグレタ・ガルボの美貌にとどめをさす。社長の秘書役でジョーン・クロフォードは完全な引き立て役に終わってしまった。

ガルボの前にガルボなく、ガルボの後ガルボなし。げにこの人こそ、古今音東西世界第一の大スタアであろう。


朝な夕な母と息子と余に尽くす野菊の如く可憐なる妻 蝶人
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