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「クオリアと人工意識」茂木健一郎

2021-05-09 00:08:52 | 読書
人工知能や人工生命ではない。人工意識だ。
弱い人工知能と強い人工知能というのがある。強い人工知能とは、思考、感性、(人工)意識をもつ。
人間の思考を考えるうえで本質的な言葉の「意味」については、人工知能は直接は扱えない。人工知能は意味を考えて判断しているわけではないということだ。
ペンローズの考えは「意識」がなければ「理解」もなく、「理解」もなければ真の「知性」もないという考え方。
知性には集中力が必要という考え方。人間は四六時中考えていることはできない。しかし人工知能は身体を持たない故、絶え間なく計算をし続けることができる。
万物の理論は強い力、弱い力、電磁力、重力の統合だけではなく、意識を含めたものであるだろう。
知性と意識は一枚岩ではない。感覚的にはそれは理解できる。だが、もし知性がない場合、どのように意識は、自身を意識と理解できるのか。
「いきいき」としているというものが意識を持っていると考えられる。としているが、そこは納得ができない部分。
自由意志の意味を勘違いしていたか。自由意志とは自分がそうしたいと思ったようにそう行動できるということではないか。自由意志がないというのは、自分がこうしようと思って取った行動が実はそうなる運命だったというようなことかと思った。
眠る前の自分と、目覚めた後の自分はなぜ同じなのか。これは面白い思考実験。
しかし、理解できないところもある。眠る前と目覚めた後で同じ場所にいることで眠る前と後で同じ自分であると自覚するという話だ。眠っている間に別の場所に運ばれていたら云々。ただ、それ以前にこの[意識の科学に対して視覚を持ち出すところに違和感を感じる。例えば視覚異常者の場合、どう説明するのだろうか。見えないからと寝る前と目覚めたあとの違いを視覚によって認識できないからと言って、眠る前の私と、目覚めたあとの私が別々とは思わないだろう]←と言いたいわけでもないようだ。
そこから拡張して、赤ん坊のときはなぜ意識がない(または意識が薄い)のに、年齢を重なるにつれて意識(がある)と感じられるようになるのか。ただ記憶力の問題なのか。赤ん坊のときは今と同じレベルの意識があるが、記憶力や思考能力がないから、意識を持っていると感じることができないだけなのか。
読んできて、終盤に近づくと、脱線や例え話、ただの蘊蓄のひけらかしではないかと思える文が多くなってくる。確かに作者は現在は研究もしていないようだし、サイエンスライター的になっている気がする。研究して新しい知見は得られていないと言うならそれはそれでいい。しかし、様々な思想を引用してそれを自分の考えに落とし込まなければただの情報提供でしかない。作者のハードプロブレムに対する考えが知りたい。
結局人工知能が発展していくと、いつか人間の知能を超える(シンギュラリティ)ときが来る。そして同時に意識を持つのではないか、さらにそのことによって人工知能に人類が抹殺させられるのではないかと懸念されていることに対して、「そんなことは起こり得ない」と否定し、安心させようという。SFチックな義侠心としか見えない。私達が知りたいのはそんなことではないのだ。
作者は理研で脳科学を研究しているときにハードプロブレムやクオリアに興味を持ったと自分で言っているが、いつもその問題そのものに突っ込んだことがないように思える。芸術やひらめきといったものに逃げている気がするのだ。
エピローグの寸劇に言いたいことが少し書かれていたようだ。この世に意識は1つしかない。ただそれが分割されているだけで、それが我思う我なのだ。ある種アカシックレコードのようなものだろうか。作者が例えて曰く、これはこの世界の電子はなぜ全て同じ質量なのか。それは電子が1つしかないから、と解説するが、そちらはどういうことか理解できない。まあ意識が1つということが作者の結論とは思えない。ただ意識がこの世に1つしかないというのは、自分もそうではないかという考えの1つだ(あくまで選択肢の1つであってそう考えているわけではない)。但しこれとて意識のハードプロブレへの言及ではない。意識とはこんな形をしているのではないか、というだけの話だ。私が私と感じるこの感覚の正体は何なのか。ということにはたどり着いていない。
茂木健一郎にせよ、天外伺朗にせよ、近々意識の問題は解決するかもしれない、と楽観的だが、それ以後何の進展も見られないのが歯がゆい。
 
20210410読み始め
20210509読了