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邪馬台国問題で短里説はこじつけだ(-_-)/~~~ピシー!ピシー!

2019-12-02 22:58:56 | 古代史
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科学の目で見た「魏志倭人伝」の「短里」 永井正範
37,527 回視聴•2015/05/26 Natou Takeo@YouTube

久留米大学「公開講座」2015年5月9日に於ける講演
邪馬台国短里、長里論争は古くて新しいものですが、ギリシャのエラトステネスにまで遡り短里であった事を証明した短里説の決定打


邪馬台国問題で短里説が登場したことにより、研究者が自説に都合の良いように行程記事を解釈できる、その枠が広がってしまい、更に混迷が深まったようだ。

邪馬台国問題が収拾つかなくなった最大の理由の一つがこの短里説なのだ(;一_一)

天は円く広げられた傘のようであり、地は方形の碁盤のようであると考える蓋天説(がいてんせつ)が発生した紀元前2世紀ころに古代中国の数学書「周髀算経(しゅうひさんけい)」が成立したと言われる。その中に一里の距離を定義する「一寸千里法」が紹介されている。夏至の南中時に、鉛直に立てた8尺(80寸)の表(測量用の棒)が作る影の長さを基準にして、南北に同じ表を立てた時の影が基準と1寸の差が生じる地点までの距離をそれぞれ千里としている。以下に1寸千里法の図解を引用するが、これによると洛陽付近で1里76~77mとなる。古代中国から普通に使われてきた長里(どの時代も300歩が1里、1歩は左右の足を1回ずつ出して歩く距離)は時代によって多少距離が異なるが、1歩を1.5mとすると1里は450mなのだ。

一日千里を走る馬の存在を短里で計算して納得するなど噴飯ものなのだ(*^▽^*)


周(春秋・戦国)では1歩は8尺(「史記」による)、その後の1歩は6尺。



谷本の図解(図 1)は 1 寸千里法の記述を現在の知識に当てはめたものである.この計算には三角関数表が必要である.地球半径 R=6357km を導入すれば、周の陽城(洛陽付近)で 1 里=76~77m となる.子午線の緯度 1 度を 110.94km としても同じ結果が得られる.漢・魏・晋代の普通の里(405~435m)と比べると魏志倭人伝の「里」はその 1/6 程度であり、その「短里」の根拠が 1 寸千里法で示されているとして注目を浴びた.しかしこれは半沢(2011)が指摘するように、蓋天説による説明とはなっていない.

半沢の図解(図 2)では、原典どおり「地は水平」としている.太陽が直上にある北回帰線(周髀算経では内衡)から後棒(洛陽)までの距離を x+1000、南に千里(y)の点で、日影長はそれぞれ 16 寸(洛陽)、15 寸とすると、H=80000 里、x=15000 里となる.すなわち洛陽から北回帰線までの距離は 1.6 万里、太陽の高さは 8 万里となり、記述に合う.計算方法は後述の「補」で述べる『海島算経』の例題 1 に準じる.

天動説である蓋天説には当然のことながら、矛盾点が多い.主な事項は日出・日没現象の説明、太陽までの距離が時刻と季節によって大幅に変わるのに太陽の視直径が一定であること、などなどである.地を水平としているので遠距離の山が麓から見えなくなることも認識されていない.中国の宇宙観として蓋天説と対立する渾天説では天は球とするが、地はやはり水平とするので、同様の難があった.渾天説では太陽が夜間に地の下を巡ることを最後まで説明できなかったとされている.地が球であることを知ったのはヨーロッパ人(宣教師)が東アジアに来るようになってからのことである.
(野上、pp.1-2)(注)



最初の動画に2回もコメントしたが、2回目のコメントがどういう訳か表示されないので、以下に書きます。

三国志では韓伝と倭人伝を除いて全て一複歩(左右の足を一回ずつ出して歩く距離)を基準とする長里で測られていますよ!

例えば洛陽と遼東の間1740キロは四千里(魏の一里434m)と正しく書かれてます!

長里が使われたのは始皇帝の趣味でなく、実務上の理由でした!

倭人伝と韓伝で短里が使われているのならば

帯方郡治から末盧国まで各区間の実距離で得られた一里当たりの距離と短理とのズレはほとんどないはずです。

しかし、実際は
区間ごとに相当違いがあり、大体プラマイ30%程度の範囲でかなり誤差があります。

更に、伊都国(三雲)・奴国(須玖)間の18キロが百里という記述は

一里180メートルですから

短里が使われていないのは明らかですね(*⌒▽⌒*)(2019.12.14 赤字加筆)

長里と短里を部分的に使い分ける理由もないでしょう(#^.^#)

韓国と倭国での距離表記は長里でも短里でもなかったという結論です!




距離は方角と同様に単なるつじつま合わせだったと云うことです!

ほとんどの研究者が騙されましたが、

岡田英弘さんが「日本史の誕生」(弓立舎)で指摘したとおり

ある政治的な理由だったのです!


【新説】邪馬台国はここだ!(その2)陳寿の事情



邪馬台国の位置を決定するには、范曄の「後漢書」の記述「女王国から東へ海を渡ること千里余りで狗奴国に至る。」を信じ、狗奴国を考古学成果その他で特定すれば女王国の位置が確定する。従来、魏志倭人伝の記事と異なるために范曄が信じられなかったのだが、范曄が当時の後漢に関する数多くの資料を検討し、5世紀初めの倭王讃の朝貢による情報も考慮して、陳寿の「魏志の筆法」を見抜いた結果なのだ。孫栄健さんは「二十一世紀の私たちが、史書解読について五世紀の范擁より優れていると錯覚するのは、現代人の愚かな傲りだ。当時には当時の文化的世界があり、その体系があったからだ。」と述べている(「決定版 邪馬台国の全解決」言視舎 2018、p.195)。

「魏志倭人伝」の原本は現存していないのだが、それとは異なると思われる版本に「邪馬壱国(やまイチこく、やまイーこく)」とあるので、そういう国が在ると信じておられる方には申し訳ないが、范曄は明確に「邪馬臺国(やまトゥこく)」と書いているのだ。当時の倭人の言葉では母音を重ねることは避けられたので、范曄が正しいことが分かるのだ(安本美典『「倭人語」の解読』勉誠出版 2014,p.13)。現存しない原本が誰かに改ざんされたという説まで登場し、混乱を極めてますね(´・ω・`)



古代史を科学するには?(^_-)-☆


(注)魏志倭人伝では邪馬台国の位置を帯方郡(沙里院付近)から東南万二千里と記述されているが、野上さんは短里で計算すると邪馬台国が宮崎市(12,040里)になると指摘している。弥生後期の大集落西都原までの距離が11,500里で、原田常治さんが神社伝承から導いた邪馬台国なので近い!野上さんは魏使が実際に夏至南中時に表を立て万二千里という距離を報告したと推理している。しかし、魏志倭人伝では、女王国の東へ海を渡って千余里のところに倭種の国が在ると記述されているので、宮崎市も西都原もこの文章に該当しない。長里で1万二千里は5,000キロ以上なので、「『九章算術』の距離に関わる例題には、1 里=405m~435m 程度の漢魏晋代の里の他に、1 里=67.5~72.5m 程度の(短)里が「但書きなしに」使われている.『三国志』にも短里と長里の混用がある.」と野上さんは指摘しており(p.5)、短里を使ったとしたいのだが残念でした。洛陽から邪馬台国まで万七千里にしなければならない事情が陳寿側にあったということなんです。

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