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卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?

2023-09-02 04:08:55 | 古代史
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2021-12-16 21:41:00に記事にしましたが、先月、卑弥呼の墓「三柱山古墳」の遥拝所「ヒカケ三女神社」とその周辺を実際に見てきましたので、この記事の最後に追加することにしました。お付き合いください(#^.^#)

毎度お騒がせしてすんません!卑弥呼の居城(宮ノ原遺跡)と墓などの鳥瞰図を国土地理院の地図の3Dツールでかっこよくできましたので、2021-12-02 20:54:47に掲載した記事にアップします。ここをクリックして、卑弥呼を想いながら動かしてみて色々な角度からお楽しみください(^_-)-☆



卑弥呼が日食のために伊都国男王難升米に殺されたことを確信した場所が、卑弥呼の宮室だった三女神社と同じ名の社(やしろ)でした。宮室の西側の深見川の河原にあります。その北側約450mにある卑弥呼の径百余歩(直径約150m)の円墳を河原から遥拝する頓宮(遥拝所)です。その地名が宇佐市安心院町下毛 字ヒカケとあり、日食(日欠け)を示唆するものでした(卑弥呼の墓は見つかってるよ!)。

さらに遥拝所の直ぐ北側の道路の円墳側に大量の土を盛り上げて、横穴群が作られていました。ヒカケ横穴群です。女神アマテラスの岩戸隠れは卑弥呼が日食のために殺された史実をもとに創作された神話です。わざわざ遥拝できないように土を盛り上げられていますが、後に仁聞菩薩の教団の僧が岩戸隠れを示唆するために横穴を掘ったのではないかと考えています。



この河原の東側の安心院すっぽんセンターの横に、仁聞菩薩が作ったと言われる下市磨崖仏(しもいちまがいぶつ)があります。地元の伝承では、産後に乳の出が悪くて悩む母が不道明王にお粥を供えて、そのお下りをいただいたところ、乳が出るようになったので、「乳不動」「生不動」と呼ばれるようになったとあります。

ここは地図に温泉の印があり、恐らく卑弥呼の時代から河原の露天風呂となっていたと考えられ、入浴中の卑弥呼が刺客に引き出されて、頓宮辺りで殺されたのではないかと想像が膨らみます。頓宮には三女神の墓石とみられる石塔が卑弥呼の円墳を遥拝するように立っています。


そして、前から引っかかっていた西側の摂社の正体がようやく分かりました。二つの鳥居があります。最新のGoogle Mapの写真で、その神額がハッキリ読めました。

ジャン!




向かって左の鳥居の神額に「八束神社」とあり、右が「金毘羅宮」でした。写真をアップしていただいた方には心から感謝いたします。居ながらにして古代史の調査ができますから有り難いことです(*ノωノ)

まず、八束神社ですが、その祭神は「出雲国風土記」の「国引き」に登場する八束水臣津野命(やつかみずおみつぬ)です。国引き神話は記紀には書かれておらず、この神の素性が良く分からないのですが、「古事記」に淤美豆奴神(おみづぬのかみ)が登場し、スサノヲの四世孫で大国主の祖父にあたりますので、この神のようです。

なるほど、それでは、と、さらに検索すると、北九州市八幡東区八束髪(やつかひげ)神社というのが引っかかりました。この神社は、現在は仲宿八幡宮(なかやどはちまんぐう)に合祀されています。約800年の歴史があるとされる祇園祭で巡行される、仲宿八幡宮に奉納される前田祇園山笠(まえだぎおんやまかさ)は、八束髪神社のものだったそうです。そして、「ここは昔、熊鰐(わに)氏の館で陣屋だったところで、そのご子孫の方が宮司をされています。」上のブログにありましたよ。祇園社の御祭神はスサノヲです。やはり、三女神は記紀神話でアマテラスとの誓約でスサノヲから生まれたということですので、表向きは日本書紀に合わせて、ヒカケ三女神社の摂社のひとつとしてたのでしょうが、卑弥呼の出自である縄文海人ムナカタ族の和邇氏もこの摂社に関係しているようですね。

次が金毘羅宮ですから、祭神は大物主、つまり大国主です。三女神との関係ですが、古事記にタゴリヒメが大国主命の妻とされています。しかし、三女神がスサノヲの姫なら大国主と年齢が余りにも離れすぎですし、そうでなくても大国主はスサノヲの直系の子孫ですから、あり得ない、おかしな話です。先代旧事本紀ではタギツヒメを大国主が娶ったとしていますから、これら二柱の女神は取って付けたようなウソ話だと直ぐに分かります。三柱の女神としていますが、それは日本書紀でイチキシマヒメ卑弥呼を隠すために残りの二女神をくっつけて三女神とした秘密を、古事記と先代旧事本紀の編者が上手にバラしているということなのですよ(【検証3】『神宿る島』宗像・沖ノ島の謎)。

いずれにしても、鳥居の型式から考えて、平安時代から室町時代にスサノヲと大国主を祀る摂社を卑弥呼の墓の遥拝所の西側に置かれたものと思われますが、これらを配置したということは、当初は遥拝できたはずの円墳が卑弥呼の墓だと暗に教えてくれているのです。遥拝できなくしたのはその前の奈良時代に藤原氏の命令だったのでしょう。直接円墳を目視して遥拝できないので、卑弥呼の鎮魂のために摂社が置かれたのでしょう。だとすると摂社の原形はすでに奈良時代にあったのかも知れません。

伝説によれば、仁聞菩薩が、養老2年(718年)頃に、国東半島の各地に28の寺院を開創し、6万9千体の仏像を造ったといわれているwiki「六郷満山」にあります。しかし、仁聞菩薩は架空の人物で、八幡信仰と天台修験を融合させ国東半島独自の宗教文化を作った宇佐君の祖の法蓮上人が指導した教団だと分かっています。新羅からの渡来系倭人の辛嶋氏が宇佐周辺で祀っていた原八幡神卑弥呼が藤原不比等によって完全に隠蔽されることを法蓮上人が怖れて、妥協案として八幡大神(当初は大国主、後で大国主の子の応神天皇とされた模様)と八幡比売神(卑弥呼)の合祀を提案し、さらに新羅仏教の弥勒信仰を導入して、大国主の本地仏として弥勒寺(多分最初の神宮寺)で祀ることで不比等の了解を得たと推理しています(「卑弥呼を不比等から護った人物?」)。日本の本格的な神仏習合は日本建国の歴史を葬りたい藤原不比等を説得した法蓮上人から始まったのではないかと考えています。

そして、摂社の左にあまり見かけない高灯篭と呼ばれる、石組みしたピラミッドの頂部におかれた灯篭が見られます。古代の灯台の役割だそうです。日本で一番大きいものが香川県琴平町の27mの高灯篭です。江戸時代に作られたようです。香川県の象頭山に鎮座する金刀比羅宮が金毘羅さんの総本宮です。大国主命と崇神天皇が祭神とされています。底辺が正方形のピラミッドが大国主のシンボルになっているようです。

また、大国主によって殺された尾張王ヲトヨノミコト(記紀では仲哀天皇)の仇討のために九州遠征した、跡を継いだ尾張王タケイナダネノミコト(熱田神宮祭神、記紀では祖父の景行天皇として誤魔化しています)に、大国主は高良山で殺されて祇園山古墳に埋葬されたと推理しています(「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」)。この古墳が、図のとおりピラミッド状の方墳なのです。大国主の墓で間違いないと思います。


(「卑弥呼の墓 候補地 *祇園山古墳」 2019.09.18(水) さくら花花さんのブログより)


実は日本のピラミッドについてはすでに記事にしました。二世紀初頭の奴国のクーデターで殺されたスサノヲ大王の弟ニギハヤヒが広島県庄原市の日本ピラミッド葦嶽山で奴国宮廷楽師の師升たちへの復讐を誓ったと推理しました(「日本ピラミッドの謎?(改訂版)」)。遺骸は葬られていないと思いますが、これがスサノヲの墓です。ニギハヤヒは吉備を平定して奴国を再興し、ヤマト王権の基礎を築いた第19代奴国王天照大神尊です。楯築王墓に葬られ、楯築神社の亀石が人面蛇体でしたので、中国神話の天皇伏羲と同じです。ヤマトの大王が天皇と呼ばれるのは伏羲の子孫の呉王太伯の後裔だと考えられていたからです。

ニギハヤヒ大王が吉備津彦という名前で祀られている備中国一之宮吉備津神社と備前国一之宮吉備津彦神社は吉備中山の麓に配置されています。吉備中山も綺麗な形をしています。中山の中は那珂・那賀などと同じナーガ=龍蛇神のことなのです。日本中、至る所にある龍(竜)王山と同じ奴国大王を祀る山という意味です。

縄文時代の大湯環状列石がある秋田県鹿角市にもピラミッドがありました。「ピラミッド」の黒又山(秋田・鹿角市)です。スサノヲが縄文海人ムナカタ族の姫伊弉冉尊(いざなみ)の子であることを教えてくれているようです。

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【追加部分】(2023.9.2)
ヒカケ横穴群は恐らく8世紀に藤原氏によってヒカケ三女神社から卑弥呼の墓を直接目視することを阻む目的で土盛りされたところに掘ったと推理しています。ストリート・マップを見ると遥拝所から左手の、現在住宅が建てられている土台の部分の横穴は下に示す横穴よりも後に造られたものではないかと推理しています。その根拠は、この横穴の左側に馬頭観音の石像が見られるからです。上で述べたとおり、ヒカケという地名は卑弥呼が日食が原因で殺害された史実が、記紀神話の女神アマテラスの岩戸隠れのモデルになったことを示唆していると考えられるからです。

そして、馬頭観音は全国では、単に石碑に馬頭観音と書かれたものも見られますが、このような憤怒の形相の観音様は他にありません。wiki「馬頭観音」によれば、11世紀ころから「衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩」ということで仏教寺院で祀られるようになっています。江戸時代以降は、国内の流通に馬が使用されることが多くなり、酷使されて急死した際に供養する目的で置かれることが多くなったようです。



丹後の伝説:40集」に馬頭観音を本尊にしている寺院が三か所あるそうで、若狭で最も古いのは福井県高浜町馬居寺(まごじ、真言宗)だそうです。619年聖徳太子の開基で、大きな伽藍だったそうです。『高浜町誌』に馬居寺の縁起・沿革が紹介されていました。その中に以下のような話が紹介されていました。

東寺文書 「真言宗古義派高野山正智院末馬居寺字上屋敷に在り、寺地百六十二坪、境外所有地五反廿九歩田畑、檀徒六十四人、本尊馬頭観音 堂宇三間三間 門一間五〇とあり。現今の堂宇は延宝五年霜月高森山の木材にて造営、大工高浜江上甚兵衛」とあり又「堂側の小池は、古の放生池にして、中央小島に弁財天を祀れり。」と、此の弁財天今尚存する。-町指定文化財

放生池(ほうじょうち)というのは、捕らえた魚などを放すために設けた池のことで、各地にあります。魚や鳥獣の殺生を戒める宗教の儀式が放生会と言われるもので、wiki「放生会」によれば、インドに起源をもち中国や日本に伝えられたと言います。その日本の中で最初に行われたのが、宇佐神宮のようなのです。「養老4年(720年)の大隅、薩摩両国の隼人の反乱を契機として、同年に誅滅された隼人の慰霊と滅罪を欲した宇佐八幡宮の祝大神諸男と禰宜尼大神杜女による八幡神の託宣により、宇佐八幡宮で放生会を執り行い[6] [7]、石清水八幡宮では貞観4年(863年)に始まり、その後天暦2年(948年)に勅祭となった。養老4年(720年)の大隅、薩摩両国の隼人の反乱を契機として、同年に誅滅された隼人の慰霊と滅罪を欲した宇佐八幡宮の祝大神諸男と禰宜尼大神杜女による八幡神の託宣により、宇佐八幡宮で放生会を執り行い[6] [7]、石清水八幡宮では貞観4年(863年)に始まり、その後天暦2年(948年)に勅祭となった。」とあります。

しかし、wiki「隼人」によれば「隼人が文献上多く登場してくる7世紀後半 - 8世紀代の墓の遺構については、現地九州南部ではほとんど検出されておらず、確実に「隼人の墓」と位置づけられる墓制は、現状では不明といわざるを得ない[39]。」とあり、藤原氏が土蜘蛛や熊襲と同様に創作したもので、大国主配下の縄文系ムナカタ族の人々と推理しています。

弁財天は宇佐神宮の比売大神で宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼のことですから、殺害された卑弥呼の鎮魂のためだと分かります。宇佐神宮の勅使街道に百体神社があり、朝廷軍は勝利の証として百個の首を持ち帰り、この地に埋葬したとありますから、本当は殉葬するために殺された百余名の奴婢を弔うためだと分かりますよ。三柱山古墳の西側の地名が血野(現在、知野)だったのです。戦国時代に安心院氏の若様がそこで殺されたのでこの地名となったとありますが、多くの人々がそこで惨殺されたイメージから付けられた地名でしょう(^_-)-☆

寺社にある放生池にはたいてい小島などがあってそこに弁財天宮か厳島神社がありますよね。富士宮市の浅間大社の湧玉池にも厳島神社ありましたよ。

それで、馬頭観音の話に戻りますが、「馬頭観音の石仏については、馬頭の名称から身近な生活の中の「馬」に結び付けられ、近世以降、民間信仰に支えられて数多くのものが残されている。また、それらは「山の神」や「駒形神社」、「金精様」とも結びついて、日本独自の馬頭観音への信仰や造形を生み出した[7]。」とあります。奥州市駒形神社の祭神は駒形大神で、天照大御神以下6柱の総称ですが、天照大御神=天照皇大神も「山の神」も「金精様」もいずれも大国主命のことですよ。日本で一番人気の神様です。別名や分身は数えきれませんね(詳細はそれぞれ「古代史のカギを握る神々の正体?」、「天狗の正体もヤッパリ」及び「道祖神もやっぱり」参照)。

馬頭観音の印形が石像の場合、定型の馬口印(まごういん)ではなく、いろいろあるようですが、ヒカケ横穴の馬頭観音の印形は、大威徳明王の檀荼印(だんだいん)に似ていますよ(^_-)-☆



しかし、大威徳明王は「【吉野ヶ里遺跡】え?日吉神社ご神体が仏像なの?」で述べたように菅原道真の本地仏です。そして大威徳明王は六面六臂で水牛に乗った形です。牛頭天王スサノヲの本地仏でもありますから、その子孫の大国主命も連想できます。大威徳明王は馬頭観音とは別であることは明らかですが、卑弥呼は大国主のいとこなのです。卑弥呼の怨霊を大国主の力で抑えてもらおうということを、そっとお願いしているのではないでしょうか?つまりこの石像の作者は当然、卑弥呼や大国主の史実を知っているのだと思います。だけどそれを表に出せないので、弁財天卑弥呼とも大国主とも関係のある馬頭観音にしたということではないでしょうか?

そして、この石像がいつ作られたのかですが、それは横に「皇紀二千六百年」の石碑があるので、多分1940年(昭和15年)ではないかと考えられます。ということは、やはりこの地区には史実を知っている方が居そうですよね。いや具体的に言うのは憚れますが、きっといると思います。ぜひ、地元の伝承をお教えください(#^.^#)


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