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【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その20)神仏習合の発祥地と言われる宇佐のなぞ?

2022-09-10 23:15:17 | 古代史
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7.記紀と日本人の信仰の謎
⑥神仏習合の発祥地と言われる宇佐のなぞ?




なぜ宇佐八幡神宮や宇佐の地に多くの謎があるのでしょうか?

初代天皇が神武天皇ならば、東征で最初に立ち寄った宇佐の地は母の玉依姫が亡くなり、祀られている地ということですから(注1)、宇佐神宮に神武天皇が祀られているのならばまだ納得できますけど、なぜ応神天皇なのでしょうか?

宇佐神宮HPによれば、聖武天皇が疫病や社会不安から国を鎮護するための国家的大事業として東大寺を建立しましたが、大仏鋳造直後の天平勝宝元(749)年12月に八幡大神とお供の宇佐宮の女禰宜(めねぎ)大神杜女(おおがのもりめ)が大仏を拝するため、天皇が使う高貴な紫の輿(こし)に乗って東大寺にやってきました。これにより、朝廷から八幡大神に神階一品、比売大神に二品が贈られました(注2)。神輿の発祥とされています。

そして、聖武太上(しょうむだいじょう)天皇、考謙(こうけん)天皇、光明皇太后(こうみょうこうたいごう)の行幸のもと、僧侶5000人の読経(どきょう)、呉楽(くれがく)、五節舞(ごせちのまい)などの法要が賑々しく営まれました。また、三年後の天平勝宝4(752)年に聖武太上天皇・孝謙天皇が大仏殿に入御され、続いて八幡神も入御になりました。そのとき、「神明霊威」により内裏に「天下太平」の文字が出現しました。おめでたいということで、年号を天平勝宝から天平宝字に改元したといわれています(宇佐神宮HPより)。八幡神の大仏建立への協力に対して、朝廷から封戸800戸・位田60町が贈られています。

これらによって、八幡神は一地方神から国家神になったとされていますが、素性の分からない一地方神が来ても多分これほどの歓待や感謝はされないないでしょうに。元々最も重要な国家神だったからだと直ぐに分かりますよ!

さらに、神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣があり大混乱が起こりました。宇佐八幡宮神託事件として知られていますが、なぜ最高神の天照大御神の神託を伊勢神宮に聞きにいかなかったのかと思いませんか?

答えは簡単でしょう!高天原神話も神武東征も藤原不比等の創作だと分かれば、謎はほとんど氷解しますね(^_-)-☆

また天照大御神も神武天皇も実在人物ではないならば、玉依姫も創作ということですが、宇佐神宮の中央の第二殿に祀られている比売大神はだれ?というのも疑問です。ですが、既に比売大神は宗像三女神として伝えられていたので、この伝承からも神武天皇の話も、その母の話も全部ウソだと分かりますが(^_-)-☆

でも、それを声高に言う人もあまりいなかったようです。神道に「神をないがしろにする言葉を発して、神の怒りをかう」ので言挙(ことあ)げしないという話がありますからでしょうか?(注3)

しかし、ウソはウソですからウソの神を敬ってもご利益がないので、当時の朝廷の人々も分かっていたのですよ。神名を藤原氏によって変えられた神様たちの正体を皆さん知っているので、創作された神武天皇ではなく実在人物だった応神天皇を神様として祀っていたのです。

しかし、明治時代に記紀神話に基づく国家神道が創設されて、全ての日本国民に国史教育されたので、記紀が天皇の歴史書だという思い込みのために、こんなすぐに分かるウソ話が放置されてきたということです。ですから、今までの記紀に基づく定説はもう一度根本から見直しする必要があるのです。気が遠くなりそうですが、不比等の目的が分かれば、どの部分が改ざんされたかも推理できるので、一つひとつ考古学や民俗学の成果などの事実と突き合わせて、隠された歴史の真相に迫れることを【刮目天の古代史】で説明してきました。

ですから、多くの日本人の信仰の原点ともいえる八幡信仰の起源と謎の多い宇佐神宮創建について、ここで、考えてみたいと思います。前置きが長くなりすぎましたので、できるだけ要点だけ述べたいと思います。もしも、疑問点がございましたらご指摘ください。

さて、縄文時代から日本列島に住む人々は、数多くの自然災害に見舞われて、大切な肉親を突然喪う経験や、洪水や地震で住まいが壊れたり、自分自身も死にかける経験をしたと思います。なぜこのような酷い目に合わねばならないのか、と考えたと思います。すでに(その18)で見たように、多くの日本人は祖先神(へび神)を敬わず、疎かにしたためと考えたのだと思います。

しかし、必死に祖先神を祀っていても自然災害は起り得ます。そこで、修行によって悟りと共に神の祟りを抑える超能力が得られるという考えが起こったようです。飛鳥時代の行者役 小角(えんの おづぬ)が創始したと言われる修験道です。古来より日本人は神奈備や磐座を信仰していますが、常人を寄せ付けない厳しい山岳に霊的な力が潜んでいると考え、霊山を崇拝する山岳信仰が起こり、霊山での難行・苦行によって悟りが得られると考えたようです。

すでに二世紀後半ころ出雲や吉備を中心とする狗(旧)奴国勢力の間で米神(首長霊)信仰が起こると、最大の崇りを起こす神霊は、最も高貴な神であるはずだという信仰も生まれたと考えられます。(その17)で述べたように、日本建国時代に非業の死を遂げて神格となった卑弥呼・大国主久々遅彦・台与らを朝廷や民間でも最も畏れ敬い祀りました(注4)。それまで多くの人々が祀っていた地の神(祖先神へび神)の信仰も根強くありますが、朝廷が力を入れて祭祀したので、多くの人々もこれらの特別なへび神(龍蛇神)への信仰に変わって行ったようです。龍蛇神(ナーガ)信仰については中つ国神話を(その19)で説明していますので、ご参照ください。

四世紀ころに朝廷で縄文海人ムナカタ族の和邇氏が力を持つようになったので、卑弥呼や大国主・台与とゆかりのある半島南部の倭人が冶金技術や仏教・医術や巫術などを持って福岡県東部から大分県北部に居住するようになりました。スサノヲの王子イタケルの末裔との伝承がある辛嶋氏が宇佐市の稲積山で卑弥呼を祀ったようです。元々は比売神卑弥呼の依代とするために多くの旗を立てて祀ったのでこれを原八幡神と呼ぶことにします。現在でも宗像大社のみあれ祭では、姫神を呼び寄せて神幸するために、多くの船が色とりどりの数多くの旗をなびかせている様子が見られます。

すでに上記の修行僧らが四世紀頃から香春岳や英彦山に入ったと考えられるので、これが日本の修験道の始まりかも知れません。(その16)で述べましたが、豊国奇巫(とよくにのあやしきかんなぎ)が五世紀末に雄略天皇の病気治療で宮中に呼ばれていますので、この頃が仏教公伝の時期と考えられます。七世紀初頭の用明天皇の病気にも豊国法師が参内していますので、かなり古くから豊国には高度な医術を持つ巫覡(ふげき)である僧侶の集団が存在していることが宮中でも知られていたようです。

天武天皇の崩御後、八世紀初頭に権力を握った不比等は、藤原氏が将来も権力を握り続けるために、その出自を隠し、誤魔化す目的で、不都合な日本建国の史実を改ざんし都合の良い神話や歴史を創作しました。たとえば大国主の国譲り神話を創作し、建国の史実を神話に変えてしまいました。そしてそこで活躍させた神々を藤原氏の氏神として春日大社などで祀っています。そして、史実については三世紀後半の建国の戦いとヤマト王権の成立の時代を、崇神天皇から応神天皇の即位までの約三五〇年の話に引き伸ばして歴史を改ざんしました(「え!記紀は天皇の歴史書じゃないのか?」参照)。ですから、建国で実際に活躍した人物らの実名を隠すために、様々な神の名前を創作して、史実を知らない人々に訳が分からないようにしました。特に、大国主を表す神名の数は多過ぎて、ここで書ききれないほどです。

不比等は、和爾氏が近江で卑弥呼を祀っていた現在の日牟禮八幡宮に行って社名を日群社(ひむれのもり)と変えさせています。豊国でも盛んに祀られている卑弥呼を隠すために上記のとおり神武天皇の母玉依姫の話を創作しました。

卑弥呼の死後、大国主久々遅彦が内戦に勝利して倭国を手に入れました。まだ十三歳だった台与を卑弥呼の宗女として外交上倭国女王に立てて、魏を後ろ盾にして狗(旧)奴国と対立しました。大国主が最初に訪れたのが魏志倭人伝で邪馬台国とされた宇佐市安心院町の宮ノ原遺跡です。卑弥呼の宮室が三女神社で、その東側200mに魏志倭人伝にある径百余歩(直径約150m)の円墳があります。大国主は安心院盆地を挟んで南側の共鑰山(ともがきやま、妻垣山)の磐座「一柱騰宮」で卑弥呼を祀りました。そして安心院町佐田の米神山で祖霊祭祀を行い、豊葦原を水田に変えて瑞穂の国を造りました(詳細は(その7)参照)。

そのために、宇佐市安心院町を中心として数多くの遺物や伝承が残されているのですが、それらを消すために不比等がしたことが、原八幡神卑弥呼を先程のとおり神武天皇の母玉依姫とし、比売大神として祀り、大国主を八幡大神として入れ替えました。712年(和銅5年)駅館川左岸に鷹居社を造り、八幡大神を祀りましたが、4年後には小山田社に遷しました。

英彦山で修行をして、当時豊国巫僧集団を纏めていた法蓮上人に不比等が相談して、八幡大神の本地仏を弥勒菩薩として祀ったのが、日本の神仏習合の始まりではないかと考えています(「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」「卑弥呼を不比等から護った人物?」参照)。

720年に日本書紀が完成して、不比等が亡くなった後の八世紀後半に不比等の子供たちが八幡大神を、大国主と台与の子である応神天皇として祀りました。これは米神(首長霊)信仰を利用して大国主を隠したのですが、応神天皇は父である大国主の霊を身に付けているので、応神天皇を祀ることによってその祖霊を祀っているのです(「なぜ皇位継承が男系男子だけなのか?」参照)。

宇佐神宮の歴史年表にありますが、725年に現在の宇佐神宮のある小椋山に一之御殿を建てて祀りました。その際、東側の日足に弥勒禅院が建てられましたが、さらに733年に宇佐寺神宮の境内に神宮寺として弥勒寺が建立され、法蓮上人を初代別当としています。そして、八幡大神の託宣により、二之御殿に比売大神が鎮座することになりました。恐らく辛嶋氏が上記の稲積山から乙咩(おとめ)社酒井泉神社郡瀬(ごうぜ)神社を建てて祀っていたと考えられるので、さらにそこから遷されたものと思います。 765年に八幡大神が勅使に『我は既に共鑰山に示現しているので社殿を設け祀るように』との御神託を下したので、一柱騰宮を奥宮とする妻垣神社が創建されたとの社伝があります。つまり、八幡大神は比売大神卑弥呼なのですよと自ら告白したみたいですね。余りやり過ぎたので、祟りを怖れたのだと思います。宮司の矢野家は藤原氏と伝えられています(矢野武夫「卑弥呼の墓発見」安心院町文化連盟 1931年)。(2022.9.13 赤字追加)

ここでは、記紀とそれに基づく神社伝承を横に置いて、事実から真相を推理していますので、もしも不快になられたらどうぞお許しください(/・ω・)/

(注1)「一柱騰宮」の伝承地がこのブログにあるように三カ所ありますが、上で述べた妻垣神社の本宮が本物です。他の二カ所は藤原氏によって史実を誤魔化すために創られたものと考えています。

(注2)品位は皇族に与えられる特別な神階です。六国史の終了時点で比売大神も、国生み・神生みをされた淡路一宮伊弉諾神宮の伊弉諾尊も一品とされ、備中一宮吉備津神社の吉備都彦命 が二品となっていますが、後に八幡大神と八幡比売神と合わせて四柱全てが一品となっています。品位の神階を持つ神様は四柱だけなのです(その17)にすでに述べていますのでこれを参照すれば不思議でも何でもないのですが、最高神であるはずの天照大御神にも初代神武天皇にも、日本建国で大活躍した英雄の日本武尊(やまとたけるのみこと)にも、他のすべての神様どなたにも贈られていないのです(@_@)

伊弉諾尊に対して、『日本三代実録』貞観元年(859年)1月27日条では、「伊佐奈岐命」の神階が無品勲八等から一品勲八等に昇叙されている。とあります。(Wiki 「伊弉諾神宮」より)
備中一宮吉備津神社の吉備津彦命に対して、以下のように神階が贈られています(wiki「吉備津神社」より)。
六国史時代における神階奉叙の記録
承和14年(847年)10月22日、無位から従四位下 (『続日本後紀』) - 表記は「吉備津彦命神」。
嘉祥元年(848年)2月21日、従四位上 (『続日本後紀』) - 表記は「吉備津彦命神」。
仁寿2年(852年)2月20日、四品、官社に列す (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「吉備津彦命神」。
仁寿2年(852年)8月27日時点、四品 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「吉備津彦命神」。
天安元年(857年)6月3日、四品から三品 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「吉備津彦命神」。
天安3年(859年)1月27日、三品から二品 (『日本三代実録』) - 表記は「吉備都彦命」。
六国史以後
天慶3年(940年)、一品


(注3)言挙げについては、以下に示す柿本人麻呂の歌(万葉集 第13巻 3253番歌)が知られています。
 
葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 しかれども 言挙げぞ我がする 言幸(ことさき)く ま幸(さき)くませと 障(つつ)みなく 幸(さき)くいまさば 荒礒波(ありそなみ) ありても見むと 百重波(ももへなみ) 千重波(ちへなみ)しきに 言挙げす我れは
訳: 葦原(あしはら)の瑞穂の国は神の国柄として言葉に出して言いつのらないのですが、私は申し上げます。言葉に出してご無事でと。ご無事でいらっしゃいませと。何事もなくご無事でいらっしゃって、変わらぬ今の姿のままお逢いしとうございます。荒磯に寄せる百重波千重波のように幾度もご無事であれと言葉に出して申し上げます。

刮目天も不比等にたぶらかされて日本が壊れないようにするために、古代史の真相を探求していますので、無作法をお許しください(/・ω・)/

(注4)3世紀後半に日本が建国されて、最も活躍した尾張王建稲種命は大国主に殺された父オトヨ命を祀りましたが、後に日本建国の史実が不都合であった藤原不比等の命令でカグツチとして秋葉神社で祀るようになったと推理しています。同様に上記のとおり、四世紀から朝廷で力を持った卑弥呼の一族である和邇氏が卑弥呼と卑弥呼の弟赤坂比古を近江八幡市で祀っていましたが、祭神名と社名まで変えられてしまいます。和邇氏やゆかりの人々が四世紀から六世紀に祀っていた卑弥呼を不比等によって宗像三女神とされ、赤坂比古は日食に因む神名から日触使主(ひふれのおみ)と変えられたと推理しています。

【関連記事】
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通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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2 コメント

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こんばんは (morkohsonimap)
2022-09-11 03:14:40
なんの学術的根拠もなく、ただただ現地の雰囲気から宇佐を邪馬台国って感性だけで信じてる私にとって
今作は実に楽しい考察でした
いやここまで言われると何も言えない自分と自分の感性だけを信じてる自分の直感をもっと研ぎすませていこうって思う次第です

不比等だけでなく聖徳太子も絶対に噛んでいなければこうはいかないと思う直感もあるんですが・・・

まさに検証と考察の裏付けを刮目天さんがしてくださってて
実に心強いものを感じております。
Re:こんばんは (刮目天 一(はじめ))
2022-09-11 08:59:46
おはようございます。さっさと寝てしまったので、お返事が遅くなりました。
いつも、とてもいいコメントを頂戴して嬉しい限りです( ^)o(^ )
ほぼ定説をひっくり返すわけですから、嫌われることを覚悟でやっていますが、ご理解いただきとても心強いです。
聖徳太子の欺瞞は関裕二さんを読んで知ったことで、不比等の目的を徹底的に推理したのです。考古学の成果を整理するのはとても時間がかかる作業でしたが、データー整理は長年の習慣でしたので、楽しみながらやることができました。思った通りの結果が出ると走り回りたくなりますね(^◇^)
どうもありがとうございました(*^▽^*)

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