母が、25日静かに旅立ちました。
以下、葬儀の際の主な挨拶です。
「母は、青森県鯵ヶ沢町の出身ですが、縁がって父と知り合い、
私たち兄弟をこの一関で大切に育ててくれました。子供のころは、
東地主町の千鳥旅館さんの貸家で暮らしました。当時は、2件の
畳屋さんや左官屋さん、豆腐屋さんやお店屋さんがあり、近くには
大工の棟梁さんも暮らす昭和の良き時代を思い起こさせる町でした。
何よりも感謝するのは、今日お集まりの皆さんはよくご存知とは思い
ますが、親兄弟、親戚も親類もいない中で、母は一人で子育てをしてきました。
いつも、思い出されるのは、あの町で私たちを大切に育ててくれた大家さんの
ばばちゃんの優しさ、近所のおばあちゃんやおじいちゃん、おじさん、
おばさんの事ばかりです。私たち二人の兄弟、親子は本当に人情味
あふれる良き時代によい場所で、育つことができたなぁと思っていますし、
この一関の多くの皆さんに育てられた事を感謝してきましたし、これからも
そうしていきたいと思っています。
今日は、葬儀で私の友人が弔辞を読み上げてくれました。また、母の訃報を
聞き、仙台や東京などからわざわざ駆けつけてくれた友人もありました。
母は、大変喜んでいると思います。そして、昨日の火葬、通夜、そして今日の
葬儀と私の多くの友人がお手伝いに来てくれました。私の高校時代は、我が家
には多くの友人が集まり、母はそれを大変喜び、当時は、大変おおらかな時代
でしたから、母にお酒のいろはを教えられ大学に進学した友人は少なくありません。
そのような剛毅な母でしたが、やはり心労も多かったようで、私の小学校時代から
精神的な病に悩み、36歳の時には子宮がんの手術を東北大学病院で行いました。
その後の経過はあまり思わしくなく、その後は、様々な病に苦しみました。ちょうど、
60歳の頃、糖尿病を患っていましたが、磐井病院に入院した際、もともと弱い心臓
でしたので、心停止がありました。今、副院長先生となりましたが、中村先生が、
絶対に長生きさせますからと必死に蘇生させてくださいました。大変感謝しています。
その後は、腎疾患が進み、1年半ほど前から透析をしていました。亡くなる日の朝、
母はいつものように、「早く仕事に行きなさい、体を大事にして車に気をつけなさいよ」と
毎日の言葉で、私を送り出してくれました。
自分が、重い病になりながらも、最後まで私たち二人の息子、家族を心配してくれました。
「親思う心に勝る親心」という言葉がありますが、今こうして旅立った母を見ながら、
「津軽のじょっぱり」を地で行く母と何度も魂のぶつかり合いのような喧嘩もしてきまし
たが、本当に本当に素晴らしい母でした。人生の後半は、様々な病気で、入退院を
繰り返し苦しんできましたが、最後は本当に静かに逝ってしまいました。
今日は、皆様方にお見送りいただき、故人もさぞ喜んでいるものと存じます。
遺された私たち一同は、故人の家族を大切に思う心を心に刻み努めていく所存で
ございます。今後ともよろしくお願いします。
本日は、まことにありがとうございました。」