たんなるエスノグラファーの日記
エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために
 



今日の1限の文化人類学の授業で、『文化人類学のレッスン』のレッスン6を下敷きとしながら、<儀礼の象徴表現>と<儀礼の3局面>の話をした。話をしながら、<儀礼の象徴表現>の部分で、著者の田中正隆さん(高千穂大学)が言いたかったことが、いまになって、自分なりにわかったような気がしてきた。

儀礼には、象徴表現が満ち溢れている。象徴とは、<意味するもの>と<意味されるもの>との組み合わせのことであるが、その組み合わせは、(1)文化によってさまざまであるとともに、(2)<意味するもの>と<意味されるもの>の関係が、一対一対応ではないという点で、同一文化内でも、多義的である。例えば、(1)白や黒などの色が何を意味するのかは、文化によって異なるし、(2)日本では、黒色は、厳かさや、弔事などを意味する点で多義的である(この(1)の部分については、明らかには述べられてはいない)。

さらには、人は、象徴を分類することによって、世界を組み立てて、世界を認識している。しかし、そのような象徴分類には、ピッタリとあてはまらない「変則的なもの」(アノマリー)が現れることがある。そうした「変則性」を、人はマークし、特大の意味を付与する。例えば、コンゴのレレ社会の豊穣と多産の祈願のための儀礼で、人びとは、センザンコウを食べる。センザンコウは、<森>に住みながら、<村>にもやってくる。それは、<動物>と<人>の間の境界的な生き物である。さらに、センザンコウは、<森>に住むが、魚のような鱗をもつ。<湿地帯>は、
<精霊>の領域であると考えられている。つまり、センザンコウは、<動物>と<精霊>の間の境界的な生き物でもある。そうした境界上の変則性を利用して、儀礼は組み立てられる。

つまり、儀礼においては、第一に、象徴が多用され、さらに、第二に、その象徴分類からこぼれおちるものに対して、特大の意味が付与されて、用いられるというような、きわめて複雑なことが行われている・・・というようなことを、全体をつうじて、
述べているようにも取れるのですが、いかがでしょうか。授業で話していて、132~136ページまでは、そういうふうに読み取れたのですが(というようりも、そういうかたちで説明してしまいました)。

「クビが回らない」ほど多忙だとのことなので(!)、ご本人には、またの機会に尋ねることとして、忘れないうちに、とりあえずここに、覚書として書き留めておきます。



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