たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

儀礼研究

2007年06月15日 23時24分56秒 | 文献研究

今日の1限の文化人類学の授業で、『文化人類学のレッスン』のレッスン6を下敷きとしながら、<儀礼の象徴表現>と<儀礼の3局面>の話をした。話をしながら、<儀礼の象徴表現>の部分で、著者の田中正隆さん(高千穂大学)が言いたかったことが、いまになって、自分なりにわかったような気がしてきた。

儀礼には、象徴表現が満ち溢れている。象徴とは、<意味するもの>と<意味されるもの>との組み合わせのことであるが、その組み合わせは、(1)文化によってさまざまであるとともに、(2)<意味するもの>と<意味されるもの>の関係が、一対一対応ではないという点で、同一文化内でも、多義的である。例えば、(1)白や黒などの色が何を意味するのかは、文化によって異なるし、(2)日本では、黒色は、厳かさや、弔事などを意味する点で多義的である(この(1)の部分については、明らかには述べられてはいない)。

さらには、人は、象徴を分類することによって、世界を組み立てて、世界を認識している。しかし、そのような象徴分類には、ピッタリとあてはまらない「変則的なもの」(アノマリー)が現れることがある。そうした「変則性」を、人はマークし、特大の意味を付与する。例えば、コンゴのレレ社会の豊穣と多産の祈願のための儀礼で、人びとは、センザンコウを食べる。センザンコウは、<森>に住みながら、<村>にもやってくる。それは、<動物>と<人>の間の境界的な生き物である。さらに、センザンコウは、<森>に住むが、魚のような鱗をもつ。<湿地帯>は、
<精霊>の領域であると考えられている。つまり、センザンコウは、<動物>と<精霊>の間の境界的な生き物でもある。そうした境界上の変則性を利用して、儀礼は組み立てられる。

つまり、儀礼においては、第一に、象徴が多用され、さらに、第二に、その象徴分類からこぼれおちるものに対して、特大の意味が付与されて、用いられるというような、きわめて複雑なことが行われている・・・というようなことを、全体をつうじて、
述べているようにも取れるのですが、いかがでしょうか。授業で話していて、132~136ページまでは、そういうふうに読み取れたのですが(というようりも、そういうかたちで説明してしまいました)。

「クビが回らない」ほど多忙だとのことなので(!)、ご本人には、またの機会に尋ねることとして、忘れないうちに、とりあえずここに、覚書として書き留めておきます。


編集者Nさんとの対話

2007年05月19日 22時21分53秒 | 文献研究

昨夜、飲み友達でもあり、「編集者としての病い」(!)でもあるNさんと話した。博覧強記で鳴らすNさんとの対話すべてを憶い出すことはできないが、人類学を取り巻く状況について話した部分の要概を、以下に、覚書として。Nさんには、いつも、たくさんのヒントをいただいている。

 N 人類学は、あいかわらず、ブルジョワ的な学問ですね。現代社会の問題に対する強い意識というようなもの見あたらないように思えます。ものを書くときには、ぼくは、自己を取り巻く状況をもっと意識すべきだと思います。しかし、人類学にそういう意識があったとしても、現代社会に従属するようなものになっていて、本来、人類学がもっていた輝きからは、ほどとおいように思えてなりません。そのようなこともあってか、ここしばらくの間、人類学は、沈んでいるように思えるのですが・・・

0 おっしゃるとおりです。ポスコロの議論をへて、あるいは、人類学を学ぶ最初から、ポスコロの議論に染まってしまって、真正面から海外のフィールドに向き合うことに抵抗を感じるようになった人類学者たちは、問題を迂回して、より身近な場面へと目を向けたり、あるいは、そういう問題を一気に飛び越して、拙速なかたちで、社会貢献を唱えたりするようになりました。そのような人類学は、同時代的には重要であっても、スリリングさに欠けるのだと思います。

N ぼくは、人類学を専門に勉強したわけではありませんが、他者について書くという問題そのものに、人類学者はもっと逡巡すべきだと思っています。それに拘泥するところから、表現の糸口が見出せるのではないかと考えています。

O 表象の問題はじつに厄介で、わたし自身、かつてそれを考えながらエスノグラフィーを書いたのですが、いま、あらためて、その問題に取り組むのは、手に負えないことだと思っています。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/d52685fc620379dcd102b36076302b39
ただ、エスノグラフィーと文学を単純に比較した場合、例えば、ガルシア=マルケスでもバルガス=リョサでも、(ある領域の)文学のほうが、圧倒的にすぐれていると感じています。その意味で、エスノグラフィーの記述をどうするのか、というのは、わたしにとっては、いまも、特大の関心事です。しかし、それがゆえに、昨年、一年間取り組んだフィールドワークのエスノグラフィーは、これまでのところ、まだ一行も開始できないでいます。

N たんに表象の問題を追求するだけでは、ふたたび、袋小路に入っていくことになるでしょうから、そうではない、人間のより深いレベルの探究へと降りてゆかなくてはならないのではないかと思います。今日の出版状況において、人類学を含む領域で一人気を吐いているのは中沢さんです。しかし、彼のモデルは、人類学の中では、どうやら抵抗が強いようですね。

O わたしも、中沢さんの語りには、大きな魅力を感じますが、たんなる怪気炎だとする評価が根強いように感じます。昨年、一年間の元・狩猟民のフィールドワークで、彼の言っていることが正しいことが、追認できたように思っています。ボルネオのジャングルは、対称性人類学の実験場であったような気さえしています。そのエスノグラフィックな記述を目指したいとは思いますが、いまだ実現するめどが立っていません。いずれにせよ、どのように、エスノグラフィーを書くのか、ということをたえず考えています。

N レヴィ=ストロースの神話論理が、ようやくいまごろになって訳出されるというのは、人類学の学的状況にとって、好ましくないですね。これまでの人類学者の怠慢かもしれません。ぼくは、人類学者が、たんに先祖返りして、未開のスペシャリストになるということは、素晴らしいことだとは思いません。しかし、検討を先送りにされてきた人類学者の仕事のなかに、人類学の格別なトピックが潜んでいることがあるのではないかとも思っています。

O くだらないことかもしれませんが、要は、どういうかたちで、他者と関わるのか、つき合うのか、そして、そのために、いかに自分自身を高めるのか、というようなことではないのかと思うようになりました。わたしは、一年間のフィールドワークをして、まったくそういうことは予想しなかったことなのですが、わたし自身の人との接し方や心の置き方の点で、大きく大きく揺さぶられて、帰国しました。よくあるように、好きな娘ができたとか、家族ができたというようなことではなく。凡百な物言いですが、見たり、感じたりする己のほうをこそ高めないと、他者についてつづることは、できないのではないかと思っています。


体験記「ボルネオへの道」発行

2007年05月01日 23時36分27秒 | 文献研究

今日、大学に行ったら、『JAM/国際学会ジャーナル』第17号が届いていた。そのなかに、NくんとSくんによる体験記、「ボルネオへの道~ボルネオ島先住民プナン社会でのフィールドワークより」(pp.26-57)が収録されていた。彼らが、昨夏、1ヶ月弱、サラワク・プナンの森にやって来たときの体験をもとに、考えたことがつづられていた。

http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/d/20060826

写真が豊富で、そのひとつひとつがなかなかいい。

Sは、「森の学校」と題した章を担当し、「プナンが学校に行かない」という点に目を向けて、「学校教育」とは何かという、根源的な問いへとたどり着いた。

「プナン社会において、『子どもを囲い管理する場』としての学校に組み込まれるのを拒むのは当事者である子どもの意思ではなく、プナンという社会の包括的な意思なのではないだろうか。実際私がロング・ウルンの小学校へマレーシア語を学ぶために通うことで、狩猟や焼畑の作業に参加する機会を失ってしまったことがあった。同様に子どもたちが学校に通うことでその共同体で営まれる様々な文化伝達に居合わせることが不可能になってしまう・・・プナン社会を出て社会に進出しようとする前提を持たない彼らにとって見れば、学校の存在は知識を得る場所ではなく、彼らから伝統や文化を継承する<時間>を奪うだけの存在なのかもしれない」(p.46)。「狩猟採集して生きるプナン社会で社会生活を送るためには、実践(狩猟、漁、焼畑)の知識が必要だ。それは、学校で教えてもらえるものではない。プナンの子どもたちは、大人に同伴することで、実践の知識を身につけようとしている」(p.47)。つまり、「森の学校」こそ、プナンの「学校」なのである。

Sは続ける。「・・・『何のための教育なのか』などと考えたことはいままでなかった。私が思考をめぐらせていることと言えば「何を学校で学ぼうか」ということのみであった・・・私たちにとってあまりにも自明的な『学校教育』という概念を問い直すきっかけになった」(p.47)という。

1ヶ月足らずの経験から、よく、ここまで考えることができたものだと感心する。Sは、もうすぐ、海外脱出する。海外からの留学生を受け入れるのが初めてだという、フィリピンの大学に留学することになっている。

他方、Nは、「森の知恵、動物への愛」という章を担当し、プナンの動物の解体作業の場を目の当たりにした驚きと興奮を手がかりとして、プナン社会の人びとの動物観に目を向けた上で、ひるがえって、現代日本社会における、生きていた動物の痕跡をとどめることなく、食べるためだけに存在する、あっけない動物肉のありようへと踏み込んでいる。

「プナンで生活していると、人は動物を殺して、その肉を食べることで、生きている、生かされているということを私は実感するようになった。つまり動物の犠牲の上に私がいるのだ。例えば、ヤマネコの丸焼きを食べたときのことである。そのヤマネコを口に運ぶとき、私は涙をこぼしてしまった。料理になる前の姿(生きているときと変わらない姿)を、調理の前に見ていたからだ。私はヤマネコに向かって心の中で『ごめん!』といいながら、その肉を食べた。そこには、私の命のために死ぬことになったヤマネコへの『感謝』、『敬意』、『罪の意識』が生まれていたと思う」(p.51)

Nは、そのような動物に対する「感謝」、「敬意」、「罪の意識」などは、狩猟民プナンが根源的に共有している
感情なのではないかと想像する。プナンの動物をめぐるタブー(禁忌)とは、Nによれば、動物に対する「敬意」の裏返しなのである。彼は、また、自分自身へと向き直る。「日本社会において、私たちは殺された動物に対してどのような態度をとっているのかという疑問が私の中に浮かんだ・・・現代日本社会(は)『動物が肉になる過程を私たちの目から隠している社会』である・・・つまり現代日本社会は、そこに住む成員が、殺された動物に対する『愛』を失っていることで成立している社会ではないだろうか。そして、私たちに、殺された動物に対する『愛』を生じさせないために、『動物が肉になる過程』は私たちの目から隠されているのだと、私は思う」(pp.52-54)。

Nが目の当たりにした、プナンの一連の動物の解体作業と見聞は、
「対称性人類学」的な思考の冒険へと、彼をつれて行くことになったようである。私が聞いたところ、Nは、昨年末、芸術人類学研究所青山分校に応募し、抽選で当たって、通っていたらしい。

ところで、わたしは、
いくつかの理由から、今のところまだ、プナンのエスノグラフィーの執筆を始められないでいる。


「プナン人たちのために」

2006年07月30日 14時32分53秒 | 文献研究

本日(2006.7.30.)のボルネオ・ポスト紙より 地方選出の州会議員が、「プナン人たちのために」、プナン語のラジオ放送を許可するように、州政府に申請したらしい。
Penan on the airwave?
Lihan seeks govt nod for radio channel to cater for 10,000 semi-nomadic tribe The semi-nomadic Penan tribe roaming the deep jungles of Borneo may get their own radio channel if the State government is agreeable to the request submitted on their behalf by Telang Usan assemblyman Lihan Jok in the State Assembly recently.


ラジオを使って、プナン語で情報を発信することで、プナン人が社会開発の本流に乗りやすくすることになると、その議員は考えているようである。
This will accelerate the shift of this tribal people to the mainstream of development by effectively disseminating information to them through radio in their language,” said Lihan.・・・

プナンのうたなどの豊かな文化を世界に紹介することにもなると、彼は言う。
Lihan pointed out that there are sufficient Penan singers and songs to merit a radio channel for this tribe. He said this is one way to highlight the rich culture of the Penans to the world.

ラジオ放送は、プナンと「われわれ (rest of us)」の間にある、教育、社会経済面での溝を埋めることになる。プナンは、ラジオを聞くことをつうじて、飛躍的にわれわれに近づくことになるだろう、とも。
“I believe the radio will narrow the gap between the Penan and the rest of us. Admittedly, this tribe is so far behind in a lot of aspects, be it education or socio-economy. But through listening to the radio in their own language, the Penans will hopefully make a quantum leap in their quest to catch with the rest of us,” said Lihan.

「われわれ」から教育、社会・経済面で立ち遅れているプナン人たち。州政府は、プナンをなんとか社会開発の本流に引きずりこもうとしている。すべてのプナン人が、そのことを望んでいるという前提に立って。


祝『地域研究』発刊!

2006年03月19日 20時58分43秒 | 文献研究

 『地域研究』Vol.7, No.2 が、ようやく刊行された!
 【特集1】は、「グローバル化する近代医療」。2年前(2004年2月)、京都市国際交流会館で行われたシンポジウム「熱帯医学と地域研究:知の実践と構築」の成果の一部である。人文・社会科学系の研究者たちの論文7篇が掲載され、執筆者の代表者と国際保健の研究者・実践家との座談会から組み立てられている。
 この論集は、われわれ(地球人)の周囲に自明のごとくしつらえられた近代医療の構成の<外部>へと踏み出して、「帝国医療」というタームを介して、そのような成立の根源へと立ち至るという思い
を共有しながら、歴史学、人類学、経済学、社会学の研究者たちが、それぞれの学的領域の持ち味を生かしてスリリングに考察している点で、ユニークである。
 阪神淡路大震災、スマトラ沖大地震、ハリケーン災害など、この10年ほどの大規模「自然災害」発生時に、緊急医療援助隊が組織されてきている。そのような「災害医療体制」が、グローバルに急ピッチで整備されている。そうした近代医療の自己組織化の機会を目の当たりにしながら、医療研究は、それ自体をほとんど研究対象としようとはしてこなかった。その組織化の<内部>に留まったままで、人道主義的な観点からそれらの活動を褒めたたえ、スムースで効率の良い目標の達成に意を注いできた。
 
そのことは、けっして悪いことではない。いや、きわめて重要なことである。しかし、アカデミズムが必要なのは、そのようにして近代医療の<内部>に組み込まれることではなく、近代医療の<外部>へと踏み出して、そのような自明性の成り立ちを問うことなのではないだろうか。そういう言い方に対しては、医療の緊急性の意識が足りないという批判がある。ところが、その言い分は、従属者の言い分でしかない。研究者としては、現象の根源へと立ち返り、<医療なるもの>を捉えたいと考える。
 経済史学者・脇村さんは、19世紀のアジアのグローバル化と疫病の関係を考察し、近代日本の鎖国体制の崩壊(=開港)後に、上海ネットワークとつながることで増加した日本のコレラ流行のあり方を検討している。過去の疫病と防疫をめぐる考察は、現代の感染症流行と防疫のあり方を問い直す上で肝要である。
 医者であり、思想家でもある(ひょっとして社会学者?)美馬さんの論文は、この論集の中でも、ひときわ異彩を放っている!医師であり、小説家であったセリーヌという人物を取り上げるというのは、天才的な閃きではないか。
セリーヌが、アフリカの他者、ロックフェラーの工場労働者という他者と出会い、最後に、反ユダヤ的な政治文書を著すまでのいきさつに伴走しながら、近代医療が持つ欲望に接近している。
 経済学者・上池さんと佐藤さんの論文は、アンチパテント政策に基づくインドの医薬品政策の分析である。WTO(世界貿易機関)のTRIPS(貿易関連知的所有権協定)の発効により、これまで発展途上国に安価な医薬品を供給してきたインドの医薬品の価格上昇が避けられなくなってきた。人類の生死は、巨大化するグローバルな生命経済市場や超国家的な機関や協定に左右されるのだ。
 残りの4名は、人類学をバックグラウンドとする。
 松尾さんは、現在、女性が望んでいると思わせるかたちで、巧妙に生殖管理が行われている、インドの医療行政の歴史的経緯を俎上に載せて検討している。
その上で、現地調査に基づいて、女性が、今日、生存戦略のひとつとして身体に関する自己決定を行える可能性について考察している。
 花渕さんは、仏領コモロ諸島において、帝国医療の導入と実践を担った現地人看護師について取り上げている。医師でもなく、土着の呪医でもない現地人看護師が、帝国医療に創造的に介入して、帝国医療の基盤としての知識と実践をコモロ社会内部で再生産する役割を果たした点に触れている。
 奥野は、マレーシア・サラワク州の辺境におけるコンタクトゾーンにおいて行われる近代医療の「不在」をめぐる先住民と外部世界との交渉活動を取り上げて、その先に出没する帝国医療の亡霊の輪郭を浮かび上がらせようとしている。
 池田さんは、国際保健医療協力におけるボランティア活動を取り上げている。ボランティアたちは、文化相対主義を身につけ、帝国医療の潜在的な批判者となるが、結局は自国に戻って、ボランティアを再生産する役割を担う(=「メタ帝国医療」)。帝国医療という分析的想像力を用いて、新たなボランティアの創造が必要であると論じている。
 私がもらった本には値段がついてないが、平凡社から販売されているらしい。
  表紙には、カリス川と子どもたち(2005年8月撮影)の写真が使われている。
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 特集にあたって・・・池田光穂、奥野克巳
 座談会 開発途上国における帝国医療の光と影
        ・・・池田光穂、奥野克巳、中村安秀、門司和彦、
          脇村孝平、(司会)阿部健一
 疫病のグローバルヒストリー~疫病史と交易史の接点
        ・・・脇村孝平(大阪市立大学)
 帝国医療とネイティブ女性~バースコントロールにみる身体の管理と救済の言説
        ・・・松尾瑞穂(総合研究大学院大学)
 現地人看護師という媒介~コモロ諸島における帝国医療の教育と実践
        ・・・花渕馨也(北海道医療大学)
 セリーヌの熱帯医学、あるいは還流する近代
        ・・・美馬達哉(京都大学)
 近代医療を待ちながら~サラワクの辺境から眺める
        ・・・奥野克巳(桜美林大学)
 WTOの貿易関連知的所有権協定とインド医薬品産業
        ・・・上池あつこ(甲南大学)、佐藤隆広(大阪市立大学)
 グローバルポリティクス時代におけるボランティア
 ~<メタ帝国医療>としての保健医療協力 
        ・・・池田光穂(大阪大学) 
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クールー

2006年03月08日 10時16分03秒 | 文献研究
 1997年、プルシナーは、<プリオン>による新たな感染原理の発見によって、ノーベル生理医学賞を受けた。<プリオン>とは、タンパク性感染粒子のことである。構造異常を引き起こしたタンパク質は、脳を破壊し、やがて、生命体を死に至らしめる。 しかし、その病原体の実相はいまだに明らかではないために、<プリオン>説は、<プリオン>仮説に留まっているとされる(ロジャーズ『死の病原体プリオン』)。
 ニューギニア東部高地で、1950年代のピーク時に年間20人の死者を記録した(1950年代におおよそ200人が死亡)<クールー>は、現在、<プリオン>仮説の枠内で捉えられている。
 1910年代あたりから、人びとは、多産を得るために、女・子どもが、死んだ女性の脳を食べるという儀礼的なカニバリズムの習慣をもち始めた。そのころから、<クールー>は流行し始めたとされる。患者は、手足の痙攣、不明瞭な発話、起立・歩行困難、嚥下困難、精神異常に陥り、やがて、笑いながら死ぬと記録されている(Lindenbaum, Kuru Sorcery)。
 他方、<クールー>が最も多くの犠牲者を出した南部フォレ社会では、それは、<邪術>によって引き起こされるものであると考えられていた。<クールー>とは、現地のことばで、<震え>を意味する。「呪術師はまず犠牲者の所有物を盗む。次にそれを石と共に木の葉で包み、呪いをかけてから土に埋める。これがクールーハンドルである。やがて石はカタカタと動きはじめ、それにつれて犠牲者のからだも震え出し、病気になるのだ」(クリッツマン『震える山』p.181)。
 <クールー>は、カニバリズムが行われなくなるとともに、次第に、下火となった。しかし、1997年に、何例かが記録されているとの報告がある(Lonely Planet, Papua New Guinea & Solomon Island 2005)。人類学者リンデンボウムは、近年、年に4例ほどがあると報告している(Lindenbaum, "Kuru, Prions, and Human Affairs", Annual Review of Anthropology 2001)。

『帝国医療と人類学』

2006年03月06日 13時01分46秒 | 文献研究

 ここ10年ほどの間に、大地震やハリケーンが世界各地で多発した。そのような大規模災害時に、緊急医療援助隊が組織されることが、いまや一般的になりつつある。医師や看護師は、死に直面している人たちを救い出し、被災者が健康な生に戻ることをサポートするために、<災害医療>の現場へとかけつける。近代医療は、崇高な理念と清い使命感に貫かれている。
 しかし、それは、近代医療の切り取られたほんの一面である。
 医師や看護師が持つ理想や使命感は、国家の制度の中に組み込まれ、ネオリベラルな欲動につき動かされるとき、体制を強化する側へと吸い上げられたり、理想と現実の矛盾を引き起こしたりする可能性がある。
 帝国医療研究の発見は、近代医療が毛細管状に地球上の隅々にまで届けられるようになった歴史の起源にまで遡って、後者の問題、とりわけ、近代医療の世界拡張が政治・経済と不可分であるという点にある。
 本書は、帝国医療研究を継承しつつ、近代医療の自明性の成り立ちを問いながら、ローカルな社会の個別的な状況を把握することをつうじて、近代医療を人類学の課題とするための、初次的な一つの試みである。 
 奥野克巳著『帝国医療と人類学』春風社、2006年2月28日発売、2300円