勝地(かつち)ブログ

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vol.50 あの日に戻りたい

2016年11月29日 07時51分25秒 | Weblog
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あのフォーククルセダーズの北山修さんが言ってました。

「虚しい」「空虚」という言葉。

一般的には「何も無い」というようにとられがちですが、この場合ではそれは違うのではの意見に賛同。

昨夜のテレビでのことで、逝っていかれた永六輔さんが最期に遺された加藤登紀子さん宛てのエッセイの中に認められていた「虚しい」という一文字。すべてはこれにあらわれていると北山さん。

人生の道のりでの話、私なりの解釈では…
いくら富を得ても、いくら名誉も得ても、その上でもなおさらやはり人生は虚しい、という感覚は、「あの日に戻りたい」けれども「戻れない」というその気持ちをあらわしたものだとテレビを見てて感じました。


関連はありませんが

抜萃のつづり から
(ここから)
現在の日本人は、若さ志向が強く、なかなか「歳のせい」を認めようとしない。別に、老け込めと言っているわけではなく、年相応ということを認めたほうが、楽に生きられると思うのだが。
生まれたものが年寄れば、あちこちがたがきてあたりまえである。つまり、年寄りは、どこか具合が悪いのは正常といっていい。むしろ年寄りなのに、どこもどうもないというのは、余程異常と考えるべきで、即刻、精密検査を勧めたい。
「老い」を素直に認めない理由は何か。それは「老い」は一方通行で、その先には死が待っているせいではないか。そこで、回復の希望が持てる「病い」にすり替えることになる。動脈硬化症とか骨粗鬆症などである。しかし、老化がらみであるから、期待通りにはならない。
多少でも苦痛が和らいだり、症状が軽くなれば満足すべきなのだが、今の年寄りは欲が深く、もっともっととこだわってしまう。
「老い」と上手につきあうには、受けとめ方の問題がある。誰の迷惑にもならないのであれば、自分にとって楽な受け取り方をすればいいのである。どうも日本人は、できなくなったことに、こだわり過ぎのようである。
例えば、昔は15分で辿り着けたのに、今は途中で一服して30分もかかると嘆く。これも、途中で一休みして30分もかかるが、まだ誰の手も借りずに独りで行けると受け取れれば、気持ちのハリという点で、天と地ほどの差が出る。
「もう……しかできない」か「まだ……もできる」かである。残存能力に着目し、十二分に活用するべきである。
(ここまで)
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