勝地(かつち)ブログ

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vol.796 150年前のこと

2018年11月19日 21時12分39秒 | Weblog
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どんな理由があっても、よくないことを大勢で相談することを「徒党」といって、「徒党」によって悪いことを計画することを強訴といいます。また、相談し合って今いる町や村を出て行くことを逃散と言います。固く禁止されています。もし、これらのことを見つけたら、すぐに役所に申し出なさい。御褒美がもらえます。
慶応四(一八六八)年三月 太政官


昨日の第25回高柳ふるさとまつりで、お札が展示されてました。

我が家にも、玄関にこんなものを掲げてますが読めてなかった、のですが、再び見つめ直してみると、一緒の文内容でビックリ。


「定」元の、久美濱縣というのが違うだけ。

150年前のこと。

集団暴動、集団逃避という動きがあったのかなぁ。租税が過酷だったのだろうかー、飢饉もあったのかなー、分からん。

あっ、戊辰戦争か。倒幕派と幕府派が戦ったアレ。
その発端の動きは、生野義挙に現れています。そして、明治に突入。

ウィキペディアによると、久美浜県(くみはまけん)は、1868年(慶応4年)に丹後国、丹波国、但馬国、播磨国、美作国内の幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置された県、とあります。

(以下、朝来市HPから転載)
生野義挙のあらまし
 文久3年(1863)10月、日本の歴史に残る事件がこの地で起こりました。「生野義挙」または「生野の変」と言われる事変です。この事変は270年続いた徳川幕府の政治に不満を抱き、改革を図ると共に、欧米諸国の脅威から国を守ることを志す人々が、但馬各地の農民と一緒になってこの地方における幕府の拠点である生野代官所を占拠して挙兵をしたのが始まりです。
 しかし、期待した同志の応援も到着せず、加えて内部の意思不統一と、周囲の状況が不利となったため、再起を期して3日間で破陣し生野から脱出しましたが、参加した同志並びに農民幹部の多くは途中において捕虜後、処刑されるなど生存者はごく僅かでした。
 生野義挙はこのような経過で短期日の間にあっけなく終わりましたが、この事変が魁となって4年後には明治維新の政変が成功し、新しい日本の誕生となりました。
(ここまで)

話変わって
部屋の水耕栽培、サラダボウルレッドが盛りです。
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