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演奏時間はそこまで長くないのだが、曲ごとに大幅な舞台転換があったため休憩含め二時間のコンサートであった。
まず武満氏といえば現代音楽という解釈を持っておられる方が多いだろう。
もちろん間違いではなく僕もそう思っていたのだが、今日のコンサートで僕の認識は一気に覆された。
僕は現代音楽が好きだ。しかしタケミツを聴くことは日常では少ない。
どうしても一柳氏や細川氏など割と聴きやすい(と言ってしまえば語弊があるかもしれないが)作曲家の曲を聴いてしまう。
武満氏の曲を聴くときは、タンドゥン氏やメシアン氏を聴くときのように気合いをいれて聴かねばならぬ作曲家であったのだ。
今日のプログラムの一部はまさにタケミツと言わんばかりの曲が並んだ。
有名どころが並んだ訳でもあるが、これぞ現代音楽!と訴えかけるプログラムに聴くことよりも圧倒されてばかりであった。
曲の感想をかけるほど知識もなく、ただただ呆気に取られていたのだが、まさにビックバンがステージで繰り広げられているようであった。
音楽、というよりは宇宙がそこにはあり、空間はステージを中心に今まさに!このときに!創られている。そんな気がしたのだ。
二部一曲目のテクスチュアズはとても興味深く、第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、、、と塊で考えてるのではなく、一人一人に役割を持たせて作られた曲である。
隣は同じ楽器なのに全く違う動作をしている様は中々見れない光景であるが、そこから紡ぎ出される音は計算し尽くされたものであった。無駄な音など一切なかったのだ。
そして度肝を抜かれた最後の二曲。
プログラムノートによればグリーンを作った辺りから武満氏の曲調も変わっていったそうだ。
グリーンは当初、ノヴェンバー・ステップス第2番となっていたそう。
曲は6分程度なのだが、これが素晴らしく、今までのタケミツのイメージを覆し、新たなタケミツの一面を見ることになった。
もちろん今までのタケミツな音楽が根本から変わったわけではない。
しかし聴いていると印象派の香りがするのだ。
ーセンチメンタルー
とでも言うのだろうか。
どこからか新たな風が吹いてくるのだ。
しかしそれは和声的とは言いがたく、明らかに現代音楽なのだが、どこか切なく、どこか郷愁深く、自然と心が動くのだ。
夢の引用では特にそれらが感じることができる。
というのも、ドビュッシー氏の海を引用している部分があったり、モティーフを用いてる部分があったりするためだ。
それは見事に曲に馴染み、曲をさらに昇華させているのだ。
現代音楽を聴いて涙が出そうになったのは初めての感覚であった。
この曲は今回のプログラムで唯一、90年代にかかれているのだが、プログラムノートに面白いことが書いてあったので引用したい。
ーーまるでフランスの画家オリディロン・ルドン(武満が愛した画家でもある)が、黒を用いたモノクロームの時代から、晩年に鮮やかな色彩を帯びた作品へと画風を変えたように、武満が使う音のパレットも、時代を経るにつれて色鮮やかに、そして豊かな響きへと変化していった。ーー
(おのみつこ・音楽学/武満徹研究)
まさにこの文が表すような感覚が今日のプログラムを通してひしひしと伝わった。
音楽とはなんて素晴らしいものなのだろうか。
異国の人と人を繋げ、離れた時代をも繋ぎ、現代を生きる我々を虜にする。
タケミツの演奏会と言えば、といっても過言ではないピーターギルセン氏が体調不良で来日できなかったことは残念であるが、高橋悠治氏が変わりに出演されたのは個人的に嬉しかった。
彼もまたタケミツを知る一人であり、現代音楽を我々に伝えてくれる一人であるからだ。
さぁ今晩はドビュッシーの海でも聴こうか。
モネが光を求め絵を描いたように。
ドビュッシーが風景を音楽にしたように。
タケミツがなにかを表現したかったそれを探すかのように。
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演奏時間はそこまで長くないのだが、曲ごとに大幅な舞台転換があったため休憩含め二時間のコンサートであった。
まず武満氏といえば現代音楽という解釈を持っておられる方が多いだろう。
もちろん間違いではなく僕もそう思っていたのだが、今日のコンサートで僕の認識は一気に覆された。
僕は現代音楽が好きだ。しかしタケミツを聴くことは日常では少ない。
どうしても一柳氏や細川氏など割と聴きやすい(と言ってしまえば語弊があるかもしれないが)作曲家の曲を聴いてしまう。
武満氏の曲を聴くときは、タンドゥン氏やメシアン氏を聴くときのように気合いをいれて聴かねばならぬ作曲家であったのだ。
今日のプログラムの一部はまさにタケミツと言わんばかりの曲が並んだ。
有名どころが並んだ訳でもあるが、これぞ現代音楽!と訴えかけるプログラムに聴くことよりも圧倒されてばかりであった。
曲の感想をかけるほど知識もなく、ただただ呆気に取られていたのだが、まさにビックバンがステージで繰り広げられているようであった。
音楽、というよりは宇宙がそこにはあり、空間はステージを中心に今まさに!このときに!創られている。そんな気がしたのだ。
二部一曲目のテクスチュアズはとても興味深く、第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、、、と塊で考えてるのではなく、一人一人に役割を持たせて作られた曲である。
隣は同じ楽器なのに全く違う動作をしている様は中々見れない光景であるが、そこから紡ぎ出される音は計算し尽くされたものであった。無駄な音など一切なかったのだ。
そして度肝を抜かれた最後の二曲。
プログラムノートによればグリーンを作った辺りから武満氏の曲調も変わっていったそうだ。
グリーンは当初、ノヴェンバー・ステップス第2番となっていたそう。
曲は6分程度なのだが、これが素晴らしく、今までのタケミツのイメージを覆し、新たなタケミツの一面を見ることになった。
もちろん今までのタケミツな音楽が根本から変わったわけではない。
しかし聴いていると印象派の香りがするのだ。
ーセンチメンタルー
とでも言うのだろうか。
どこからか新たな風が吹いてくるのだ。
しかしそれは和声的とは言いがたく、明らかに現代音楽なのだが、どこか切なく、どこか郷愁深く、自然と心が動くのだ。
夢の引用では特にそれらが感じることができる。
というのも、ドビュッシー氏の海を引用している部分があったり、モティーフを用いてる部分があったりするためだ。
それは見事に曲に馴染み、曲をさらに昇華させているのだ。
現代音楽を聴いて涙が出そうになったのは初めての感覚であった。
この曲は今回のプログラムで唯一、90年代にかかれているのだが、プログラムノートに面白いことが書いてあったので引用したい。
ーーまるでフランスの画家オリディロン・ルドン(武満が愛した画家でもある)が、黒を用いたモノクロームの時代から、晩年に鮮やかな色彩を帯びた作品へと画風を変えたように、武満が使う音のパレットも、時代を経るにつれて色鮮やかに、そして豊かな響きへと変化していった。ーー
(おのみつこ・音楽学/武満徹研究)
まさにこの文が表すような感覚が今日のプログラムを通してひしひしと伝わった。
音楽とはなんて素晴らしいものなのだろうか。
異国の人と人を繋げ、離れた時代をも繋ぎ、現代を生きる我々を虜にする。
タケミツの演奏会と言えば、といっても過言ではないピーターギルセン氏が体調不良で来日できなかったことは残念であるが、高橋悠治氏が変わりに出演されたのは個人的に嬉しかった。
彼もまたタケミツを知る一人であり、現代音楽を我々に伝えてくれる一人であるからだ。
さぁ今晩はドビュッシーの海でも聴こうか。
モネが光を求め絵を描いたように。
ドビュッシーが風景を音楽にしたように。
タケミツがなにかを表現したかったそれを探すかのように。