katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

さくら教室とノアの依頼作品

2018-06-22 00:43:35 | モザイク教室
今日は午後からさくら教室。さてそれまでどうしようかな?・・・って中、資金も出来た事だし、そろそろノアの依頼作品を進めようかな・・・と、大型コピー屋さんに行くと、1時から・・・って。それじゃ、さくらの送迎の時に出直しだなっ・・・って事で、またアトリエに逆戻り。

そんなこんなで・・・こうなったのね。


ここまで来ると、後は木を切ればスタートとなる。そうね、そしてさくらはって言うと、後少しじゃん。いよいよ完成近しって感じなのね。まぁ、とてもシュールな事やってんのね・・・。判る人には判るんだけれどね・・・・。そうね、言い方を変えると、判る人って誰なんだろう?・・・・。

例えば、アイドル、アーチスト、運動選手・・・何でも良いんだけれど、何か人よりも秀でている場合、この人達に罵声を浴びせる人は一体誰なんだろうか?それは何も目指していない人か、目指した事のあるコーチや監督・・・こんな所かな。ではこの違いは何か?となったら、目指していない人は、結局

技術もテレビの中で見ただけで、単なる誰かの受け売り。誰もが考えない是正だったり、それだけの視点を持っているのなら、きっとスカウトに来るだろうね。きっと。それが目指した事があって、評価に値すれば、お金を積まれてその技術を買って頂ける。全く違う目線の評価になる。

これで判る人ってどんな人?って質問には答えたと思うのね。では、当然ここで習った人なら、何が、何処が・・・みたいな説明は受けるだろうし、やった事があったりすれば、その労力の凄さが簡単に理解は出来るだろう。ってここまでは、大して難しい話では無いのね。問題はここから。

でぱ、さくらは一体何の何処に当てはまるのだろうか?って話ね。ここで習っているし、弟子だし、この作品だし・・・ある程度、人に評価を受けると思うのね。しかし、しかしなのね・・・これを良く勘違いする人がいて、自分が評価をする人がいるのね・・・。

勿論、初期の頃はそれが最高なのね。自画自賛万歳なのね。だって技術なんてほぼどうでも良いのね。だって謙虚な姿勢なら、出来なくても普通なのに、出来たのなら良かったじゃん・・・だし、もっと言えば、結構良い出来かも・・・と思えたのなら、それこそ楽しいでしょ?ねっ。

これが年数が経つとね当然進歩や進化が欲しくなる。当然だよね、それが人の欲。所が美の欲って何点?ほら、スポーツとは違うのよ。判りづらいものなのね。ただね、評価は人が決めるんだ・・・って思えると、一体どの人の・・・って思うじゃない?そりゃ単純に自分より上手い人かな?・・・って。ね。

じゃ、上手くなればなるほどいなくなるって事になるよね・・・・あははははは。笑うわっ。じゃ誰が評価するんだろうか?って事になるでしょ?そこで自分を見失っちゃったりするのね・・・面倒な話だわっ。でもね、自分が決めるって人が何も変わらずに行ったら、本当に自分の評価出来る?あはははは。

結局どっちも壁にぶつかったりすると思うのね。じゃ良く聞く、自分の事は判らないけれど、人の事は判る・・・なんてさ。じゃ人を評価すると良いのね・・・もしその目利きが正しかったら、その人の技術や上手さを見抜く事が出来る。そしたら、その人に自分の評価を聞くと良い・・・。

そもそも自分が決めた、信じた人の評価を信じられないような心持ちで、何の何処を評価するのかな?・・・それが例え自分でもね。まぁ、面倒な話なのね・・・ただ、そこまで来るって事はね、そこそこ評価を持っている人なのね。ただ、自分に厳しいとか?プレッシャーに弱いとか、そんな理由。

例えば、自分に厳しい・・・なんて表現なら、いくら評価されても自分が良いと思わなければ、何の意味も無い・・・あはははは。こんな人は、結果として点は入ったけれど、そこじゃない所に決めようと思ったのに、結果オーライなんて・・・って思うようなストイックな感じでしょ?

それか、その目利きが無い人の場合、やってもやっても、人の方が上手くて、自分が上手いとは思えない・・・って自己評価の低い人だったり、これがプレッシャーに弱いなんて場合は、凄いね、上手いね・・・と人生褒められた事の少ない人は、そんなはずは無い・・・とか、お世辞だきっととか

・・・はたまた、たまたま今回は・・・なんて評価だったって言う事にして、評価を余り上げないようにしたり、謙虚さが度を越して、私なんかまだまだ・・・なんて言ったりして。おいおい、謙虚が美徳って・・・。笑うわっ。それが謙虚って・・・。

上手いとか凄いって言われるようになったら、本当の謙虚って、有難うございます、またそう思われるように努めます・・・なんてのが正しいんじゃないのかな?じゃないと、私なんてまだまだ・・・なんて言うと、もし5番だとしたら、5番がまだまだなら、6番以下は努力が足んない事になるよね?

もっと下を守れないかな?・・・これが4位以上を目指します・・・なら前向きだし、けれどね、これは順位って数字があるから判りやすいだけで、日常ってそんな事は無いのね。しかも、本当にお世辞とか体裁でモノを言う人も多いのも事実。だからそんな事になっちゃったりするのね。

で、これがもっともっと凄い事になっちゃうと病な感じになるのね・・・つまり信じた人が一転評価が変わったりして、勿論信じた人が悪いと言ってしまえば、その通りだけれど、大きく影響されるような人だった場合、裏切りにも近い状況になったりもして・・・。

こうなると、信じる者は救われるのか?触らぬモノにタタリなしなのか?って話で、どっちだ?・・・って事になる。けれど、信じちゃった側に強く行けば、当然親亀こけたらみなこけた・・・になる。こんな不器用な奴はこっちがダメならこっち・・・みたいに移行が難しいのね。

しかも、じゃ信じない・・・って反対側に行けば、自分をしっかり持たないと、誰かが前にいるスタイルじゃないから、開拓者。おやまぁ、開拓するのに、手持ちの道具は何持ってんのかな?・・・ってな話。いずれにせよ、さくらの迷いはこんな事の繰り返しなのね。

何でもそうだけれど、全てに置いて繋がるのは、継続した実績はそれこそが真実。上手いとか凄いとかは、人の評価かも知れないが、続いている時間は何も嘘が無い。それすらも受け入れられないのなら、もはや死しか残っていないだろうが・・・ただなぁ、神なら生きろなんだよなぁ・・・。

良く、霞食って生きろ・・・なんてセリフを聞いた事があるが、大した人では無い人が使う場合、大抵は吐き捨てるように言うので、死ねって言う表現なんだろうなぁ・・・って思うのね。つまり、霞は食べ物じゃないから、お腹はいっぱいにはならない・・・つまり生きられないから死ね。

けれど、これが神様が言うと、食べ物じゃないものを食べてでも生きろ・・・になり、同じセリフでも言う人1つで全然意味の違う事になる。って事は、神様にはなれないにしても、人に信じられる側の方に行くのなら、生きる側の指導をしたいものだな・・・と考えたりする。

それを昔は、仙人にはなれないが、999人にはなれるかもなっ・・・なんて言ってたっけ・・・。お後がよろしいようで。


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