katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

棟梁にりょうさんにラパンさんの相席教室

2019-09-06 07:15:38 | モザイク教室
今日は棟梁にりょうさんにらぱんさんの相席教室。そんな中、中学生の作品の画像を見せると、当然ながらリアクションが三者三様で・・・。更に当然ながら、棟梁がみんな凄いね・・・こんなセリフの場合、ただ鑑賞って感じだし、それに飲まれる事も無いのね。ただ他の2人は、みんな

優秀なんだろうな・・・みたいに何か特別な人みたいに言うので、違うよ、俺は誰も選んでいないんだから。そもそも野球のドラフトのように、あの人が欲しい・・・って選べるのは、既に成績や実績のある人達の事で、ここに来る人達は、ただこれがやりたい・・・ってだけなのね。

つまりもし中学一年なら、一度もモザイクをした事の無い子なのね。ただ条件が揃っているとしたら、例え中学生でも、例え初めてだとしても、宿題として提出しないとならない・・・って強制力のようなものと、期限付きって環境。それと数か月の間に10回も来られるって回数。後1つは、

自宅でもやる・・・こんな条件が揃っているからなのね。これが2年目、3年目となれば、こっちもこの位の事は・・・みたいな把握もしているが、何せ去年まで小学生だった事を考えたり、学校が学校だけに他の宿題だってあるだろうし・・・とトータルで考えたりするのね。

こんな事が厄介な展開になるのは、大抵大人が上手くて、子供が劣っていると納得しやすいが、夏休みだけで、しかも初めての子が、えっ?って思う位のグレードで次々と完成させてしまう・・・そんな結果のみで、自分と比べてしまって、へこんでしまうのは1つは作品の大きさにもある。

例えば、コースターと鍋敷きでは、左程変わらないな・・・と思う人もいるだろうけれど、作品の出来栄えでは、切る事がままならない場合、コースターの大きさでは、可愛くデフォルメしたようなデザインなら何とかなるかも知れないが、ある程度細かくならないで済む鍋敷きの方が、

大きさとして作りやすい分、結果は出やすい。ただ作りやすい分、沢山のタイルを使ったり、値段や時間を綱領に入れたりすると、何処の体験でもそう出来るか?となると、中々そうは出来ないけれど・・・。おっと話を戻して、要するに中学生の子達は作りやすさと展覧会を考えた上で、

ある程度の迫力も必要となると、あの大きさになった・・って理由があるが、大人となると、家に飾るもので、流石にそんなに大きいのは・・とか、あんまり大きいといつ終わるか判らないとか、色んな事を考えたりする。その時にチャレンジしに行く場合と、ブレーキを掛ける場合があり

、大人なのにブレーキを掛けなかったのが棟梁。ただ流石に棟梁と言えど、そう簡単には終わらないが、何1つ中学生に劣る事は無く、1つあるとしたら、早くは終わらない・・・って事のみ。だからその自信からも、みんな凄いね・・・の言葉の意味は、中々やるじゃんって事になる。

つまりそう簡単には負けないよ・・・とかね。所が若干、引き気味な鑑賞になると、凄いわね・・・子供は習得が早いわとか、私ももっと若かったら・・・とか言ってしまうのね。それは違うのね。どうして引き気味になったか?・・・ここが一番大事なのね。それは正しい眼を持つ事。

何の何処が凄いのか?・・・例えば自分の作品よりも大きい。これは迫力を生む。その時に自分の作品が小さいと感じるのなら、迫力の出せない分、繊細さで勝負すれば良いだけ。例えば早さと言う時間と言うのなら、奴らは自宅でもやっているのだから、例え少しでもやろうとすれば、今

よりも進むはず。ただ若さと言うのなら、体力や根気が続かなくなると言うのなら、経験値があるし、根気が無くなると言うのなら、早さを捨てれば、何の問題も無くなる。けれどついつい人は、無いものねだりをしてしまうもので・・・。人にあるものを見付けたのなら、自分にある

ものを言わないとバランスを失うものなのね・・・。それが大作を見た時にやられてしまう原因の1つなのね。それを養うものがモノの見かた。何処がどうして?何が?って見れると、自分に足りないものも見えるが、自分が劣っていないものも見えるはずなんだけれど・・・。

今日はその眼を養う話をしたのね。そんな中、りょうさんが次回作にこんなものが作りたい・・・と2枚の写真を持って来たのね。1枚は日本の田舎の風景、もう1枚は外国の田舎の風景。確かに田舎繫がりではあるけれど、大きく違う事があるのね。そこで棟梁に何を感じる?みたいに

質問すると、和と洋。たったそれだけ・・・おいおい、そろそろもっと情緒ある返答が出来ないかね・・・棟梁の一番足りない事なのね。後でそこはつつくとして・・・。確かに見たままならそうなんだけれど、それじゃ物語りのように話して見て・・・って言うと、えっと和が与作で

洋はチルチルミチル・・・って。まぁさっきより固有名詞が入って、感情移入はしやすくなったけど・・。じゃ例えば、画像が無くてどんな感じの絵だった?って伝えようとすると、和が、その坂から金田一がやって来る。まさかその民家であんな事が起きるなんて・・・誰も想像する者

はいなかった・・・って和と、ここがクララの家なの?・・・大きいねぇ・・・お庭も広いし、お花もいっぱい・・・って洋、どっちが作りたい?・・・こうすると、随分嫌がらせのような悪意ある表現だな・・・と思われるが、正直誰が見ても和は地味だったのね。

つまり迷う必要性を全く感じない質問にならない質問。これがね、洋の方が華やかで良いんだけれど、実はこの和は実家なんです・・・って言うのなら情緒が出る。それなら迷わず和で・・・って言うだろうね。そんな思い入れのあるものならね。つまりどっちでも良いんじゃん。

なら華やかな方がいっぱい色が使えるでしょ?ってこんな感じになる。つまりこの話は労作展の子達と一緒で、そこに思い入れみたいなものが無いと、制作時間が長くなるから、いつか何でこんなの作っているんだろうか?なんて事になり兼ねないのね・・・出来ればそこに絶対の思い入れ

があると、そんな気持ちになっても踏み止まる事が出来たりするから。それが証拠に何度と無く崩れ掛けた棟梁の作品もここまで来た訳で。そうそうさっきのつつく話は、じゃ空の話でもしようかな?・・所で空はどんな感じ?って聞くと、これからの人生はピーカン、青空って言うのね

・・・じゃ今なんだね。今から既にピーカンなんだね・・・この話は日光東照宮の修繕の仕方の話と一緒なのね。一体どの時代に戻すか?昨日なのか?五年前なのか?50年前なのか?それとも新品なのか?それは人それぞれになる。つまり棟梁はこれから先の人生はピーカンって表現した

今、幸せでこれから未来永劫ずっと続く・・・そんな空って表現なんだろうね。では情緒って話を加えると、まず最初棟梁は飼っていた犬の1匹が亡くなった事による悲しみから、そっちへ行くまで待っててね・・・の絵を作ろうとしていたのね。つまりあの世の絵。

勿論、仏像彫刻をやっている位だから、神様とか天国とか偶像崇拝的発想は、一般の人よりも馴染みがあり、悪い場所には思わないんだろうね。しかし、棟梁と仲良くなる上で、あの世をわざわざモザイクで作らなくても、仏像彫刻で描けば良いし、生きている側からの考えでの制作

・・・つまり、この世でその思いの絵は作れないか?何もあの世で会おう・・・じゃ無くて、お盆に帰って来たでも一緒で会えるじゃん。って発想。それによって、あの世のイメージって何色?って言うと、白とかパールとかグレーとか・・・って話から、この世って?お花畑もうそれだけ

で華やかになる。そんな考えは?って事で華やかなこの世になりつつある。さて確かに青空はその華やかさに馴染む。ここからが情緒の本当の意味だったりすると思うのね・・・ここまではあの世を作りたかった人へ、この世に引き戻して、全く反対側へ導いた事になる。

そうね、巨人から阪神へ位の変更にも思える。そこでそこまで替えられた人は、どうだろうか?無理しないで最後は移籍しても・・・って受け入れた人のみの考え方ってあると思うのね・・・貴方の好きな場所へ・・・ってね。そこでどうだろうか?あの世って言うのも・・・になる。

つまり青空だと既に幸せでずっと続く絵。それを保険とします。だから、何も浮かばなければそれを使う。一旦リセットして、それじゃないものは?・・・と考えた時、あの世好きなんだから、あの世に仮に少しテイストが入っても、色鮮やかな今、この世テイストが消えるはずは無い。

と踏んで、あえてあの世テイストにするとしたら?あの世の空ってどんな感じ?・・・じゃ他人事だから、りょうさん、あの世って何色?って聞くと・・・白?って・・・そりゃ見た事無いもんね。じゃ白で。他は?・・・って聞いても反応が無く、それじゃ人に聞く前に俺は・・・って、

紙に書いてから棟梁に、もう一度聞くと、今まで大ざっぱな表現の棟梁が、後光が差して・・・はい正解。俺もそう思うのね。では後光が差すにはどんな感じ?・・・ん・・・あのね、この先必ずもう1匹も死がやって来るのね。既に1匹目で大きなダメージを受けているのだから。

つまりこの先に今のままの青空は続かないのね。逆です。その亡くなった後に後光が差して、その後の人生も穏やかに暮らしましたとさ・・・なのね。この絵は。だって棟梁の人生を描いたって言うんだもの。甘さ炸裂なのね。そもそも比喩として恐竜を犬に例えてはいるけれど、実は

2匹いる事で、娘さん達にも当てはまったりする。これは1人嫁いだ時の絵・・・そんな回想シーンにも見える。しかしながら、もう1人の娘さんも結婚した・・・その事で自分の手から離れた・・・そんな心の葛藤があったとしたら?あの時の1人離れて行くシーンは、もっと広がりを持ち

、今では一緒にお嫁に行こう・・・って親離れ、子離れの絵にも見える。そうして独りになった棟梁に、この先に何があるか?・・・だから後光が差す・・・何か活路を見出す事が出来る何か?・・・ってモノが乗っかった時に、ピーカン青空の表現の薄さがこの作品には邪魔になる。

何故なら、もしこんな話でウルッと来る人がいたのなら、俺は小説家では無いから、単なる御茶飲み話。でももし、棟梁が作品としてつくったのなら・・・もしそれでウルッと来る人がいるのなら?・・・それは人の感情を動かした事になる。つまりそれが芸術だと思うのね。

だとしたら、棟梁は芸術と向き合っているのだから、苦しみもがいて良いんじゃない?・・・そしてその先にある景色は出来てから見られるから・・・頑張れって感じなのね。逆に2人は・・・



棟梁のようにテーマが人生なんて重いモノでは無く、まだ楽しみながら・・・なんで、そんなに重いモノと向き合う必要は無いのね。ただ上手くなりたい・・・って言うのは、テクニックやセンスってものだったりするのなら、ある程度、自由自在に切れる技術は必要なのね。

となると、漢字の書き取りじゃないけれど、特訓で同じ文字の繰り返しは効果的。そう言う意味では、選んだ題材とても良いと思うのね。ひたすら切るべし・・・ってね。色もそこそこあって、楽しめて気分転換も出来て・・・。そうそう、そんな中、棟梁の作品の中に新キャラ発見。


ハチが2匹いたのね・・・もしこれが2匹しか作らなかったとしたら?・・・これって娘さん達の旦那の事?・・・そうだったとしたら?出来んじゃん、棟梁。それが情緒だったり、比喩だったりって事なのね。みんなアーチストはオリジナルとしてこんな事をやっているのね・・・。

あっ昨日のキウイの画像。





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