katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

キウイにお母さんにローラに娘さんの4人相席教室

2019-07-26 00:50:10 | モザイク教室
今日はキウイにお母さんにローラに娘さんの4人の相席教室。それではまずローラから。ちょっと難しい事にチャレンジしていたのね。今までは縁取りの中に色を付けていたのね。つまりブロックごとに区切られている中を2色選んで何とか切る事が精一杯って感じでね。しかし今日はそれよりも高度な事を

・・・では何が高度か?って言うと、今までは濃いのと薄いのをどう使うか?の2択。しかし今日は3択になったのね。ただ1色増えただけじゃんなんて思うと、じゃ受験に1教科増えただけじゃんって言うかな?恐らく本気であればあるほど大変だって自覚をすると思うのね。その姿勢が大事なのね。

それは何故か?と言うと意識が無いと感じないし、感じないって事は動作に繋がらないのね。是正は常に自覚が必要であって、その一歩が受け入れる事なのね。でも判りましたぁって何回言おうと、それはあくまで言葉の上だけであって、それでは自覚とは言わないのね。だから難しいのね・・・。

そもそも人は機械じゃないからワードを入れれば思い通りに・・・なんて事にはならない。しかも常に曖昧であり、気紛れなんて心変わりもする。って事は、機械はワードさえ間違えなければ、従順であり、常に変わりなく安定していて、自分勝手に気持ちに左右されないし、まして気分なんてものは無い。

ってこう言うと、まるで人は悪い事ばかりで機械に比べて見劣りするように聞こえるが、逆も真なりで、曖昧って白でも黒でも無い事を認識して判断をするって言うのは、相当有能な機械であれば、出来るであろうが、自動ブレーキですらまだ完全装備にならない位、難しい事だったりもする。

まぁ長くなったが、機械と人とは違うって事の説明になったが、この対比はこうして簡単に理解しやすいが、では人って事に絞ると、機械はワードを簡単に受け入れるが、自覚を持って受け入れる姿勢の人は、機械に匹敵するくらい、浸透度はすんなりで、逆に理解しがたかったり、受け入れられないと、

浸透度は薄いから、動作にも薄くしか現れない。しかも本人が受け入れていると思っていながら、実はまだまだな場合、受け入れていると思っているが故の思い込みが結果に繋がらなかったり、しまいにはセンスが無いのかな?・・・なんて口にしてしまったりするもので・・・。

けれどそんな場合、医者に行って風邪ひいてしまったんですけれど・・・って言っているみたいなもので、なら薬局に直接行っても良くなってしまうのね。つまりこの場合は、咳が止まらないんです・・・とか、熱がありますとか、喉が痛いとか、症状を言うべきであり、そこの是正をお願いしたい訳で。

病状を決めてしまうのなら、診断はいらない事になる。もっと言えば、やっぱり風邪だわっ・・・みたいにクイズの正解みたいなものなのかな?ほらやっぱりぃぃみたいなね。逆に俺が先生だから正解を持っていて、それと同じであるべき・・・と考えてしまうと、顔色を見て様子を伺ったりする場合もある

・・・実は常にオリジナルであればあるほど、正解は自分の中にあって、つまりどうしたいのか?が言えないと、そうするにはどうすべきか?みたいな事を一緒に感じられない。そうする事で考え方と導き方のような傾向と対策を立てられる。こんな時の自分はこんな考えでこっちよりだったりする。

なんて事が判ると、このテーマの場合には、そっちに片寄りがちだから・・この辺かな?みたいな考え方が出来るが、そう言う繊細さが無いと、大体こんな感じ・・とザックリとした表現になるし、逆に余りの繊細にこだわると、そのパーツ切れますか?なんて基本中の基本な質問がしたくなるもので。

そうね、こんな事が単純に2色の場合なら、水とお湯みたいに区切ると、冷たいか?暖かいか?みたいにはっきりするが、3色目の曖昧のどっちつかずをどう使って、混ざったように見せる事が出来るか?・・・こんなテクニックはこうするしかない・・・なんて1種類では無い訳で。

そのテクニックが、まるで混ざったか?のごとく・・・って比喩になる。けれどそれがやっている本人が混ざっているかどうか?を決めていては、本人の判定なんて実に曖昧になりがち。そんな時に、キウイやお母さんの目はとても参考になるし、評価としても正しい事が多いと思うのね。


その例の1つは、娘さんの表札でも生かされるのね。それはこの赤い実の例で説明すると、娘さんは来るなり、終わらせたい・・・って意気込みを口にしていたのね。そんな中、赤い実を既存の丸を使う事で切らずに進もうとしたのね。するとキウイもお母さんも切る事を勧めたのね。

では結果から見て、この4粒を切ったか?切らないか?のみで果たして完成を迎えたか?迎えなかったか?となった時、それは結果には何の影響も無く、ただ単に最初から終わらなかった事だっただけであって、影響を非常に受けた事にはならないのね。ただ取り組む姿勢・・・全てこれ1点。

要するに本人のこだわりが強い分、時間が掛かっているだけなのね。つまり簡単に言うと、こだわりを数字にして、文字こだわり度数10、葉っぱ10、縁取り10ってやっているように見えたとすると、既存の丸はただ張るだけであり、技術点は0に近い。それは幼児にも出来る事だから。

その理由から、ここまでこだわっているのに・・・そこを切らないなんて・・・って2人に言われたのね。実は高洲のサークルの上手さはそこにある。
容赦ないから。ダメなものはダメ。ただし、出来ない事を無理矢理では無く、出来る事、出来ていた事に挫けたり、果てしなさに付いて行けない

そんな気持ちになる人、なった瞬間、容赦ないダメ出し。しかも先生の俺からでは無く、上手い人達からの意見としてね。こうなると言い訳が利かないのね。例えば俺がそりゃ無いわっ・・って言えば、どんな優しい言葉であっても、結局ダメって言うだけなんだから、そうしたくない人にはきつい

のね。ただし結果は必ず出来栄えとして良くなって当たり前。けれど言い訳として、私は生徒で先生は上手いから・・・ってな話になりがち。けれどキウイもお母さんも同じ生徒。更に言えばお母さんは年配・・・もはや言い訳にもならない。それなのに、2人は上手い人だから・・・。なんて言って

言い訳をするようなら、その時点で挫けていて立ち直れないのだから、無理強いになるから、無理する事は無いですよになる。さて一体本当の優しさって一体何だ?・・・俺に教えておくれ・・・。ってな話。そもそも早く出来る人には出来る理由があるし、遅い人には遅い理由がある。

そして上手い人達にも上手い理由がある。勿論1つでは無いけれど、1つ挙げるなら簡単で上手い人は、自分で終わりを決めない。終わった時が終わりなだけ。ただそれだけ。そして常に今日の分がいつもの質のまま終わった・・・ただその繰り返しをしているだけなのね。


ただね、こんな大作ならそう言う気分にもなる。だってそうそう終わらないもの。でもね、表札だもの・・・早く飾りたいし、こんな小さいんだから、もっとサッサと・・・いくらなんでも・・・もし最初の気分の、本当に私に出来るかな?・・・のままなら、変わらない今日を過ごせば良いだけ。

ただね、とは言え流石にそんなに心がばててしまったのなら、終わりは迎え無いとならないし・・・それなら次回は完成させましょう・・・になる。
こんな考え方を全てひっくり返す作品はこれ。



ローラのこの作品。確か2個だったかな?・・・ほぼ切る事は無い。つまり既存のタイルをどう並べると美しいか?だけ。つまりデザインが勝負になる。こんな場合、ほらお好きにどうぞ・・・であって、ほぼ放置で良いじゃない?だってただ張るだけじゃん。しかも2個目。全てやり方は知っている。

きちんと教えた事を受け入れて覚えていたら、簡単でただ外側から好きな色、好きな形を1つ選んですぐに張る。そしたら1列小さくなった。今度はその色、その形にあった2列目を張る。余計な結末なんて一切考えない。仕上がりなんてどうでも良い。最初に決めた1列目が全て。それに従う。

しかもその1列目を決めたのも自分。言い訳無し。そもそもそんな結末をイメージする事が出来るなら、丸や三角四角の繰り返しの絵。誰ても描ける。
下手でもイメージしやすいからね。所が果たしてそうだろうか?張った方が描くのが苦手な人なら手っ取り早いし、その場で出来る。しかし、しかし、

その場で考える事になるって事は、考えている間に時間はどんどん経って行くのね。そんなアイデアがスラッと出るのなら、クリエーターなんてこの世にいらないし、スピルバーグ監督も構想に時間掛け過ぎだろっ・・・プロなんだからって言えば良いじゃんって話。

そうじゃ無いのね。構想って言うのは、常に考えられるのね。通勤、通学、トイレにお風呂、授業中でも会社でも、人といる時も、寝ていても・・・常に何処でもね。だってペンと紙だけでも出来る事だから、場所を選ばない。けれど制作は机に向かわないと出来ない・・・。

だから必ず構想は果てしない時間であり、制作時間はそれより短くなっていたりする。ただ構想は頭の中であり、本当にずうっとやってた?って話で、制作は座っている時間が明確なんだけれどね。って事を踏まえて、制作時間なのに構想を思い付きだけで、ひらめきだけでやればそりゃあね・・・。

だったら、いちいちひらめかない。最初のひらめきの1列目を信じて、それに合わせるだけ。余計な事、結果に縛られない事。今日の分だけ。明日に繋がれば良いだけを繰り返す。そうすれば自ずと結果は付いて来る・・・大した事は教えなくてもこうして結果は出る。きっと楽しめただろうね。

これが楽しんで結果を出すやり方。そして同じ作り手なのに、黄色いバラはいつ終わるんだろうか?そんな事考えずに、考える事は1つで、今日の分は美しかったですか?・・・前回までみんなにOKを貰えていたのだから、同じ顔をして貰えればOKを引き継いだ美しさだし、苦い顔をされれば失敗。

そんな中、そんな辛抱強い番長がやって来た・・・そうさくらである。ひたすら同じ事を繰り返すなんて誰にでも出来ない事なのに、まるで誰にでも出来る事と言う、全く自分の存在すらを認めない厄介な人なのね・・・まるで自分は劣っているだけの人と言い張る位、そんな主張をする人・・・

俺には厳しい事を平気で誰にでも出来るよ・・・ってそそのかす、たれでも出来るよってそそのかす優しい顔した妖怪に見える・・・あはははは。そんな事に手を出したら地獄が待っているんだけれどね。ちなみにお母さんはそそのかされて手を出して、とても痛い目にあって二度とやらないって。

そんなタイルに穴を開ける・・・なんて事を1つならまだしも、眼なんてやれば、2つ同じ成功を手に入れないと、全てが台無しになる。時間もお金も・・・その果てしなさ、恐ろしさを知ってしまった人なのね。勿論、キウイは最初からそんな事を簡単には手を出さないけれどね・・・・。

そうね、そもそもそれこそが個性なのね。確かに基本って言うのはピアノのバイエルや、料理のレシピのように真似をするから入るから、どれだけ忠実か?みたいな規定演技になる。所がそれを経て自由演技、つまりオリジナルって言うのは、katsuスペシャルであり、さくらスペシャルであり、キウイスペシャルであり、お母さんスペシャルなのね・・・つまり全員が出来る事じゃなくて、その人の持ち味って話なのね。

いかに自分を知るか?って時に、同じ道を辿った先輩の眼は自分よりも正しい眼だったりもする。少なくとも上手い人達の眼は確実に育てた・・・って自信はある。残酷だが上手いモノは上手いし、下手なものは下手。それはどんなものでも。容赦ない眼は必ず必要なのね。

何でもかんでも曖昧に何と無く良いって表現をしていると、いつまで経っても上手くならないのね。そこまで止まり。容赦ないって言うのは、時に優しさであったりもする・・・俺はそう教えているが・・・。まっ、そんな事もどうでも良いのね。それも都市伝説みたいなもん。

信じる者が救われるのか?触らぬ神にタタリなしなのか?一石二鳥なのか?二兎追うものは一兎をも得ずなのか?日本語って曖昧に優しく出来ているからねぇ・・・全て自分で決めると良いのね。それなら後悔は無いだろうから。って言うとさぁ、お金払ってなぁぁぁにも教えてくれないぃぃなんて事も

あったりするのね。ただね、オリジナルって自分自身。あくまでアシストなのね・・・だからイメージはオペ担当では無くて、最高のベテラン看護師。汗も言われなくても拭くし、かんしだって、何を使うか言われる前に準備出来て、時には違法かも知れないが縫合も出来たりする・・・

あはははは。何度も言うけれど、誰か本当の優しさを教えておくれ・・・俺は親をやった事が無く死んで行く身なんで・・・・先生にしかなれない。
もしなれるとしたら・・・くぅぅぅ、中々それでも大変だわっ。ってぼやき。ただこんな賑やかな教室、個性的で楽しかったのね。

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