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発掘された日本列島2018展(江戸東京博物館) 其の一と其の二

2018年06月17日 | 無題
其の一(古墳時代の甲の色)
甲(金井東遺跡2号レプリカと鹿角製小札群、鉄製小札1800枚、群馬県渋川市、古墳時代中期後半~後期、5世紀中葉~6世紀初頭)
 日本のポンペイと呼ばれる遺跡から出土した物である。筆者は、これが往時どのような色をしていたか、とても気になっている。展示カタログはじめこれまでの考古学的な復元モデルでは、鉄部分は黒く描かれている。錆びて出てくるから、どのようなものであったかは科学的にわからない。鉄はクロガネだから黒くされている。それが科学的態度として正しいであろうと、ギャラリートークをされた文化庁の先生が仰っていた。黒ければ、後の時代にその上に漆を塗るようになっても、文化史的に連続すると捉えられなくはない。
 ところが、ひょこんと乗って展示されている鹿角製の小札は、鹿の角なのだから黒くはなくて白い。この鹿角製の小札は、朝鮮半島に1例あって、ここでまた1例あるといった珍しいもののようであると、群馬県の関係者の方から教えていただいた。あまりにも珍しいものを文化史のなかの証拠とするのは慎まなければならない。けれども、甲の製造方法として記述されたものに、延喜式・兵庫寮式がある。

挂甲(うちかけよろひ)一領(ひとつくり)〈札(こざね)八百枚(ひら)〉。長功は百九十二日、中功は二百二十日、短功は二百六十五日。札を打つに二十日。麁磨(あらとぎ)に四十日。孔を穿(うが)つに二十日。穴を錯(す)る并びに札を裁つに四十五日。稜(かど)を錯るに十三日。砥磨(ととぎ)・青砥磨并びに瑩(みが)くに四十日。横縫并びに連ぬるに七日。頸牒(くびかみ)を縫ふ并びに継ぎ著くるに二日。縁を著くるに一日。擘拘(はくこう)并びに韋を裁つに四日〈擘縮に手力あり。下も同じくせよ〉。中功は日に札を打つに二十三日。麁磨に四十六日。孔を穿つに二十三日。穴を錯る并びに札を裁つに五十二日。稜を錯るに十五日。砥磨・青砥磨并びに瑩くに四十六日。横縫并びに連ぬるに八日。頸牒を縫ふ并びに継ぎ著くるに二日。縁を著くるに一日。擘拘并びに韋を裁つに四日。短功は日に札を打つに二十七日。麁磨に五十六日。孔を穿つに二十八日。穴を錯る并びに札を裁つに六十三日。稜を錯るに十八日。砥磨・青砥磨并びに瑩くに五十六日。横縫并びに連ぬるに九日。頸牒を縫ふ并びに継ぎ著くるに二日。縁を著くるに一日。擘拘并びに韋を裁つに五日。
挂甲一領を修理する料、漆四合、金漆七勺六撮、緋(あけ)の絁二尺五寸、緋の糸二銖、調の綿一屯六両、商布一丈三尺、洗革(あらいがは)四張半、掃墨一合、馬の革一張半、糸一両三銖。単功四十一人。
凡そ諸国の進るところの、甲を修理する料の馬の革は、尾張六張、近江十七張、美濃二十四張、但馬十一張、播磨三十二張、阿波十張。並(みな)駅・伝・牧等の死馬の皮を以て熟(つく)りて送れ。若し足らざれば、買ひ備へて数を満たせ。

 甲を作るとき、面を滑らかにするために砥石が使われている。「瑩」くことが何かについては、春田永年・延喜式工事解に、「本文ノ瑩ノ字塗ノ字トナシテ見ザルトキ嘉下文修理ノ料中ニ出シ漆四合金漆七勺六撮コレヲ用ルノ日ナシ鉄質コレヲ金漆スルコト前ノ箭鏃ノ例ノ如シ後世ニ所謂ル白檀磨ノ脚当等ノ髤法ナリ今ノ甲匠コレヲ鉄白檀ト言フ」(国書刊行会編『続々群書類従 第六巻』続群書類従完成会、昭和44年、590頁、漢字の旧字体は改めた。)としている。春田は、後の時代の武具のことから漆を塗るのを前提に考えていると思う。(延喜式では小札の数は800枚となっているが、金井東遺跡のものは1800枚であった。)
 古墳時代の古墳から出土する甲に、漆が塗られたものは知らないと文化庁の先生は仰っていた。漆は残るから、残っていたら報告されている。専門家が聞いたことがないということは、漆は塗られたことなかったらしい。ならば、時代は下るが延喜式の記事も素直に、鏃などと同様、漆を全面に施したのではなく、鉄を磨いでおいて白銀色にして、その部分を膏で「瑩(𨧿)」いたのではないかと考える。刀剣のために、同じ兵庫寮式に、「猪膏五合〈刀を瑩く料〉」とある。朝鮮半島の甲の様子を考慮に入れると、本邦の古墳時代のそれは、後代の甲冑の色彩感覚とは異なるものがあるとのではないかと想像する。少なくとも朝鮮半島からの影響で小札甲は古墳時代中期中葉に始まったのだから、そのはじまりにおいて黒かったとは考えがたいのである。
攻城図の馬甲と甲(三宝塚、5世紀初、『高句麗古墳壁画』朝鮮画報社、1985年、210図)
 このことは、感覚的に理解されていて、同展のイラストに甲冑を身に着けたキャラクターが登場しているが、甲冑は光っている。色としてはシルバー~白~グレーである。文化庁の先生には、カタログとイラストの色の違いの指摘出しという形になってしまった私の質問に、ツッコミと思われてしまったけれど、つねづね考えていることは次元が異なる。日本書紀に高句麗の騎兵をコハシ(強)と言ったり、甲を脱いだところがカワラという地名となったといった記述について、甲の色が黒かったらピンと来ないので、よくよく考えているところなのである。

其の二(馬の鞍の後輪の傾き)
装飾古墳の絵(福岡県桂川町、王塚古墳、6世紀中葉、前方後円墳、彩色(赤黄黒緑白)、写真パネル)
 この馬の鞍は、後輪(しずわ)が後ろへ傾いているように見える。大発見である。残念ながら他の絵に、今まさに乗ろうとしているものは、体操のあん馬さながらに前輪・後輪とも屹立している。ほとんどの象形埴輪の馬に、鞍は前輪・後輪ともに垂直に立っている。しかし、四条古墳の例に、後輪が傾いたものがある。
馬形埴輪(四条1号墳出土、古墳時代、奈良県立橿原考古学研究所蔵、やまとの地宝http://www.pref.nara.jp/27433.htm)
 この2例をもって、古墳時代の鞍も後輪は実際には傾斜していたのではないか、ほとんどの馬形埴輪の鞍は、鞍の観念を表わした産物なのではないかと推測しているのである。このテーマはすでに3年ほど(日本書紀のなかで)考え続けているが、わからない。今回、第2例目の装飾古墳の絵画を見つけたため、論拠もなく提示している。

 以上のようなことを、会場で課題学習をされている学生ボランティアの方にぶつけて疲れさせてしまうことがありました。ここにごめんなさいを言います。いろいろと意見を言ってくれたことを感謝します。これからもずっと、「~と言われている」とは別に、「個人的には~と思う」と話せる人であり続けてください。すべての仕事がロボットにとって代わられても、すべての人間がロボット化しないことを願っています。
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