古事記・日本書紀・万葉集を読む

上代におけるヤマトコトバの研究論文集 加藤良平

江田船山鉄剣銘を読む 其の一

2020年07月03日 | 江田船山鉄剣銘
江田船山古墳出土銀象嵌銘大刀(熊本県玉名郡菊水町(現和水町)江田船山古墳出土、古墳時代、5~6世紀、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035177~C0035186をトリミング結合)

銘文解釈の現況

 江田船山古墳出土の大刀の銀象嵌銘(e国宝「江田船山古墳出土品」参照)に、次のようにある。

 台天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖
 八月中用大鐵釜并四尺廷刀八十練(九)十振三寸上好(刊)刀
 服此刀者長壽子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太(和)書者張安也

 上の文字の判読は、東野1993.による(注1)。東野2004.は、「天の下治らしめし獲□□□鹵大王の世、典曹に奉事せし人、名は无利弖、八月中、大鐵釜を用い、四尺の廷刀を并わす。八十たび練り、九十たび振(う)つ。三寸上好の刊刀なり。此の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得る也。其の統ぶる所を失わず。刀を作る者、名は伊太和、書する者は張安也。」(102頁)と読み下している。
 東博の考古展示室の解説パネル(2018年)には、「75文字の長大な銘文をもつ大刀で、5世紀の政治・社会や世界観を伝える日本古代史上の第一級の文字資料です。古代東アジアの有銘刀剣には、中国製と朝鮮半島・日本列島製があります。中国・後漢時代以降の銅鏡や鉄製刀剣の銘文は、基本的に「紀年」および「吉祥句(きっしょうく)・常套句(じょうとうく)」を中心に構成されます。その後、3~5世紀頃には辟邪除災(へきじゃじょさい)を願う四神(ししん)思想を軸とした世界観を表現するようになります。これに対し、5~7世紀に日本列島で製作された有銘刀剣は、人名を古代日本語で表記していることや製作の事情を述べた内容が含まれるなどの独自性が認められます。また、「治天下~」の表現は中国の影響を受けた世界観を示すものとして注目されます。一方、大陸では銘文を記す対象は石碑のような大型のいわゆる記念物であることが多いのに対して、日本列島では身につけて持ち運ぶことができる鉄製刀剣であることも大きな特徴です。日本列島で鉄製刀剣が弥生時代以降も重視され、東アジアの中で特異なまでに発達することと、古墳時代の有銘刀剣の盛行は深く関係すると考えられます。」とあり、現代語訳では、「ワカタケル大王(雄略天皇)が天下を治めておられた時代に、文章を司る役所に仕えた人、その名はムリテが、八月に、精錬用の鉄釜を用いて、4尺(約1m余り)の立派な大刀を製作した。八十回、九十回に至るほどに丹念に打ち、また鍛えたこの上もなく上質の大刀である。この大刀を身に着ける者は、長寿を得て子孫が繁栄し、恩恵を受けることができ、その支配地を失うこともない。命じられて大刀を製作した者の名はイタワで、銘文を書き記した者は張安である。」となっている。
江田船山古墳出土大刀(部分々々)(古墳時代、5~6世紀、東博展示品)
 文字史の最初期の遺品である。1世紀のものかとされる「漢委奴国王」金印は中国製と考えられている。3~4世紀のものかとされる石上神宮七支刀は中国ないし朝鮮半島製と考えられている。本邦で作られたものとしては、5~6世紀のものとされる隅田八幡神社人物画像鏡、稲荷山古墳出土鉄剣、そしてこの江田船山古墳出土鉄剣がある。数が限られている中にあって、江田船山古墳出土鉄剣銘の不思議さは、よりによって刀の棟(峰)部分の狭いところに一条に刻まれている点である。相当に凝った考えをする人がいてできあがっていることが予見される。以下、銘文を丹念に観察しながら検めていく。

カマ(「釜」、「竈」、「鎌」、「囂」)の話

 意味として、「大鉄釜」は精錬炉のことと捉えられている。精錬炉は耐火レンガなどで作らなければならない。「釜」が鉄製だと精錬中に融けてしまう。他の金石文や文献などの引用と捉えられている。仏典に、大叫喚地獄の様として、「何故名為大叫喚地獄、其諸獄卒取彼罪、人著大鐵釜中、熱湯涌沸而煮罪人」(長阿含経)などと用例がある。地獄の釜の譬えについては後にも検討する。また、「并」をナラビニと訓むと意が通じないから、アハスと訓むとされている。けれども、「并」の字のアハスという意は、併合などという場合の一緒にすること、品詞は違ってもナラビニということと同じ意味であると思われる。アハスと訓むことでは問題は解消されない。
地獄釜茹で(矢田寺の絵馬、京都フォト通信様「代受苦地蔵絵馬」https://note.com/kppress/n/n945188140254)
 鈴木・福井2002.に、銘文の中段(上掲2行目)は作刀技術を語ったものとし、卸し鉄(おろしがね)製鋼の技術が記されていて、「大鐵釜并四尺廷刀」は材料であって、「大鐵釜」と「四尺廷刀」とを一緒にして新たに長い刀に鍛造したとする。慧眼である。
 「大鐵釜」は鋳つぶされ、「四尺廷刀」に加えられて鍛えられた。単純にそう読むことに特に支障はない。佐々木2006.に、「……硬鋼の素材が流通しているのに、なぜ鋳釜を壊して精錬し、鋼を製造したのであろうか。しかしそれを銘文に記しているのである。これは、もはや技術的解釈が可能な範囲を超えた問題と言わざるをえない」(194頁)とある。「技術的解釈を超えた問題」は、拙稿「コノハナノサクヤビメ考」によって、不細工な石長比売が返し送られたと説話化された由来として解明されつつある(注2)。すると、江田船山古墳出土の大刀は、大山津見神のウケヒの言葉に適うように製作され、石長比売と木花佐久夜毘売を二人とも併せて留めたから、「此の刀を服(はか)せば、長寿(みいのちなが)くして……」というお呪いの言葉が記された、と推理できる。なぜなら、すべてはカマの話に読めるからである。
 「四尺廷刀」について、「廷刀」という例が見られなかった時は疑問視されていた。千葉県市原市の稲荷台1号墳から出土した鉄剣銀象嵌銘に、表面「王賜□□敬(安)」、裏面「此廷刀□□□」とあるところから、「廷刀」という言い方がされていたに違いないと推測されるようになった(平川1988.)。孤例が2例(?)になると定説化されるらしい。平川2014.に、「[稲荷台1号墳出土鉄剣の]「銘文の主旨は、「王賜□□(剣の意)」にあり、王から鉄剣を授けたこと(下賜(かし))を表現したと考えられる。」(107頁)とある。「廷刀」は「鉄鋌」のことである(宮崎市定)、「廷刀」は「官刀」の意である(福山敏男)、「廷」は「挺」の省画で、「廷刀」はそびえ立つほどに長大な刀である(鈴木勉)、といった考えが行われている。そして、鈴木・福井2002.では、「「廷」の文字だけの解釈によって含有炭素量の低い普通の「鉄鋌」を当てるというわけにはいかない。」(7頁)のであり、「廷」から「刀剣用鉄鋌」か「刀剣」そのものを指しているとしている。持って回った議論が通行している。
 東野2004.は、「奉事典曹人」は、「「奉事せし典曹人」とも読めるが、「典曹に奉事せし人」とも解せられる。「典曹人」の存在を考える説は、埼玉県稲荷山古墳鉄剣銘の「杖刀人」との関係で有力であるが、……杖刀と典曹では語の性格も異なるから、強いて双方を関連づける必要はあるまい。「典曹に奉事せし人、名は」と読めば、後段の「刀を作る者、名は」という構文とよく合致する。」(103~104頁)とする。典曹という語は、後漢書志第二十四・百官一に、「令史及御属二十三人。本注曰、漢旧注、公令史百石、自中興以後、注不石数。御属主公御。閤下令史主閤下威儀事。記室令史主上章表報書記。門令史主府門。其余令史、各典-曹文書。」と見える。三国志・蜀書にも、「典曹都尉」という役職があり、典曹というのは文字を記録する役人であるとされ、官吏名、職名であると説かれている。しかし、後漢書では、「各(おのおの)文書を典曹する」というように動詞である。「上章表報書記」などとは違う内容で文書を書いている。文官にもいろいろあった。財務省も文科省も多くは文官であるが、作成する文書内容はいろいろである。文官でも武官でもない技官も古代からいる。当たり前の疑問が横たわったままである。大刀銘の「典曹」とは何か。
 「典」は、法典などという意でヤマトコトバにノリである。「曹」は、法曹などという裁判官のことである。「奉事典曹人」とは、刑部省の役人、獄訟のつかさを言うのではないか。平野1985.に、「あえて推定すれば、断獄・非違検察を任とする職掌ではないかと思う。「典曹人」とは、その下級の実務官である。いわば文官ではあるが、武官としての将軍府のそれにおなじく、警察力などの“威嚇的手段”をもっていたのであって、この両者に共通する面も多い。」(127頁)とする。養老令・職員令に、「刑部省(ぎやうぶしやう)〈司二を管(す)ぶ。〉卿一人。掌らむこと、獄(ごく)鞫(と)はむこと、刑名(ぎやうみやう)定めむこと、疑讞(ぎげち)決(くゑち)せむこと、良賤(らうせん)の名籍(みやうじやく)、囚禁(しゆきむ)、債負(さいふ)の事。……」、二十巻本和名抄に、「刑部省 宇多倍多々須都加佐(うたへただすつかさ)。」とある(注3)。判事のムリテが鍛冶屋のイタワ(カ)に材料を提供して刀を作らせた。裁判官が提供した材料が、「大鐵釜并四尺廷刀」である。あの世へ行くときの裁判官といえば閻魔大王、上代に「閻羅王(えんらわう)」(霊異記・中)である。地獄で釜茹での刑に処したりする。「大鐵釜」の持ち主に相違ない。では、「四尺廷刀」とは何か。「尺」は長さの単位ではあるが、親指と人差指とをL字形に広げた際のサイズをいう。二十巻本和名抄に、「尺 魏武雑物䟽に云はく、象牙尺といふ。弁色立成に云はく、尺は竹量也〈太加波可利(たかばかり)〉といふ。」とある。長さを計るのに、親指と人差指とをL字形に広げては先へ進めて数えていった。尺取虫をくり返している。それがタカバカリ(竹量)と呼ばれるにいたったのは、竹に等間隔に節があって物差定規に用いられたからであろう。「廷」は、法廷のこと、 court である。法廷に「刀」があれば、縛り上げてお白州に引きづり出された罪人を震え上がらせるに足り、威儀を整えるのに役立ったと理解される。そんな小道具として打ってつけの刀に鉄戈や鉄戟がある。反抗や逃亡を企てたとしても、引っかけ刺され倒されて痛い目に遭うことになる。
左:鉄戟、右:鉄矛(奈良県宇陀市榛原上井足出土、古墳時代、5世紀、東博展示品。鉄矛は刃部分が欠損したものか。)
戟を持つ馬頭羅刹(地獄草紙、文化遺産オンライン「紙本著色地獄草紙断簡(沸屎地獄) 」https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213973をトリミング)
 説文に、「戈 平頭の戟也。弋に从ふ。一に横の象形。凡そ戈の属は皆戈に从ふ」、「戟 枝有る兵(つはもの)也。戈に从ひ戟声。周礼に戟、長さ丈六尺、棘の如しと読む」とある。礼記・曲礼上には、「剣を進(おく)る者は首を左にし、戈を進る者は其の鐏(いしづき)を前にし、其の刃を後にし、矛戟を進る者は其の鐓(いしづき)を前にす。(進剣者左首、進戈者前其鐏,後其刃、進矛戟者前其鐓。)」とある。尖った石づきが鐏、尖っていない石づきが鐓である。戈は、長い柄の先端に直角に短剣状のものを取り付けて、敵の首に撃ちかけて斬りつけたり引き倒したりするもの、戟は、戈にさらに矛を合わせた形で、一体式と異体式とがある。戈の撃刺、ひっかけ斬る機能に、矛の突くという働きまで兼ねたものである。すなわち、戟には木製の柄と同じ方向の刃と、直角方向の刃(援)がついている。銘文に「四尺」とあるのは、柄を取り付けた時の柄を含めた長さか、「周礼に戟、長さ丈六尺」の1/4サイズと見たか、あるいは鎌刃が両側に2個ずつ、計4つのL字になっている方天画戟の類を表したものかもしれない。「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」(垂仁紀八十七年二月)とあるのが、実寸ではなく、勾玉が大きいことやぐにゃっとよく曲がっていることを表すのと同様な形容である。
右:鉄鉞戟(鉄、中国、前漢~後漢、前2~後3世紀、東博展示品)、左:鐏(青銅他、中国、戦国時代、前5~前3世紀、東博展示品)
戈(青銅、中国、戦国~秦、前4~前3世紀、東博展示品)
 徐鍇の説文解字繋伝に、「一に戟の偏距(かたかま)を戈と為す」とある。戈は矛部分を伴わず、戟のように先に伸びる部分がないから片鎌といっている。それを「距」と表している。新撰字鏡に、「距 其呂反、上、足角也、阿古江(あごえ)也」とある。「距」は、距離というように足で長さを測るわけであるが、和名抄に、「距 蒋魴切韻に云はく、距〈音は巨、訓は阿古江(あごえ)〉は鶏雉の脛に有る岐也といふ。」とある。鶏の蹴爪のことである。前爪と蹴爪の両方をあわせ持っており、戟の風情を彷彿させる。親指と人差指の間にできたL字形が後爪と蹴爪のところにもできている。「廷刀」は、法廷の刀のことと想定して探求してきたが、「廷」は「庭」に通じ、ニハと訓まれる。ニハトリ(鶏)の爪の話になっている。鶏の足のアゴエの場合、3次元立体であるため、強力な武器に見えることは間違いない。そして、アゴエという言葉は、ア(足)+コエ(蹴の古語)の意とされるが、古い用例は確かめられないものの、アゴ(顎・頤)という語と関連がありそうである。正面からでは不確かながら、横から見て鎌形をしていることがよくわかる。魚のアギト(鰓)とよく似た構造である。
(kokusai1214様「コシャモの「蹴爪」」https://www.youtube.com/watch?v=0Zr07ubLI0s)
 庭園で刀を使うとすれば、草刈り鎌であろう。「廷」の字は、名義抄に、銘文と同じ旁が「手」となる字を載せ、「𨑲 ムカフ、サカフ、ヲトル、アフ、マサル、ツヒニ」とある。戟の古文が屰、ないしは、戟は屰に通じ、屰は逆の初文である。突いて使うのとは逆の、引っぱって有効なのが戈や戟であり、形的には鎌である。説文にいうように、戈は横さまに刃がついている。名義抄に、「戈 過に同じの平声、ホコ、カマ、ヒトシホコ、ツハモノ、イル、吴々、過」、「戟 居逆反、ミツマタナルホコ、ホコ、ホコニサキ、ハヤク、禾客」、和名抄に、「戟 楊雄方言に云はく、戟〈几劇反、保古(ほこ)〉は、或に之れを于と謂ひ、或に之れを戈〈古禾反〉と謂ふをいふ。」とある(注4)。すると、「四尺廷刀」という「四尺」という形容は、ヤマトコトバにヨサカ(ヨは乙類)であろうから、横(よこ、ヨ・コは乙類)+逆(さか)の意味を含むと知れる。捻くれた性格の曲がれるもの、鎌なるものの意がよく表現されている。白川1996.に、「戈 kuai は割裂の音をしめすものらし」(102~103頁)いとしている。
片鎌槍(朱銘 加藤清正息女 瑤林院様御入輿之節御持込)(室町時代、16世紀、東博展示品、徳川茂承氏寄贈、参考図)
 実戦においては、騎馬や馬車での戦いで戈や戟は有効であったろう。本邦において刀剣類の武器は、独自に発達した日本刀が大勢を占め、他に槍、長刀が見られる程度である。しかし、法廷で戈や戟のような姿形を見せられると恐れをなしてしまう。そのため、犯人はつい自白へと向かう。戈や戟というおどろおどろしい鎌形の武器に誘導される。すなわち、鎌をかけられるわけである。この「かまをかける」という不思議な語句がいかに生まれたかについては、いくつかの説があげられている。上代に遡る俗語表現であるかは不明である。①相手にやかましく、かしましく喋らせて、そこから引っ掛けるようにこちらの聞き出したいことをうまく引き出すことから、カマ(囂)をかけるというようになったとする説、②甑を作る際に、寸法を測る道具をカマと呼び、カマで寸法を確認することをカマをかけるといっており、思いどおりに導いて白状させることをカマをかけるといったという説、③鎌の先で引っ掛けるように、相手をこちらに都合の良いように引き寄せるようにした際に、引っ掛けたのを憚って言ったとする説、④山焼きの時、火打金のことをいうカマを火打石にかけ当て、付け木にうまく火をかけることから譬えられたとする説、⑤カマキリのカマの手繰り寄せる動きから見立てたとする説などがある。今見てきたことから、⑥戈戟類に由来する説もあり得、また、⑦鶏の距(あごえ)によるとする説もあげられよう。
 ②の、甑を作る時の厚さを測るコンパスかノギスのような道具について、歴史的由来について不明ながら(注5)、そういう曲尺(矩尺)のものが古くから用いられていたのであるなら、非常に興味深い説であると言える。曲尺(矩尺)は鎌形で、L字状をなす。すなわち、「大鐵釜并四尺廷刀」において、釜と鎌の結合が、釜と甑にまつわるカマとの融合を表しており、石長比売と木花之佐久夜毘売の両者をともに使うことになり、記の大山津見神のウケヒにある、「我之女二竝立奉由者、使石長比売者、天神御子之命、雖雪零風吹、恒如石而、常堅不動坐。亦使木花之佐久夜毘売者、如木花之栄栄坐、宇気比弖〈自宇下四字以音。〉貢進。」という言葉に呼応してくる。両者を使った刀を製作したのだから、「服此刀者長壽子孫汪〃得□恩也」と言えるのも確かになる。釜と、釜にかけるのが本来の姿であるはずの甑の、それを作る時の鎌のような形の道具とを合体させた刀を持っていれば、長寿繁栄間違えなしということである。もちろん、そのような上手い話については、真実か否かといった次元の話ではない。そうあって欲しいと願われているのであって、ウケヒの文句を具現化したに過ぎない。それを現代の研究者は「威信財」という術語で呼ぶかもしれないが、それは筆者の仮説立て同様、憶測の域を出るものではない。
 始めに言葉ありき、である。そこから出発すると、大山津見神のウケヒの文句など、そもそもが信を置けるようなものではない。そうあってくれるといいなと思って2人の娘を貢進したと言っている。言っていることが大袈裟で、カマをかけたような話である。カマをかけるという慣用句の語源説に、さらに、⑧釜を竈に架けることによる説も付け加えたい。大陸で鉄製であった釜は、それに合わせて設けられた竈に架ければ十分役に立つはずであった。拙稿「コノハナノサクヤビメ考」において、筆者は、大陸から鉄器として釜がもたらされたものが本邦での釜の始源である可能性が高いと指摘した。それまで、煮炊きには、効率の悪い囲炉風の火処(ほど、ドは乙類)を使っていたが、竈を作って釜をかけるという新技術が伝来した。まことにうまい具合にできている。火も煙も見えないから、ご飯はまだ炊けていないだろうと思っていたら、すでにおいしく出来上がっていた。騙されたような仕掛けである。この説の焦点は、まんまと乗る、とするところが、飯(まんま)を炊くために釜を乗せることと絡んでいる点である。カマをかけるという慣用句の語源解釈として穿っていよう。
五徳に鍋に薪の炎、横に戟のようなヨキ(斧)(板橋貫雄模写、春日権現験記・第13軸、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287498?tocOpened=1(15/19)をトリミング)
 けれども、羽釜の羽(鍔)が錆などで欠け損じてしまうとうまく竈に架からない。通常の容器において最大の欠陥は、穴が開いて中に入れる液状の物質が漏れ出すことであるが、釜の場合は羽(鍔)部分の損傷も大きな欠陥とされる。竈から落下してしまって役に立たない。まんま(飯)と乗せることができなくなる。それはいつか。ハ(羽)+ツキ(尽、キは乙類)=葉月(はつき、キは清音で乙類)、つまり、八月である。大刀の銘文に書いてある。「八月中用大鐵釜并四尺廷刀……」。なぜ「八月」と記されてあるかについては、これまで吉祥句や鍛冶屋のならわしによるとされてきた。筆者は、八月は羽釜のハがすり減りツキ(尽)て竈に埋没するようになったため、役に立たないから鋳つぶしてしまう次第に相成ったと考える(注6)。その結果、釜は落下転倒し、灰神楽になってかまびすしい大きな音をあげた。江田船山古墳出土の銘文を伴う大刀は、カマとカマがあわさってできたやかましいもの、75文字にも及ぶうるさい銘文を持ったものである。それを自ら記銘している。自己言及の筆致は、無文字文化の感性に適っている。長文の銘文はそのしるしである。

和訓へのいざない

 これまでの解釈では、前段・中段・後段に分けたとき、中段の後半に動詞が見られない。「用」いてどうしたか。ふつうならシンプルに動詞で表す。すると、東野2004.が仮に「刊」の異体字と見ている43字目は動詞で、「刀」をツクルといった意味の文字に当たるはずになる。この43字目については、「利」(末永雅雄)、「長」(福宿孝夫)、「挍」(福山敏男)とする説もある。釜と鎌とを用いて「八十練(九or六)十(捃or振)」して、それから「三寸上好(刊)刀」したわけである。「三寸上好」については、鈴木・福井2002.に、意味上、「三寸」を長さと見るのは難しいとする。そして、「三寸上(くわ)え」説(福宿孝夫)や「上(切先)から三寸のところに焼き入れをした」説(石井昌國)は文脈上成り立たないとし、残されるのは、「三才上好」説(東野治之)、「三等上好」説(鈴木勉、福井卓造)、「三時上好」説(徳光久也、町田章)、「三均九和」説(本田二郎)、「三刌上好」説(王仲殊)などをあげている。
 しかし、これらの説に依ると不明の43字目が動詞にならない。筆者には、この銘文の文は中国人の作った漢文であるように見えない。教養あるヤマトコトバとして記紀万葉読みをするなら、「三寸」はミタビキダキダ、ミキダニシテ、などと読める。「寸」は寸断の意である。

 時に素戔嗚尊、乃ち所帯(はか)せる十握剣(とつかのつるぎ)を抜きて、寸(きだきだ)に其の蛇(をろち)を斬る。(神代紀第八段本文、私記乙本訓「寸〈岐陁々々(きだきだ)〉」)

刀剣にまつわる言葉として登場している。紀のこの部分、諸本にツダツダと訓んでいる。名義抄に、「寸 キダキダ ツダツダ」とある。ずたずた、きざきざ、に同じく擬声語である。キダ(分・段)は、「刻む」の語幹キザに同じとされている。「寸」は長さの単位でも、何かの簡体字でもなく、寸断したという意味であろう。また、以下の例に見るとおり、三つにスパッと切り分けることは、ミキダ(「三寸(三段)」)にすると表現されていた。ミツダとは言わなかったということである。

 遂に所帯(はか)せる十握剣を抜きて、軻遇突智(かぐつち)を斬りて三段(みきだ)に為す。(神代紀第五段一書第六)
 仍(なほ)、持たる剣を以て、三(みきだ)に其の弓を截(うちき)る。(崇峻即位前紀用明二年七月)
 ……「八段(やきだ)に斬りて、八つの国に散(ちら)し梟(くしさ)せ」とのたまふ。(同上)
 寸(きだきだ)に斬らるとも亦た心甘なひなむ。(遊仙窟)
 愁への腸(はらわた)寸(きだきだ)に断ゆ。(遊仙窟)

 つまり、釜と鎌を并せて用いて80回鍛錬し、60回か90回、捃したか振るったかしたものを3つに切り分けたのである。3分割だから、断ち分けた箇所は2ヶ所である。大刀(たち)にするために断っている。だから、キダキダと2回繰り返すヤマトコトバに成長している。だから、「三寸」と書き表している。的確な言葉遣いである。そのうち1本だけ念入りに銘文を施した。江田船山古墳から出土した大刀のうち、3口が非常によく似ていることは、亀井1979.によって早くから指摘されている。

 船山古墳出土の直刀の中で、これ[銀象嵌大刀]に形態・大きさの頗る似たものが他に二口ある。一は長さ一一三・九センチ(大刀A)、二は一一一・八センチ(大刀B)で、茎の長さは各々二一・五センチ、二〇・九センチ、茎には三個の目釘穴を穿っている。この両者から推定すると、銀象嵌を施した刀の長さは約一〇五センチとなろう。しかもこの三口は、同時発見の他の直刀に比べて遺存状態が一段とよい。特に環頭大刀二口とは、銹化の工合に明らかに差違があると言ってよい。狭い石棺内では、副葬位置による銹の程度の差を考えるのは不適当で、埋葬時期を異にする複数の被葬者のうち、もっとも新しい副葬を示すものと推定することも可能である。……船山古墳出土の大刀A・Bには、茎の刃関に近い部分に小さい方形の刳り込みが存在する。改めて銀象嵌大刀の茎を見ると、残存部に認められる不整形の凹みは単なるきずや銹による欠損ではなく、拡大してみると明らかにタガネ状のもので削った状態を呈している。この刳り込み方は三者共似ているが、大刀B、大刀A、銀象嵌大刀の順に雑になっている。つまり他の二口にも存在する小さい刳り込みを、同様の方法で作ったと見るのが妥当である。言うまでもなく茎に作られたこの小さい刳り込みは、柄に装着する勾金を通す孔として作られたものであるから、銀象嵌大刀を含めた船山古墳の三口の木装大刀は、玉纏大刀である可能性が強いと言えるのである。
 この三口の太刀はあらゆる点で似ているので、同一作者または同一工房による製作と考えられる。もしこの推定が正しければ、銀象嵌大刀の製作地、製作後の移動の問題と関係して、その歴史的評価に重要な意味をもつことになる。(7~8頁)(注7)

 現物を目の当たりにすれば、銘文中の「三寸」はミキダニシテと訓むのが正解であると確かめられる。「大鐵釜并四尺廷刀」の両者を「用」いてできあがった1本である。食品表記などでも量の多いものから表示する決まりになっている。「大鐵釜」のほうが「四尺廷刀」よりも分量が多かったものと思われる。3本分できて3分割した。
 それに続く「上好」という語については、先行研究に、用例がないにもかかわらず熟語と捉えられている。3分割した1本の鉄の棒から刀をつくったのである。「三寸上」=ミキダニシウヘ、三つに刻んだ上でさらに「好□刀」としたのであろう。43~44字目を作刀することと考えるなら、42字目の「好」は、副詞ヨクである。うまく刀を作ったのである。日本国語大辞典に、「よく」は、「①十分に。念を入れて。また、巧みに。うまく。……④困難なことをなし遂げた時、あたりまえでは考えられないような結果を得た時、喜ばしいことにでくわしたときなども感嘆・賞賛・喜悦あるいは羨望の気持を表す。よくもまあ。本当にまあ。よくぞ。」(⑬568頁)と語釈されている(注8)。万葉集に例を見る。

 ①吾が聞きし 耳に好似(よくにる) 葦のうれの 足痛(ひ)く吾が背 勤めたぶべし(万128)
 ④好渡(よくわたる) 人は年にも ありといふを 何時の間にそも 吾が恋ひにける(万523)

 万128番歌では、噂どおりだったという意味を、足と葦との駄洒落まじりに歌っている。万523番歌の例は、よくもまあ耐え忍んで渡ってきた人は、という意味である。江田船山古墳出土銘文付大刀が、釜と鎌から刀を作ったことは、駄洒落まじりでありつつほどに巧妙であり念入りでありながら、よくもまあと感嘆するに足るほど、鍛冶の苦労を偲ばせている。以上の①と④とをともに含んだ語義からして、42字目の「好」の字は、副詞のヨクと訓んで正しい。
「好□刀」(エミシオグラム、三浦1993.72頁)
「□」(左:東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035181をトリミング、右:古谷1993.51頁)
「均」(左:東晋、王羲之・興福寺断碑、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185342(9/18))、中・右:北魏、鄭道昭・鄭羲下碑、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1151250(23・22/28)をそれぞれトリミング合成)
 象嵌の文字を判読しかねている43字目は、手偏と定まるかなお不明である。筆者は、ここに手偏かと目されているのは、土偏の下に少し突き出てしまったものと見、「均」の字ではないかと考える。「好均刀」、ヨクカタナヲトトノフ、ヨクカタナトヒトシクス、などの意である。うまい具合に刀として整えたのである。カマ→カタナとするのは、鈴木・福井2002.のいう素材の問題だけでなく、言葉の意味からもとても難題であった。カマという語とカタナという語とは、意味的に相反する。カマは曲がれるもの、カタナは真っ直ぐなものの意を持つ。鎌は柄と刃との付き方が直角、戈は援部分によって刃自体が直角に曲がれるものである。他方、刀は一直線である(注9)。羽釜のハ(羽)はぐるりと曲がり切ってめぐっており、刀のハ(刃)は一直線である。それほど違うものへとよくもまあうまい具合にできましたね、というのが、「好均刀」の意味である。刀に反りが生じてきたのは平安時代中期からで、奈良時代の直刀はまっすぐなまま今も輝いている。
直刀(奈良時代、8世紀、号水龍剣、伝聖武天皇御料、東博展示品)
 銘文の最後、「書者張安也」について諸説行われている。刀鍛冶と象嵌者が別人で流れ作業を行ったから、「伊太(和)」と「張安」が併記されているとする説、コピーライターが字を知らない「伊太(和)」に刻ませたとする説、「名」と記さない「張安」は漢人名で一般的だから「名」とは記さず、仮名書きの「无利弖」や「伊太(和)」は名か何かわからなくなるから「名」と記したとする説、「張安」しか文字を知らないから尊大で、その部分の文字も立派で大きく、そのうえ「也」と付けて威張っているという説も唱えられている。それぞれ一理はある。けれども、上に述べた仮説が正しいのであれば、中国系のチヤウアンなる人物が、ヤマトコトバのなぞなぞだらけのコノハナノサクヤビメ説話を理解していたとは思われない。
 「獲□□□鹵」も仮名書きの名の表記とされるが、「(台)天下獲□□□鹵大王世」とは記されていない。わかるから良いのだと言えばそれまでであるが、固有名詞の出てくる箇所は、「(台)天下獲□□□鹵大王世」、「典曹人名无利弖」、「作刀者名伊太(和)」、「書者張安也」であると考えられている。誰がこの大刀を作った“当事者”か。作らせたのはムリテで、作ったのはイタ(ワ)である。そして、銘文を書き込んだのは「張安」であると読まれているが、馬や魚や鳥や花の絵も象嵌されている。馬や魚や鳥や魚の絵は誰が刻んだのであろうか。イタ(ワ)か張安か。絵を「書」でいいのか不明である。銘文の文案だけを考えた人が中国人の「張安」であるとする説もある。実際に手を動かして大刀の嶺に字を掻き刻んだ人と、「書」いた人とが別人ということになる。そのとき、絵のデザイン素案は誰が考えたのだろうか。味わいがあってとても素敵で芸術的センスに富んでいる。銘文の書風のほうは、「隷書・楷書を混交した書風を示す。」(東野2004.93頁)というが、倣製鏡などと同等、評価の下しようがない。。

「書」とは何かと「A者B也」

 「書」と断っている。この「書」とは何かをたださなければならない。「三寸」をミキダとヤマトコトバで考えるのが妥当であったから、「書」もヤマトコトバで了解する必要がある。ヤマトコトバの文字表記らしいことから、もはや張安中国人説は揺らいでいるのだが、なお仮にそれを続けてみる。「書」をフミと訓んで文章のことを指す名詞であると仮定すると、文字を刻んだにせよ文案を考えただけにせよ、張安という中国系の人は中国系なればこそ、「作書者張安也」、「書記者張安也」、「史者張安也」といった表し方にするように思われる。後ろへ続く「者~也」字もくせものである。
 「書(ふみ)」というヤマトコトバについては、紀に、「一書云」をアルフミニイハクと訓むとおりである。伝書であって、誰がいつ書いたかわからない。「何書(いづれのふみ)」(欽明紀二年三月)も同様である。「図籍文書(しるしのふみ)」(神功前紀仲哀九年十月)は目録のことである。「詔書印綬(せうしょいんじゅ)」はいわゆる親魏倭王の印綬を授けた際の親書、「勅書(みことのりのふみ)」(雄略紀七年是歳ほか)、「詔書(みことのりのふみ)」(欽明紀二年四月ほか)も偉い人の公の文書で政治的効力をもつ。「印書(しるしのふみ)」(欽明紀二十三年七月是月)は機密文書である。「高麗の上れる表䟽(ふみ)、烏の羽に書けり。」(敏達紀元年五月)とあるのは外交文書である。敏達紀の例でなかなか解読できなかったことは、フミという語の持つ性質をよく表す逸話である。音声言語と文字言語では利用する脳の領野が異なり、無文字文化のなかで育った人には難題であった。それを小咄に仕立てている。小野妹子の「書(ふみ)」(推古紀十六年六月)も外交文書である。「書信(ふみのつかひ)」(欽明紀五年三月)は伝言役のお使いである。実際には文書(文字)を持たない。暗記者が手紙(文書)代わりになる。この使者が殺されると内容は失われる。歩いて行く時の足跡が、文字のように見えるとする浜千鳥の足跡=文字説は、このようなところにも潜んでいる(注10)
 ほかには、「書函(ふみはこ)」(天武紀元年三月)という信書(親書)の入った箱の例もある。書いた(右筆に書かせた)人が遠くにいて、また、書いた時点も見た時点よりも時間的に遡ることを示す。ヤマトコトバのフミという語には、そういった時間的空間的な遠隔性が備わっている。書物の意で「書」を使うのは日本書紀でも最後の方である。なぜか。書物はほとんどなく、あったとしても読めず、読みこなすことなどできなかったからである。無文字文化にあった。日本書紀という書名も、もとは日本紀であったらしいことが万葉集の左注からわかっている。
 ところが、古墳時代の5~6世紀とされる江田船山古墳出土の大刀の銘文に、「書」とある。これをフミと訓む限り、次のような奇妙な事態が生ずる。紀の例に多い「一書」ほか「書(ふみ)」の例は、既に書かれたものであることを前提とし、それが伝えられていくことを「一書云」という形を用いて使っている。「書(ふみ)」という語には文書の既存性が内含されている。すると銘文は、どこかよそで中国人か中国系の人によって作成された文案があり、遠隔操作されてその指示通りに象嵌されたことになる。「書」の原本が他にあるということである。けれども、指示書が発見されたという例は他にも知られない。対象物に固有の銘なのであろう。あるいは、これはコノハナノサクヤビメにまつわる伝説を書いたのだから、「書(ふみ)」の内容は遠隔的な代物なのだと考えられなくもない。当時の集合無意識の産物であり、降って湧いたような「書(ふみ)」であると想定できなくはない。「古事記」をフルゴトフミと訓むようなものである。フミという語とフルという語に関連を見ようとするのである。音声言語を文字言語へとコード変換したのは、天から降ってきたようなものであると考えるのである。しかし、「書」であり「記」とはない。そもそも、ヤマトコトバは、抽象的な概念操作によって作られてもいなければ使われてもいない。言葉に発することは事柄そのものであることを志向すること、言=事とする言霊信仰のもとに、きわめて具体的でありつつ自己癒着的、自己完結的に使われている。側に下書きがあるから「書(ふみ)」と記したとする場合、「伊吉連博徳書曰」(斉明紀五年七月)のように「張安書謂也」などとなるであろう。下書はとって置かれることが求められたに違いない。
 大刀に銘として、コノハナノサクヤビメ説話の“カマ”の話の内容が刻まれている。そのことの事の次第が記されていると素直に受け取れば、そもそも、なぜ銘が刻まれたのかについても理解することにつながる。銘は、銘の内容を表すだけではなく、銘がどこに刻まれているのかということにも言及していると考えるのである。すなわち、図(figure)と地(ground)とを区分けする枠組(frame)の表示でさえもあるという了解に近づくことができることになる(注11)。「書者張安也」は、この大刀銘の記した、いわば式次第的な文句であると考えられる。
 「A者B也」という構文については、「者」や「也」という字の用いられ方が当たり前すぎてかえって理解しにくいところがある。「者」字の使われ方については、瀬間1994.に、漢籍、古代朝鮮半島、金石文・木簡、古事記の用例について検証があり、①提示用法、②形式名詞的用法、③条件強調用法、④文末用法に分類されている。わかりやすい例を1つずつあげる。①「是者草那芸之大刀也。(是ハ草那芸の大刀也。)」、②「於大穴牟遅神負袋、為従者率往。(大穴牟遅神に袋を負せて、従者(ともビト)と為て率て往きき。)」、③「然者、汝心之清明何以知。(然らバ、汝が心の清く明きは何を以てか知る。)」、④「是今橘者也。(是れ今の橘ゾ。)」である。
 まず、「者」という“用字”についての基本姿勢を確認する。上代の人はヤマトコトバを表すために、適当な漢語(漢字)を探していた。漢籍の文章を見ていたら「者」という字を見つけ、同じ用法であると思ってヤマトコトバにあてがっている。漢語(漢字)「者」の訳、ないし、「者」という字に新たに和訓と呼ばれる新語、漢文訓読のための特殊な言葉を拵えたということではない。どういうときに「者」字を用いるか。上にあげた①~④のときである。言葉を使う現場では、勘を働かせて宙で使う。「○○ト云フコトハ」、「○○トハ」、「○○ソノ者ハ」、「○○ト云フコトナリ」、「○○ト云フ者」、「○○ハ」、「○○ソノ者」、「○○ソレナリ」、ク語法の如きもの(「○○タマハク」、「○○ラクハ」、「○○スラク」、「○○スルニ」)、「○○レバ」、「○○ルハ」、「ソノ時ニハ」といったときに使われている(三矢1925.、国会図書館デジタルコレクション、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870085(42~44/100))。山崎1956.は、「A者B也」という表記は、「「也」は言語の形にあらはし得ない……気息、即ち述語格としての陳述と連体修飾語としての独立格的詠嘆との綜合を表意文字の形式を以て表現したものである」(森1949.238頁)と、適切に引用している。Aというものは則ちBであるのである、の意として用いられる。デアルノデアルと2回繰り返しているのは、「AはBである」を確かならしめるために、「『A』というものハ則チ『Bである』のである」と言ってサマになるようにしている。そこに、「A者B也」という表記が導かれる。
 逆に言うと、気息がないところに、「A者B也」のような表記は生まれない。近代に、「本日は晴天なり。」という用法が見られるが、これは無線の電波が届いているかどうかの試験信号として使われた。気息がなければ無線は音が聞きとれないということらしいが、効果的な発声音ではないとも指摘されている。いずれにせよ、面前で言う文言ではない。
 裴1935.によれば、漢語の「者」と「也」と「則」は、同じような概念を共有している。それは、ヤマトコトバのハ、バ、ゾにも当てはまる。そして、瀬間1994.にあげている②形式名詞的用法も、「従者」とは「従フソノ者ハ」の意味である。通説のように、銘文の「書者張安也」を、書いた人は張安という人であると考えるためには、「書者」を②形式名詞的用法ととり、続くはずの「名」の一字が脱落していると考えたうえ、「也」を衍字とまで処理するしかない。「書者名張安也」という字面でもおさまりが悪いのである。「書クソノ者ノ名ハ張安ナリ」と打電されているとは考えにくい。
 古事記には次のような例がある。

 此稲羽之素菟者也。(此れ、稲羽の素菟ぞ。)
 於今者謂菟神也。(今には菟神と謂ふ。)

「也」は現代語の「だ」に相当し、断定の意味になる。これがあの有名な稲羽の素菟だよ、今では菟神と言っているんだ、という意味である。そう話を聞かされて、聞かされた方が納得しなければ、そこにコミュニケーションは成立していない。お話にならない。言い伝えの時代、稲羽の素菟という言葉はよく知られていたであろうから、話を聞いて、あぁ、そうか、これがあの稲羽の素菟のことなんだ、と了解できている。
 もともとのヤマトコトバに、「書ケル者ノ名、張安ゾ」と言われてしまうと、チヤウアンって誰? 何? という話になる。存在の根拠自体がわからなくなる。唐突に先鋭化した名を、銘文の題目にあげるはずはない。名とは何かについて、最低限の理解は必要である。
 以上の反例から、「書者張安也」の「者」が、②形式名詞的用法ではないとわかる。古事記以前の銘文だから特殊用法であると捉えることはできようが、まずは他の用法で記されている可能性を考えたい。①提示用法とするなら、「書クト云フコトハ張リ安ンズルコト也」、③条件強調用法と考えれば、「書ケバ張リ安ンズル也」といった解釈が可能である。前者は容易に通釈できる。鉄の上に文字を掻き刻もうとするとき、刻んだだけではしばらくすれば錆びて見えなくなる。羽が錆びたから「大鐵釜」は使えなくなっていた。「書クト云フコト」とは、言葉を定着させることである。消えたら意味がなく、書いたことになっていない。だから、「書クト云フコト」は、則ち、銀線を張って安定化させることだ、という意味である。“気息”をもって語る定義のような文面ととれる。過不足ない把握が可能となっている。
 「A者B也」には、発展型の「A者B者也」が見られる。「此三柱神者胸形君等之以伊都久三前大神者也」(記上)、「其登岐士玖能木実者是今橘者也」(垂仁記)など、「『AはBである』ことは真である」という、さらに力説した言説である。すなわち、「書(か)ク」ということは「掻(か)ク」ということが本来の義であるが、鉄の上に掻いたからといって、それは「書(ふみ)」として定着されるものではない。なぜなら、錆びて判読できなくなるからである。となれば、書くことによって書(ふみ)として半永久的に残すということは、すなわち、銀線をもって象嵌に張ることで安定化させて遺すということに他ならないのである。そう定義をし、宣言しているのが、銘文のこの部分である。事の frame の提示が伴われている。「A者B也」と定義をする際、Aが動詞であることによってB→Aへと再定義することにもなる。それは時として、他を排除しようとする試みにも用いられる(注12)
 ③条件強調用法は、一見、今述べた①の解釈と矛盾して、意味を成さないように見える。けれども、「書者張安也」を「書ケバ張安也」と捉えることには十分な意味がある。この点については、①かつ③の用法に解釈した際に、「書」の主語が「作刀者伊太(和)」となる点と密接に関わってくるので後述することにする。いずれにせよ、銘の「書」は、中国人のチヤウアンが作成したのでも、中国の皇帝から贈られたものでも、それに擬したものでもない。
 なお、銘文中にある「不失其所統」は、コノハナノサクヤビメ説話の読みの文意からすると、統治の意味ではなく、皇統のようにいう血筋の続くことを表しているように解釈される。記では、「天皇命等(すめらみことたち)の御命(みいのち)」についての話として、コノハナノサクヤビメの話(石長比売と木花之佐久夜毘売についての大山津見神のウケヒの話)は語られている。この点も、銘文に「(台)獲□□□鹵大王世」と記入した意味と関わるので後述する。それがなぜ熊本県の江田船山古墳から出土しているのかについては後考を俟たなければならない。歴史研究からは、天皇家の末裔か分家か何かが肥の国へ行っていてお墓に葬られたという話についての事柄になるのかもしれない。言語文化研究の側からは、なぞなぞ小咄の記紀説話が存外に早く、広く、営まれていたことを重く受け止めなければならない。たいへんな難題に対峙することになる。ヤマト朝廷の版図拡大とは、記紀説話の地方への波及拡散でもあったようである。文字表記を考える表記史の研究には、表記するとはそもそもいかなる営みなのかについての検討が必須である。そして、当時の人たちにとって、釜と鎌とを窯を使ってトンチントンチン囂(喧)(かまびす)しくして大刀を一構え作ったという話は、歴史的にインパクトのある事件を契機として同時的に起こった“コト”であったろう。事だから言(こと)として定めた。なぜ銘文を刻むまでして何事かを伝えようとしたのか。当時の人々の考え方の枠組みまでを含めてまるごと理解されることを、銀象嵌銘は待ち望んでいる。
(つづく)

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