古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

鵜葺草葺不合命(鸕鷀草葺不合尊)の名義について 其の二

2018年03月05日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
(注)
(注1)フキアヘズノミコトという訓法は、本居宣長の勘違いと思われる。諸解説はそれに引きずられている。管見であるが、紀の古傍訓にアヘズ、アヘヌという例は見られない。
 なお、万葉集に、四段動詞かと戸惑われるアハスは、アフ(合)の未然形に、親愛を表す助動詞スが下接した形である。例示しておく。

 吾が恋ふる 妹は逢はさず 玉の浦に 衣片敷き 独りかも寝む(万1692)
 あしひきの 山沢ゑぐを 採(つ)みに行かむ 日だにも逢はせ 母は責むとも(万2760)

(注2)神話学に、「見るなのタブー」という名称で論じられている。黄泉国で伊耶那美命(伊弉冉尊)(いざなみのみこと)が伊耶那岐命(伊弉諾尊)(いざなきのみこと)に姿を見るなと言った例、崇神紀十年九月条の箸墓説話で大物主神が倭迹迹姫命(やまとととびめのみこと)に、姿を見ても驚くなと言った例とともに語られている。禁忌が破られて恥ずかしい思いをし、境目を際立たせる結果となっていて、その結果、世界が分節化されていくものと考えられている。論者は、「見る」ことを古代的な知覚として特別視し、「見る」ことが支配することにつながるから、「見るな」によって混沌、混淆状態を保つことができると対立概念を立てている。タブーが侵犯されなければ、すなわち、見なければ、願いはかなったという前提と対比させて解釈されている。筆者は、この考え方には無理があるように感じる。まず、箸墓説話の例は、見るなと言っているのではなく、見て驚くなと言っていて、「見るなのタブー」に一括することはできない。また、見なければかなったかどうかは、その時になってみなければわからない。そして、他の五感、聞くな、触るな、嗅ぐな、味わうな、と禁止された場合、発する側が音を出さず、近寄らず、食べさせないといった対処法をとれば、聞こうにも聞けないといった事態になる。同様に、見せないための仕掛けとして、遮蔽物の垣根を設ければ良かったことになる。見るなと言われれば見たくなるのが人情である。タブーとは、当該社会に伝統的に根差した禁止事項として定着しているはずであるが、伊耶那美命(伊弉冉尊)や豊玉毘売(豊玉姫)は、いきなりそう言い放っているにすぎない。
 記紀の説話に、「見るな」と言われて「見ない」と約束しているのかどうか微妙な言い回しであるが、一般に、約束した事が破られ続けたら秩序を失う。社会は構成、再構成されない。約束破りは逸脱者として排除されなくてはならない。古代の無文字文化の時代、人々は言霊信仰のもとにあった。それは、言ったことと行うこととを同一にするすすめであった。氏姓が乱れて「盟神探湯(くがたち)」(允恭紀四年九月)をしたのは、嘘をつく者が現れないようにしようとする政策であった。すなわち、「見るな」と言われて「見ない」と応じたのに見てしまったら、言≠事となって、収拾がつかなくなる。言葉が事柄を表わさなくなったら、言葉に言霊は宿らず、出鱈目が横行する。世の中が、アノミー、アナーキー、カオス状態に陥る。それを回避する手立てとしては、発せられた言葉どおりに事を行って言葉と事柄を合致させる。言行一致である。それに反して、言葉どおりにしてくれなかったら、とても恥ずかしい気持ちになる。ふだんは見せない姿を見られたから見られた側が恥ずかしいというだけでなく、見た側も恥ずかしい。それは、今日でも、嘘をつかれた時、嘘をついた方も嘘をつかれた方も、“人として”互いに恥ずかしい気持ちになることに及んでいる。なかには恥ずかしい気持ちにならない人もいるが、それははじめから平気で嘘をつく人であり、風上にも置けない輩である。文字時代においては、証文を取ることで嘘つきを予防でき、エジソン以降は録音技術を使うこともできるが、古代の無文字時代にはどうすることもできなかった。両文化の違いについて考慮せず、「見るなのタブー」論を唱えることは、“人として”という社会の根源的な基盤について無自覚であり、提題すること自体ナンセンスである。
(注3)思想大系本古事記に、「鵜の羽で産殿を葺いたというのは、鵜の羽に安産の霊力があると信じられていたためであるという説(可児弘明)がある。鵜の羽を持っていると安産できるという俗信がかつて沖縄にあり、また中国では妊婦が鵜を抱いて安産を願う信仰があったという。ただし産殿(うぶや)の意にあたる「うみがや(うむがや、生むが屋)」の転化がウガヤとなり、そのウが鵜に結びつけられたとする解釈もある。」(361頁)とある。可児1966.には、「豊玉姫神話がウの安産に関してもつ霊力を反映したものだとすれば、なぜ羽だけに限定されたかは別にして、ウによって安産を願う日本の宗教思想はウの胎生説とともに中国から渡ってきたにちがいない。」(49~50頁)と、かなり乱暴な議論が行われている。
(注4)仏典に膨大な比喩の話を典拠とするなら、典拠を示すことで研究は完成、終了ということになるであろう。瀬間1994.は、海宮訪問の表記とストーリーには、経律異相と一致するところがあると論じている。書き方の問題は太安万侶の筆には関わろうが、稗田阿礼の誦習とは無関係である。
(注5)記紀に記されている説話を歴史的事実かどうかと問題視する観点は、記紀を「読む」という姿勢から程遠い。また、それを神話として捉え、世界に視野を広げて海外に見られるものと比較してみるといった手法も、何の理解につながるのか不明である。あるいは、それを説話文学として捉え、昔話の一類型と考えることも、何をしているのかわからない。口伝てに伝えられたお話が、なにゆえか国の基を記すための書物の中に確かに残されているのだから、そのお話の語っているところをたどりながら熟考することによってしか、なぜそのような創作が行われたのかについて理解に至ることはないであろう。現代人の思考の枠組とは違うコードで、言い伝えの“世界”は成り立っている。文化人類学的なフィールドワークが求められている。
(注6)古代の人たちにとって、動物分類学的な発想はなかったと思われる。鵜飼に利用できることが知られて、cormorant のことをウと命名したのであろう。ウッと吐き出すからウと名づけたと考える。
(注7)拙稿「ヤマトタケル東征後の筑波問答「かがなべて」歌について」参照。
(注8)拙稿「事代主の応諾について」参照。
(注9)コンクリート造の陸屋根については、近現代にビルが建てられてから出現したものである。
(注10)瓦屋根は古く土葺き工法であったと思われる。
法隆寺中門工事紹介パネル
(注11)イラカという語については、角川古語大辞典に、和名抄の解説を受けて、「「甍」の字義よりすれば、瓦葺きの屋根の棟(むね)、また、その棟瓦をさし、「屋背」の字義よりすれば屋根の棟をさし、「在上覆蒙屋」の字義は、棟をさすとも、屋根一般をさすともとれる。しかし上代の用例では、一般の屋根にはいわず、瓦とは断定できないが、みな立派な御殿についていい、中古以降は特に瓦屋根の意に用いられる。」(①338頁)とある。また、日本国語大辞典の「語誌」には、「語源については、その形態上の類似から、古来「鱗(いろこ)」との関係で説明されることが多かった。確かにアクセントの面からも、両者はともに低起式の語であり、同源としても矛盾はしないが、上代においては「甍(いらか)」が必ずしも瓦屋根のみをさすとは限らなかったことを考慮すると、古代の屋根の材質という点で、むしろ植物性の「刺(いら)」に同源関係を求めた方がよいのではないかとも考えられる。」(①1375頁)とある。また、古典基礎語辞典の「解説」には、「瓦で葺(ふ)いた屋根のいちばん高い所。」(157頁、この項、西郷喜久子。)とある。上代の用例にイラカ(甍)が瓦製かどうか、文例から完全には掌握できないため何とも言えないが、筆者は、本文で述べたとおり、瓦は土を焼き固めたもの、芝棟は土をイワヒバなどで固めたものと捉え、弱点である屋根の脊から雨漏りしないように同様の工夫を施したことを指していると考える。見た目が禿げているという認識をもってして、イラカ(甍)という語ができあがっているわけである。少なくとも、棟に当たる屋根の、山で言えば尾根、稜線のところをイラカと呼ぶ際、尖った棘に当たるからイラカと言うのであると決めてかかるには無理がある。屋根で棘に当たりそうなものには、神社建築の千木がある。天に鋭く突き出している。しかし、それをイラカとは呼ばない。
 なお、産屋は一時的に造られる建物だから粗末で構わないのではないか、あばら家なるバラックで良いのではないか、だから瓦葺きなどあり得ないと考えるのは、話というものがどういうものであるかを理解しないナンセンスな議論である。
(注12)原始入母屋造と呼ばれる構法である。もちろん、屋根がどのようにあったかは出土しないから、わずかな絵画例や埴輪などから類推して作られている。筆者には大いに疑問である。
(注13)「子太草」=シダクサという語はここに孤例である。万葉仮名「太」は、ダ、タと訓む。シダクサで羊歯草のことと考えられている。シタクサで下草とすると、したばえの意(万1343)や、取るに足りないつまらない者(源氏物語・玉鬘)の例がある。筆者がイワヒバ=シダクサ説をとるのは、シダ類であるばかりでなく、イワヒバが岩場につくことからして、ついている屋根の土覆いが岩盤化していると思考されたであろうと認められるからである。ただし、この仮説は、語学的検証を得ることはできない。古語のイハヒバ(岩檜葉、巻柏)、別名、イハマツ(岩松)の用例に、中世以前のものが見られない。
 茅葺屋根の棟部分の強化策として、芝棟方法がいつから採られていたのか不明である。民家の例では、関東、東北地方に多く見られる。三内丸山遺跡の復元建物に芝棟が施されているが、真偽のほどは不明である。ただし、弥生中期の西川津遺跡(島根県松江市、前2~後1世紀)から、木製の鏝(こて)が出土しているのは何か関係があるかもしれない。ほかに、列島では穀物倉庫などに、石屋根で葺いた建物も見られた。板葺きや樹皮葺きの屋根でも、棟部分だけ、他とは別に丸く包んで押さえる方法がとられている。棟包みと呼ばれる桟に当たるものを使い、棟の端から端まですべてを途切れることなくつなぎ覆う。紀本文に、「乃以草裹児、棄之海辺、閉海途而俓去矣。」、紀一書第四に、「遂以真床覆衾及草、裹其児之波瀲、即入海去矣。此海陸不相通之縁也。」とある。白玉を包んで贈るとき、傷つかないように草(かや)をクッション材にして包んでおくのである。比喩にパラレルなウカヤなる家の屋根においては、大棟部分を完成させていることに当たる。他の屋根部分が軒方向へ葺草(かや)を流していくのと違い、横向きに束ねて置いて行っている。「甍」と表現されるところが棟の上の部分である。
 そこを、ナギサ(波限、波瀲、渚、汀)に見立てることができるとしている。ナギサの“語源”は不明であるが、語の音感として、草が薙ぎ払われたように横倒しになっている様子をイメージできる。「其の剣を号けて草薙剣(くさなぎ)と曰ふといふ。」(景行紀四十年是歳)とある。また、それと同根の語と思われるナグ(凪、和)とも関係がありそうである。海の波が穏やかにあることや、心の動揺が静まることを表す。心が動揺することは、いらいらすることで、短気のストレスから禿を引き起こすことについて上に述べた。いらいらして髪の毛がなくなっているように、棟瓦で被覆することを示していた。反対に心が静まる方向へ進めて毛羽立ちをなくすことで、屋根の棟仕舞とする方法が譬えられているようである。取り乱して髪が乱れ立っていたのをおとなしく靡かせた。大棟に葺草を横倒しに置いて被覆したということに当たる。方法として、瓦で葺く屋根の仕舞と茅葺きの屋根の仕舞とは、相容れないものであると考えられていたらしい。「於義不可。」(紀一書第三)とある。茅葺き屋根の棟部分にのみ棟瓦を敷き置いて被覆する方法は、瓦巻き、瓦棟などと呼ばれて現在見られるが、この棟仕舞は明治時代以降の流行と言われている。(注11)に「甍(いらか)」の語義を探ったが、大棟の上の被覆という機能としては同じながら、剥げには禿げた棟瓦をという対処法と、ふさふさの葺草の包みでいわば鬘を被せるという対処法は、仏信心をする仏者の聖と俗の違いに対照するということのようである。
(注14)紀一書第一に、葺いた棟瓦を表す字である「甍」という字で記されている。瓦葺き屋根は寺院に先行するから、僧侶など限られた人しか目にしていないか、その知識を有しておらずに、例えば文献上の意味合いから互いに了解し合うために訳語としてのみ作られていたという想定は、上代のヤマトコトバの本質から外れるものであろう。僧侶の頭の中だけの事柄であるなら、字音読みすればそれで済む。それをわざわざヤマトコトバに翻訳している理由は、多くの一般の人々が目にするものとして、寺院が建設され、実際に屋根の棟のところを覆蒙していて、あれはなあに? あれはカハラで、なかでも棟を覆うのをイラカというのだよ、と言い当てることをしていた、だから言葉として成り立っていると考える。
(注15)肝心要のオホムネの類義語に、要害、要衝の地、大切な場所を表すヌミという語がある。

 賊虜(あた)の拠(を)る所は、皆是要害(ぬみ)の地(ところ)なり。(神武前紀戊午年九月)
 凡そ政要(まつりごとのぬみ)は軍事(いくさのこと)なり。(天武紀十三年閏四月)
 新羅に要害(ぬま)の地(ところ)を授けたまひ、(欽明紀二十三年六月、兼右本左傍訓)

 このヌミには、ヌマという別訓も見られる。ヌマという語には、沼の意がある。古形は一音のヌである。足がア、水がミであったのと同様とされる。幸田露伴『音幻論』に、「沼はヌであり、塗はヌルであり、……海苔・糊・血はすべてノリである。」(国会図書館デジタルコレクション、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126366(38~39/109))とあり、ヌには、濡れていて、どろどろしていて、ぬめりのあるものの意があり、糊状のものとは塗るべき対象であるとしている。そして、沼はまた、一音でヌともいい、ヌには、瓊の意がある。瓊が塗るべき対象かといえば、勾玉を磨く時に、砥石に水を塗ってそこで磨いていくとやがてどろどろとぬめりを帯びてくる。

 行方無み 隠(こも)れる小沼(をぬ)の 下思ひに 吾ぞ物思ふ(万3022)
 廼ち天之瓊瓊は玉なり。此には努(ぬ)と云ふ。矛(あまのぬほこ)を以て、指し下して探(かきさぐ)る。(神代紀第四段本文)
 其の左の髻(もとどり)に纏(ま)かせる五百箇(いほつ)の統(みすまる)の瓊(たま)の綸(を)を解(ひきと)き、瓊響(ぬなと)も瑲瑲(もゆら)に、天渟名井(あまのまなゐ)に濯ぎ浮く。(神代紀第七段一書第三)

 これらの命題をつなぎ合わせると、オホムネはタマのことであるという結論づけられる。本意を考慮しても、大切なものをタマと呼ぶからよく適っている。ほかならぬ豊玉毘売、玉依毘売の名の「玉」に表わされている。拙稿「玉依毘売(玉依姫)に託された歌問答について」参照。
(注16)拙稿「仁賢紀「母にも兄、吾にも兄」について」参照。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年。
角川古語辞典 中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第一巻』角川書店、昭和57年。
可児1966. 可児弘明『鵜飼―よみがえる民俗と伝承―』中央公論社(中公新書)、昭和41年。
幸田露伴『音幻論』 幸田露伴「音幻論」『露伴随筆集(下)』岩波書店(岩波文庫)、1993年。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126366
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
思想大系本古事記  青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
白川1995. 白川静『字訓 新装版』平凡社、1995年。
瀬間1994. 瀬間正之『記紀の文字表現と漢訳仏典』おうふう、平成6年。
谷川2012. 谷川健一「豊玉姫考―産屋の民間伝承と記紀神話の接点―」『谷川健一全集7沖縄三―甦る海上の道・日本と琉球 渚の思想 他―』冨山房インターナショナル、2012年。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳編『邦訳日葡辞書』岩波書店、1995年。
日本国語大辞典 『日本国語大辞典 第二版 第一巻』小学館、2000年。
山田1935. 山田孝雄『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』宝文館、1935年。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870273

(English Summary)
About The Name of "Ukayafukiafasezunömikötö"
Nothing has ever been examined as to what the story of "Ukayafukiafasezunömikötö" is supposed to say for. It is surprising for people of those days, even nowadays to use cormorant feathers for the roof. I presume that one writer created that absurd narrative, and think about that the ideas originated from the principle of Old Japanese “Yamato Kotoba”. In this paper, I examine, among other things, the name "Ukayafukiafasezunömikötö". In the times without character, person’s name means what called him by a nickname than what he declared himself. In such ethnic culture, only spoken words played the role of connecting people. And so, it was most important to define words in spoken language. That is, it is conceivable that several narratives on Koziki and Nihonshoki have been made as a mechanism to constantly verify words with one another. It is concluded that the story of "Ukayafukiafasezunömikötö" is one so example.

※本稿は、2018年3月稿を2020年8月に整理したものである。