独立記者の挑戦 中国でメディアを語る

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習近平の父、習仲勲も胡耀邦と一緒に「四季の歌」を聞いていた!

2015-10-21 08:46:32 | 日記
来月20日は胡耀邦生誕100周年である。中国共産党は2015年の「忘れてはならない四つの記念日」の一つとしている。日本人にとっても忘れてはならない中国指導者の1人である。

読書家の胡耀邦は文化大革命期、北京で幽閉状態に置かれている間、『田中角栄伝』『日本列島改造論』に目を通し、「日本は戦後の困難を抱えながら、科学、教育に力を注ぎ、急速な経済発展を成し遂げ、工業大国になった。日本の経験は我々が見本として学ぶべきだ」が持論だった(『胡耀邦伝』人民出版社)。総書記時代には対日協調路線を強力に推進した。最も多くの日本人と会った中国の総書記と言ってよい。作家・山崎豊子がさる9月29日、三回忌を迎えたが、代表作の一つ『大地の子』が胡耀邦の強いバックアップによって生まれた。山崎豊子は1991年6月、江西省九江市の墓前に同著上中下3巻を捧げている。

胡耀邦は生前、取材協力を求めに訪れた彼女と面会した際、こう伝えた。

「中国の都合のいいことばかり書いて貰っては困る、美しく書いて貰いたいとは思わない、中国の立ち遅れ、欠点、暗い影も、制限なしで、どんどん書いて結構、嘘を書かれることは困る」(「『大地の子』と私」文藝春秋)

これだけ深い懐を開いた中国の指導者は後にも先にも胡耀邦だけである。習近平は5月23日、北京の人民大会堂で日本からの観光交流訪中団3000人を迎えた夕食会に出席し、「中日関係の発展を重視する中国の基本方針は将来も変わらない」と宣言した。その原型もまた胡耀邦が1984年9月、日本の青年3000人を招いたことにある。当時、中国には外国人を接待する施設や経験は乏しく、空軍が飛行機を手配し、軍が多数のホテルを提供して対応した。

同年、北京の首都体育館で行われた3000人訪中団歓迎パーティーでは、その3年後、習氏と結婚する人民解放軍歌手の彭麗媛夫人が日本の歌手、芹洋子と一緒に日本語で「四季の歌」を合唱した。当時は日本への留学熱がピークに達し、1988年には上海の日本総領事館がビザ発給を求める若者たちに取り囲まれる事件も起きた。「四季の歌」は日本語を学ぶ学生が決まって覚える曲だった。その後、彭麗媛夫人と芹洋子は何度か「四季の歌」をデュエットしている。

最近、共産党の関係者から聞かされ初めて知ったが、日本人青年3000人訪中団を歓迎する北京でのパーティーには胡耀邦のほか習近平の父親、習仲勲も同席していたそうだ。つまり彭麗媛夫人は習近平本人と知り合うよりも前に、すでに父、習仲勲からは「面接」を受けていたことになる。当時、習仲勲は総書記の秘書役に相当する党中央書記局書記の要職にあり、小平ら指導者25人で構成する党中央政治局の1人でもあった。

習仲勲は建国後、副首相まで務めたが、毛沢東が主導した権力闘争に巻き込まれて16年間、地方で審査や自己批判、引き回しなどの政治的迫害を受けた。それを救って名誉回復させ、広東省トップとして改革・開放の最先端に送り込んだ恩人が胡耀邦だった。2人は、開明的な思想の上でも同志だった。

胡耀邦は1987年1月、民主化を求める学生デモに同調したことで保守派長老から批判され、非公式な手続きによって総書記の座を追われる。過度の対日重視も失脚に至る「罪状」の一つに挙げられた。平の政治局員に格下げされ1989年4月15日、失意のうちに死去する。彼を偲び、憤る若者たちの追悼が同年6月4日の天安門事件につながった。このあたりの党史はベールに包まれ、まだ公式には全容が明らかにされていない。

習仲勲もまた恩人である胡耀邦と運命を共にし、政治局員の座を追われる。任期を残して引退し、亡くなるまで深圳で過ごす。胡耀邦と同様、不遇な晩年だった。習仲勲は2001年10月15日、深圳で88歳の誕生日を迎えたが、家族の中で、福建省長だった習近平だけが公務のために参加できず、手紙を送った。その中には、

「父は多くの人民民衆や我が党同志の広い尊敬を得ていますが、それはまず他人に対し誠実で、思いやりがあるからです。以前、私に教えてくれたことがあります。生涯において人を打倒したことがなく、真理を堅持し偽りを語ったことがないと」

と書かかれている。胡耀邦生誕100周年では習近平の記念スピーチが行われる見通しだ。どんな思いが発せられるのだろうか。
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