(77)アヒルの雛
五月半ばの日曜の朝、遅く起きたひょったんが顔を洗っていると、大きく開いた窓の向こうから、
「ヒロシ! アヒルの雛が全部孵(かえ)ったよ」と、父の声がした。
ひよったんは濡れた顔もまともに拭(ふ)かずに、裏庭のニワトリ小屋へ走った。
農薬を使わずに稲の害虫や雑草を防除するために、父はアヒルの雛を田んぼに入れることを考え、知人からアヒルの卵を分けてもらって、抱卵性(ほうらんせい)の強いチャボに温めさせていたのである。
待っていた父はニワトリ小屋に入ると、隅(すみ)の浅い木箱にうずくまっている黄褐色のチャボに手を伸ばした。
チャボは羽を逆立ててふくらみ、「クク―ッ」と怒りの声を発しながら、父の手をくちばしで突こうとする。
父がかまわずチャボの体を少し横へ動かすと、羽の下から黄色い雛が二つ三つと姿を現わした。
「わァ! 平ぺったかくちばしで、足に水かきのついとる。みんなでいくつおると?」
ひょったんが聞いた。
「ちょっと待って――」
父は木箱ごと外に出すと、怒って精一杯ふくらんでいるチャボを、両手でそっと抱え上げた。突然覆(おお)いがなくなって、驚いた様子の雛たちが、藁(わら)を敷いた木箱の中で、「ククッ、ククッ、ククッ」と鳴きながら体を寄せ合っている。
「六羽もおる」
「長い間、ヒロシがよく世話してくれたから――」
父は雛たちを満足げに眺めながらねぎらいの言葉を掛けたが、ひょったんはちょっと照れ臭かった。抱卵中のチャボの世話を頼まれながら、時々餌や水が切れていることもあったのである。
チャボがアヒルの卵を抱き始めて五、六日目の夜、
「ヒロシ、懐中電灯を持って来てごらん」と父に言われて、ひょったんはニワトリ小屋へ行ったことがあった。その時、父はニワトリより一回り大きなアヒルの卵をチャボのおなかの下から一つずつ取り出しては、懐中電灯にかざし、
「ちょっと見てごらん。これは光が透るから無精卵(むせいらん)、だからいくら温めても雛にはならん」と言って、二個外した。
「むせいらん?」
「うん、オスと交尾しとらん卵のこと」
「こうびしとらん卵?」
父が返事をしないので、ひょったんはそれ以上尋ねなかった。
抱卵中にチャボが木箱を離れて、餌を食べたり水を飲んだりしているのを見掛けたのは、わずかに二、三度だった。二十日余りの間、ニワトリより小さなチャボはろくに餌も食べずに、六個もの大きなアヒルの卵を抱き続けたのである。
雛の羽はヒヨコと同じく黄色だが、胴長で水かきのある足をして、「グァ、グァ、グァ」とかわいげのない声で鳴く、自分とはまるで違うアヒルの雛たちを、チャボは自分の子として大事に育てた。
何か餌を見つけたチャボが、「コッ、コッ、コッ」とアヒルの雛たちを呼びながら、尖ったくちばしで小さく砕(くだ)いている。
ニワトリやチャボのヒヨコなら、ひと粒ずつ上品についばむが、アヒルの雛たちは首を伸ばしお尻振り振り集まって来ると、平らな長いくちばしで、ショベルカ―のように掬って食べるので、チャボもあきれ顔である。
チャボのけたたましい鳴き声で裏庭へ飛んで行くと、いつもうろつく大きな赤ネコが、ふてぶてしく逃げて行くところだった。チャボは羽を広げてうずくまっており、あたりにアヒルの雛たちの姿はない。
「もしかしたら……」
ひょったんが心配しながらそこらを探していると、チャボの羽の下から黄色い頭が、一つ二つとのぞいて、やがて六羽がすべてそろった。
裏庭では野良ネコやイタチなどに襲われるかも知れないので、アヒルの雛たちは、田んぼに続く広い前庭に面した玄関脇の、昔キジを飼っていたという小屋に入れられた。
アヒルの雛たちが前庭を散歩している時、突然雨が降りだした。チャボはあわてて軒下に駆け込みながら、「コッ、コッ、コッ」と呼び掛けるが、アヒルの雛たちは、
〈お母さんは、雨ぐらいで、なんでそんなに騒ぐの?〉といった様子で、雨に打たれてもむしろ喜んでいるようである。
それでもチャボが激しく呼ぶので、雛たちがしぶしぶ軒下のほうへ向かおうとしているところへ、父が畑から雨ガッパを取りに帰ってきた。
父はチャボと雛たちとの間に割って入ると、雛たちを雨の中へ追い出そうとした。
「どうしてそんなことばすると?」
ひょったんが不思議に思って尋ねると、
「アヒルは水鳥だから――」
父はそれだけ言うと、急いで畑へ戻って行った。
その夜、父は、アヒルは雨に濡れたり水に浸かったりすることで、皮膚(ひふ)に脂肪(しぼう)が分泌(ぶんぴつ)されて羽が水を弾(はじ)くようになるが、いつも羽が乾いていると、ニワトリのように雨が降ればびしょ濡れになるのだと説明して、
「人間も似たようなところがあるから、ヒロシも日頃から鍛練(たんれん)せんといかんよ」と、付け加えた。ひよったんは、父の言っていることが何となくわかるような気がした。
数日後、行儀が悪いといつもしかられるのに、ひょったんが表座敷で腹(はら)ばいになってお八つを食べていると、遠くでチャボの甲高(かんだか)い鳴声がした。
また赤ネコでも来たのだろうと、ひょったんが前庭に出てみると、牛小屋の前の苗代(なわしろ)の畦(あぜ)を、チャボが激しく鳴き立てながら行きつ戻りつしており、アヒルの雛たちの姿はどこにもない。
急いで牛小屋の前まで行ってみると、水が張られた苗代の中で、「グァ、グァ、グァ」というアヒルの雛たちの鳴き声がして、若緑色の稲苗の間から黄白色の頭がいくつものぞいた。
驚き騒ぐチャボには気の毒だが、ひょったんはそのままにして戻ってきた。
アヒルの雛たちは、田植がすんで前の田んぼに放されると、「グァ、グァ、グァ」と楽しげに鳴きながら、稲株の間を元気に動き回り、平らなくちばしで虫や雑草をおいしそうに食べた。
やがて家に来たときの数倍の大きさになり、「クア、クワ、クワ」と鳴くようになった若いアヒルたちは、池の縁にあるアヒル小屋へ移されたが、以前からいるアヒルたちを怖がる様子もなく、深い池の上に浮かんでうれしそうであった。
五月半ばの日曜の朝、遅く起きたひょったんが顔を洗っていると、大きく開いた窓の向こうから、
「ヒロシ! アヒルの雛が全部孵(かえ)ったよ」と、父の声がした。
ひよったんは濡れた顔もまともに拭(ふ)かずに、裏庭のニワトリ小屋へ走った。
農薬を使わずに稲の害虫や雑草を防除するために、父はアヒルの雛を田んぼに入れることを考え、知人からアヒルの卵を分けてもらって、抱卵性(ほうらんせい)の強いチャボに温めさせていたのである。
待っていた父はニワトリ小屋に入ると、隅(すみ)の浅い木箱にうずくまっている黄褐色のチャボに手を伸ばした。
チャボは羽を逆立ててふくらみ、「クク―ッ」と怒りの声を発しながら、父の手をくちばしで突こうとする。
父がかまわずチャボの体を少し横へ動かすと、羽の下から黄色い雛が二つ三つと姿を現わした。
「わァ! 平ぺったかくちばしで、足に水かきのついとる。みんなでいくつおると?」
ひょったんが聞いた。
「ちょっと待って――」
父は木箱ごと外に出すと、怒って精一杯ふくらんでいるチャボを、両手でそっと抱え上げた。突然覆(おお)いがなくなって、驚いた様子の雛たちが、藁(わら)を敷いた木箱の中で、「ククッ、ククッ、ククッ」と鳴きながら体を寄せ合っている。
「六羽もおる」
「長い間、ヒロシがよく世話してくれたから――」
父は雛たちを満足げに眺めながらねぎらいの言葉を掛けたが、ひょったんはちょっと照れ臭かった。抱卵中のチャボの世話を頼まれながら、時々餌や水が切れていることもあったのである。
チャボがアヒルの卵を抱き始めて五、六日目の夜、
「ヒロシ、懐中電灯を持って来てごらん」と父に言われて、ひょったんはニワトリ小屋へ行ったことがあった。その時、父はニワトリより一回り大きなアヒルの卵をチャボのおなかの下から一つずつ取り出しては、懐中電灯にかざし、
「ちょっと見てごらん。これは光が透るから無精卵(むせいらん)、だからいくら温めても雛にはならん」と言って、二個外した。
「むせいらん?」
「うん、オスと交尾しとらん卵のこと」
「こうびしとらん卵?」
父が返事をしないので、ひょったんはそれ以上尋ねなかった。
抱卵中にチャボが木箱を離れて、餌を食べたり水を飲んだりしているのを見掛けたのは、わずかに二、三度だった。二十日余りの間、ニワトリより小さなチャボはろくに餌も食べずに、六個もの大きなアヒルの卵を抱き続けたのである。
雛の羽はヒヨコと同じく黄色だが、胴長で水かきのある足をして、「グァ、グァ、グァ」とかわいげのない声で鳴く、自分とはまるで違うアヒルの雛たちを、チャボは自分の子として大事に育てた。
何か餌を見つけたチャボが、「コッ、コッ、コッ」とアヒルの雛たちを呼びながら、尖ったくちばしで小さく砕(くだ)いている。
ニワトリやチャボのヒヨコなら、ひと粒ずつ上品についばむが、アヒルの雛たちは首を伸ばしお尻振り振り集まって来ると、平らな長いくちばしで、ショベルカ―のように掬って食べるので、チャボもあきれ顔である。
チャボのけたたましい鳴き声で裏庭へ飛んで行くと、いつもうろつく大きな赤ネコが、ふてぶてしく逃げて行くところだった。チャボは羽を広げてうずくまっており、あたりにアヒルの雛たちの姿はない。
「もしかしたら……」
ひょったんが心配しながらそこらを探していると、チャボの羽の下から黄色い頭が、一つ二つとのぞいて、やがて六羽がすべてそろった。
裏庭では野良ネコやイタチなどに襲われるかも知れないので、アヒルの雛たちは、田んぼに続く広い前庭に面した玄関脇の、昔キジを飼っていたという小屋に入れられた。
アヒルの雛たちが前庭を散歩している時、突然雨が降りだした。チャボはあわてて軒下に駆け込みながら、「コッ、コッ、コッ」と呼び掛けるが、アヒルの雛たちは、
〈お母さんは、雨ぐらいで、なんでそんなに騒ぐの?〉といった様子で、雨に打たれてもむしろ喜んでいるようである。
それでもチャボが激しく呼ぶので、雛たちがしぶしぶ軒下のほうへ向かおうとしているところへ、父が畑から雨ガッパを取りに帰ってきた。
父はチャボと雛たちとの間に割って入ると、雛たちを雨の中へ追い出そうとした。
「どうしてそんなことばすると?」
ひょったんが不思議に思って尋ねると、
「アヒルは水鳥だから――」
父はそれだけ言うと、急いで畑へ戻って行った。
その夜、父は、アヒルは雨に濡れたり水に浸かったりすることで、皮膚(ひふ)に脂肪(しぼう)が分泌(ぶんぴつ)されて羽が水を弾(はじ)くようになるが、いつも羽が乾いていると、ニワトリのように雨が降ればびしょ濡れになるのだと説明して、
「人間も似たようなところがあるから、ヒロシも日頃から鍛練(たんれん)せんといかんよ」と、付け加えた。ひよったんは、父の言っていることが何となくわかるような気がした。
数日後、行儀が悪いといつもしかられるのに、ひょったんが表座敷で腹(はら)ばいになってお八つを食べていると、遠くでチャボの甲高(かんだか)い鳴声がした。
また赤ネコでも来たのだろうと、ひょったんが前庭に出てみると、牛小屋の前の苗代(なわしろ)の畦(あぜ)を、チャボが激しく鳴き立てながら行きつ戻りつしており、アヒルの雛たちの姿はどこにもない。
急いで牛小屋の前まで行ってみると、水が張られた苗代の中で、「グァ、グァ、グァ」というアヒルの雛たちの鳴き声がして、若緑色の稲苗の間から黄白色の頭がいくつものぞいた。
驚き騒ぐチャボには気の毒だが、ひょったんはそのままにして戻ってきた。
アヒルの雛たちは、田植がすんで前の田んぼに放されると、「グァ、グァ、グァ」と楽しげに鳴きながら、稲株の間を元気に動き回り、平らなくちばしで虫や雑草をおいしそうに食べた。
やがて家に来たときの数倍の大きさになり、「クア、クワ、クワ」と鳴くようになった若いアヒルたちは、池の縁にあるアヒル小屋へ移されたが、以前からいるアヒルたちを怖がる様子もなく、深い池の上に浮かんでうれしそうであった。








