モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

山崎方代の短歌――無用者の人生・自然観照

2019年11月05日 | 「‶見ること″の優位」

前回は俳句の世界に話が及んだので、今回は短歌の世界を覗いてみることにします。

近・現代短歌の歌人で私が好きな歌人は、あまり馴染みがないかもしれませんが、
山崎方代(1914‐1985)という人です。山梨県の出身です。
作風は、無用者の人生観照といった雰囲気を漂わせ、
昭和30年代あたりまであった庶民的民家(小さな庭もある)の居間に所在無くぽつねんと坐っていて、
ものを、そして自己の現実をじいっと凝視している、といった趣きが感じられます。
方代に出会ったときの歌はこんなのです。

「かぎりなき雨の中なる一本の雨すら土を輝きて打つ」

個々の人間は、世界の人口が70億であるとすれば70億分の1のかぎりなく0に近い存在に過ぎないけれども、0では決していない、
ということ(これを「絶対少数の原則」と名付けます)を民主主義思想の根本に据えようと考えていたときにこの歌と出会って、
とても感激したというのが方代の短歌の世界を好きになるきっかけになったのでした。
(一本の雨が土を輝きて打つ、というのは、見ることの訓練を積み重ねていかなければ見えてこない光景と言えるでしょう。
方代の歌は、ものを凝視(見ることの訓練)して見えてくるもの・ことや、
少なくとも見続けている状態を詠んでいる、というふうに読むことが可能かと思います。)



ということで、今回は以下、20首ほど紹介しておきましょう。

くちなしの白い花なりこんなにも深い白さは見たことがない
ふるえ咲く野すみれの花のかたわらに足をとどめてへりくだりたり
暮れなずむ机の上に肘をつきぽつねんとして眼をあけている
湯呑よりしずかに湯気の立ちのぼるそれを見つめて夕餉を終る
卓袱台の上の土瓶がこころもち笑いかけたるような気がする
こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり
一枚の落葉のかげに何ごとか起こりおるとも見えねば知らず
いつ見ても黒くよごれし枇杷の葉が重なり合えるここにあらしめよ
はがまの上にははがまの蓋があるこの約束は学ばねばならぬ
すてられし下駄にも雪がつもりおるここに統一があるではないか
皿の上にトマトが三つ盛られおるその前におれがいる驚きよ
丈低き一本の黒い草の穂がささげたる紺が天なのだ
ろうそくの炎をつつむくら闇は摑んでみたが手ごたえがない
夜おそく出でたる月がひっそりとしまい忘れし物を照らしおる
霜づきしぶどうの葉っぱが音もなく散りあらそっているではないか
小さな鍋蓋である 黒い小さな太陽でもある
なべ蓋に紐をとおして軒先に高く吊るして眺めている
午後の日がほこりのようにさし込んで土瓶の気分をやすめているよ
大工道具をさがし集めてひっそりと眺めることが夢だった
わたくしの心の内にも神ありて人をあやめることを業とする



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