モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

日本的りべらりずむⅧ 久隅守景「納涼図屏風」の‶りべらる″感②〈瓢箪〉の意味

2022年03月21日 | 日本的りべらりずむ

前回提示した3つの疑問をめぐって書いていく前に、もうひとつ言及すべきことがあるのを忘れていました。

それは3人の像の上方に描かれている植物のことです。

画面全体の中では中央部分を占拠していて、描きこみも執拗で、見ようによっては強くアピールしてくるようにも感じられます。

作品のタイトルを「夕顔棚納涼図」とする画集や論文もあるところからわかりますように、この植物は和名で“夕顔”と呼ばれ、中国名は葫蘆と称される植物です。

絵を仔細に見ますと左の端に瓢箪の形をした実が描かれていますので、瓢箪と呼ばれる、夕顔の変種と見られています。

ただ、絵画の場合通常は夕顔の花が描かれるのですが、この作品では実の瓢箪が描かれていることにこの作品の主題が仄めかされているのでは、と考えられているようです。


瓢箪が描かれている意図はなにかということについて、久野幸子という研究者が美術研究史上の成果を踏まえながら考察している論文があります。

それには中国古代の故事と、『論語』に収められた孔子の弟子顔回のエピソードが紹介され、瓢箪が描かれていることの意味合いが検討されています。

ここにその一部を紹介しておきましょう。


中国古代の故事というのは、帝王堯の時代に山の中に隠れ住んでいた許由という隠者が、水を飲む容器として利用されていた瓢箪を使うのさえ煩わしいと捨て去り、手で水を掬って飲んていたという話です。

俳句に詳しい人だと、尾崎放哉という前衛俳句の俳人の代表作「入れものが無い両手で受ける」を連想されるかと思います。

また顔回のエピソードは、飯入れの飯と瓢箪に入れた水だけの食事で質素に暮らす中にあっても天命を楽しむ顔回を、孔子が「賢なる哉顔回」と褒め称えたという話です。

これらの故事をめぐる何人かの識者の意見を紹介しながら、久野氏は、瓢箪が中国・日本の古典世界において「広く隠棲者の閑居を形容する修辞ともなっている」とし、
また花ではなく瓢箪が描かれていることに作者の意図を読み込んで、「守景作品の根底にある(隠逸思想や清貧の)思想と結びつけることも可能なのではなかろうか」としています。

 
「蜆子像図」 右は同部分

もうひとつ、おそらく当ブログだけでしか読めない話題を提供しておきます。

上に写真掲載している作品は私の知人が所有しているのですが、蜆(しじみ)取りをする男の後ろ姿が描かれています。

この人物は蜆子和尚という中国の伝説上の人です。

蜆子和尚は水辺で蜆やえびを常食として悟りの境地にある生き方をしていたとされ、特に禅宗の僧のアイドルと見なされていたとのことです。

ここには明らかに隠逸の生き方への共感が込められていると見ることができますね。


江戸時代に出版された『近世畸人伝』という書物に久隅守景の項目があります。

そこでは守景の人品について「家貧なれど志高く、たやすく人の求めに応ずることなし」と記されて.
います

守景は加賀藩に召されて金沢に何年かの間住んでいたことがあります。

住み始めて3年ほど経ちましたが、加賀侯から扶持を給われる様子もないので、おいとまを申し出ました。
『近世畸人伝』はときのことを次のように伝えています。

「(加賀)侯笑給ひて、吾よくこれ(金沢を去る理由)をしれり、然れども守景は胆(きも)太くして、人の儒(もとめ)に従ふものにあらず。其画もとより世に稀なるもの也。さればこの男に禄を与へば、画を描くことをばせじとおもひて、かく貧しからしむ。今は三年に及べば、画も国中に多く残りなん。さらば扶持すべしとて、ともしからず給わりしとぞ。」

ここからうかがえる守景の人柄からしても、絵の表現に“隠逸と清貧の思想”を読み取ることは、自然なことではないかと思われます。


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