モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

日本的りべらりずむⅥ 京極派の和歌(5)その表現構造の核心

2021年12月28日 | 日本的りべらりずむ

最後に、国文学者小西甚一の京極派和歌論を紹介しておきましょう。

京極派の特徴は叙景歌に認められるというのが研究者の間での一般的な評価であったのが、小西は叙景歌と恋歌にわたってひとつの顕著な特徴が見られると説いています。

それは、単にモチーフに対して作者が感じる心を歌うというだけでなく、その感じ方自体を対象として観察する態度が認められるという点です。

「日常意識よりも深い層の心を題材にするのは京極派の重要な特色である。」(「和歌の深化」)

(そのような詠歌作法が意識されるようになった背景として、中国からの禅宗の影響ということがあるのですが、ここでは省略します)。

作例と小西によるその解説を3例ほど挙げていきましょう(解説は少しアレンジしています)。

契りしを忘れぬ心そこに在れや 頼まぬからに今日の久しき     伏見院(玉葉)
 (現代訳:「必ず来る」と約束したことを忘れない心が私の中に在るのだろうか。あてにはしていないのに一日が長く感じることよ。)
 [解説]一日が長く感じる自分の心の状態を対象化し、相手の約束を忘れることができない心が自分の中にあるからだろうかと分析している。
疑問形「そこに在れや」は自分自身に問うているわけで、話主が自分の心を自分で観察していることを詠うのは、従来の王朝和歌にはなかった新しい歌境が見られる(これはいわば近代的な表現構造に近づいているということです)。

夕暮の松に吹き立つ山風に 軒端くもらぬ急雨(むらさめ)の声     為兼(玉葉)
 [解説]空は雨空で全体に曇っている。しかし軒先だけは曇っていない。風が強くて、雲が吹きちぎれるのである。
話主は、庭の松が吹かれる音に、遠い風の激しさを感じる。
雨だけは庭一面に降りながら、夕闇を透して雲のないところが見える。
日常意識がふと破れ、その隙間から深層の色が瞬間的に見えた感じを、軒先だけ曇らない急雨の空が与えてくれる。
純客観描写的な和歌のように見えながら、小西氏は下句に「日常意識がふと破れる」瞬間を読み取って、日常意識よりも更に深い心の層を読み取ろうとしています。
かくして「玉葉風のなかの叙景歌は、アララギ派の写生などという概念で処理できるわけがない」と京極派和歌の鑑賞の世界を開いていきました。

花の上にしばし移ろふ夕づく日 入るともなしに光(かげ)消えにけり  永福門院(風雅)
 [解説]夕づく日は日常意識による観察(客観描写)ではゆっくりと消えていったはずだが、その消え切る微細な瞬間を話主は、突如として消えたというふうに感じとり、
その亀裂を通して自然界の実相を垣間見た感動を詠おうとしている。
この把握は、微妙であるとともに、鋭い。



小西は天台宗や禅宗の実修であるところの止観の理論に依って、日常意識の心と、それを対象化して見つめるより深い層の心のはたらきを所観と能観という言葉で表わします。

そして京極派前期の作歌の傾向を、能観・所観のはたらきに基いた自然観照と捉えます。

それが為兼・伏見院亡き後の後期になると能観と所観が融合していって、自然現象を観察すること(所観)と、
観察していること自体を見るはたらき(能観)が一体化していき、能観・所観がひとつの存在として捉えられるような歌の境地へと進んでいきます。

そのような境地は『風雅集』に至って達成され、そしてその果実が室町期の歌の世界へと受け継がれていって、
「日常意識を超えたより深い層」から事物を捉えていこうとする文芸の世界へと展開していくわけです。



次回からは、中世文芸の中核をなした3人の文人――宗祇(連歌)・珠光(侘び茶始祖)、雪舟(水墨山水画)を論じていきます。


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