モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

大川栄二(大川美術館)——「見ることの優位」近代日本編[3]

2019年05月13日 | 「‶見ること″の優位」

西洋・日本の近代美術をメインにコレクションした人物としては、大原孫三郎・総一郎父子(大原美術館・倉敷市)、石橋正二郎(石橋美術館[現 久留米市美術館]・福岡県久留米市、ブリヂストン美術館・東京)、山崎種二(山種美術館・東京)といった人たちがよく知られていますが、
ここでは、私のお気に入りの美術館を紹介しておきます。
大川美術館といって、群馬県桐生市にある美術館です。1988年に開館、初代館長の大川栄二がコレクションした絵画、彫刻など約6500点を収蔵しています。

大川栄二(1924-2008)は桐生市の生まれの実業家で、20世紀後半の流通業界の覇者ダイエーの副社長やマルエツの社長を務めた人です。
若い頃から美術に興味を持ち、株などで増やした資産で自分の気に入った作品をコレクションしていきました。
実業界の前線を退いたあと、64歳のときに、桐生市の水道山の中腹にあった第一勧業社員寮を改築して大川美術館を開設しました。
美術館の喫茶室からは桐生市市街が眺望され、山の自然環境を利用した庭園も楽しめます。
元々が社員寮として建てられたものなので、部屋が細かく区分けされたギャラリーの集合体のようでもあり、
しかもスキップフロア方式なので、部屋から部屋を巡っていくのにも高低の変化もあって、
館内を散策していくような気分を味わえます。

収蔵されている作品は、昭和の戦前から戦後にかけて東京で活動した松本俊介、アメリカ生まれで晩年の数年を日本で過ごした夭折の画家野田英夫、知る人ぞ知る英才 清水登之の作品を中心に、戦前、戦後の日本の抽象絵画や、ピカソ、ミロ、ベン・シャ-ンなどの海外作家の作品も含まれています。
収蔵点数は地方の私設美術館としては無類の充実度を誇ると評価されていますが、
私はそのこと以上に、コレクションの内容の質の高さを特筆したいと思います。
ある意味では、日本の近代洋画のもっとも良質な部分がセレクトされているように感じられます。
特に松本俊介、靉光との交流経験を通して、戦後には油絵表現の最深部まで錘をおろしていった麻生三郎へと展開していく一つの道筋と、
それを座標軸として現代絵画の創作模様を描き出すアーチスト群が、この美術館に一堂に会している観があります。
館内を散策しつつそれをじっくりと観ていく時間というのは、なかなかに得がたい体験であって、この場所にいつまでもとどまっていたいという気持ちになります。



大川栄二のコレクションは、その初期に松本俊介の作品と出会うことによってはずみがついたとのことです。
そのとき、俊介の絵からはそれまでに自分の部屋に掲げていた鑑賞絵画とはまったく違った感銘を受けたことを、大川は次のように書いています。

「「静かな透明感と厳しいフォルムの寂しいような絵」で、何か人の温りを感ずるポエジーに凝視させられている自分、それも日一日とそれが鮮明となって、その焦点に絞られてか他の絵が消えて行くのに驚かされたのである。」

とは言いながら、続けて次のように書き継いでいきます。

「そしてそのことが、さらに俊介絵画の周辺にある人達への興味となり、俊介に影響を与えたと思われるアーチストたちが私のコレクションの肉付けとなり、正に「俊介とその人派コレクション」という形となってしまったのである。
 そこで不思議なことは、これらの作品にはフォーヴあり、印象あり、キューブあり、アブストラクトあり、その他諸々の異質な絵肌であり乍ら、我が画壁に一同並べると、決して殺し合うことなく、自然と交響楽の如くハーモニーに合うのは何故だろう。わたしは、絵に向かう画家のスタンスと言うか、人間が求め続ける同じロマンの周波が、その画家達の性格や技術を超えて存在するし、絵は人格であり、人間そのものであること、真の本物とは何かを痛感させられる。」

美術の愛好家やコレクターの中には、一人のアーチストに入れ込むとその一人にしか愛情を注ごうとしない人をよく見かけますが、
本来、“見ることの愉楽”というものは、大川が言うように、「さらに俊介絵画の周辺にある人達への興味」へと展開していくことを含んでいる、それが“見る”ということの本質をなしています。
引用文の後半は、さらにさまざまな様式や絵肌の違いを超えて作品と作品が「自然と交響楽の如くハーモニーに合う」ということを報告してます。
優れた作品というのは、実は決して唯我独尊的であったり、他を排除したりすることはないということを言ってるのです。
このような鑑賞の仕方の根底には、「絵は人格であり、人間そのものである」という認識が控えています。
“見る”ことのその視線の先端は「人格」や「人間そのもの」に触れている。
“見ることの愉楽”とはまさにこういうことなのですが、大川美術館での美術鑑賞の享受は、このことこそを学ばせてもらえる経験にほかなりません。


※ 引用文はいずれも『美術館の窓より』(大川栄二著 芸術新聞刊)より




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