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モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

Ⅳ‐1後白河上皇(と梁塵秘抄)ーー「遊びをせんとや生まれけむ」の歴史的意義

2021年07月13日 | 日本的りべらりずむ

日本の歴史における平安時代から鎌倉時代への変遷は、天皇を中心とする摂関政治から武家による統治への転換でもありました。

その平安末期に院政期と呼ばれている期間があって、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、
しかし政務はそのまま引き継いで天皇に代わって直接行なう形態をとっていました。

白河天皇が上皇となった1086年からはじまって、鳥羽上皇の期間を経て、平家が滅んだ1185年あたりまでの約100年間がその時期にあたります。

ここに取り上げる後白河上皇はこの院政期の3代目の上皇で、1158年からはじまっています。

この後白河上皇のときに源頼朝が鎌倉に幕府を開幕し、武家政権を樹立したことになっています。


後白河上皇は、当時武士や僧侶や庶民の間で流行していた今様(流行歌)を収集して、『梁塵秘抄』という歌集を編纂したことで知られています。

しかしそれだけにはとどまらず、文化的にも政治的にも非常に重要な役割を果たした人なのですが、歴史学上の評価は必ずしも一定していないようです。

ここではそのあたりの問題に触れていきたいと考えています。



まずは『梁塵秘抄』の話から入っていきましょう。

『梁塵秘抄』という歌集の存在を知っている人はだれでも

「あそびをせんとやうまれけむ、たはぶれせんとやむまれけん、あそぶこどものこゑきけば、わがみさへこそゆるがるれ」

という歌をご存知のはずです。この歌は『梁塵秘抄』を象徴するほどによく知られています。


平安末期といえば源平合戦の時代で、源氏方のヒーロー源義経には静御前という愛妾がいましたが、
この女性の職業は白拍子という舞姫で、白拍子とか、あるいは遊女と呼ばれていた“あそびめ”が謡っていたのが、『梁塵秘抄』に収集された当時の歌謡曲です。

五百首ほどありますが、量的には「あそびをせんとや」のような俗謡が2割ほどで、
八割方は仏典(主として法華経)や神道の教えを平易に説いた歌です。



『梁塵秘抄』から私が受けた印象を3点ほどにまとめてみました。以下の如くです。

1.「あそびをせんとやうまれけむ」の歌について
この歌の解釈は、意外なことに研究者の間でも一定していないようです(よく考えれば当然ともいえますが)。

どういう社会的地位の人が謡ったのか、誰のこと(幼い子供か白拍子・遊女か、あるいは人間一般か)を謡ったのか、
「わがみさへこそゆるがるれ」の「ゆるがるれ」はどういう状態なのか、等々です。

小西甚一(国文学者)の解釈は
「平生罪業深い生活を送ってゐる遊女が、みづからの沈淪に対しての身をゆるがす悔恨をうたったものであろう。」(『梁塵秘抄考』(昭和16年刊)

西郷信綱(古代文学研究者)は
「遊女のなりわいとしてのアソビと童子らの無心なアソビとの二相が、かくてここで奇しくも等価関係に置かれるのである」(『梁塵秘抄』昭和51年刊)
としています。

堅気の社会生活からははずれていわば不要不急の遊興サービス業に従事する白拍子・遊女の、負い目や哀切の感情を認める点ではだいたい一致してますが、
私はそれでもなお、この世に生を受けた者としての自己肯定感が芽吹きだしてこようとするのを感じないではいません。

この、身分制社会の下層領域においていわばと見なされながら生きる人々のいささか抑制気味の自己肯定感こそが、
日本古典文芸史における古代末期から中世初期にかけて台頭してきた歌心の新しさと映ります。

そして中世期という歴史の舞台に姿を現わしてくる“民衆”と彼らの生活圏を出自とする文化諸相が、一斉に開花していく原動力となったものではないかと思います。
                                (つづく)

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