モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

桶谷寧の曜変天目(前回からの続き)

2009年10月17日 | 桶谷寧・曜変天目


で、結局何が言いたいのかというと、要するに
「ひょっとして桶谷さんの曜変天目は国宝のものよりも出来がいいのでは?」
ということなんです。
いささか贔屓の度が過ぎているのではと言われそうですが、
私は桶谷さんの曜変天目にどうしても惹かれてしまうのだから仕方ありません。

ただし、条件がひとつあります。
それは前回に書いた、「曜変」の定義の仕方について、
桶谷氏の説明の方に準拠するということです。つまり、
「釉を通過し黒い素地に反射した光が、こまかな炭素の反射をともない、釉の内部より重厚に黒く発色させます」
にもとづいて「曜変」を定義するという考え方に即して見ると、
桶谷さんの曜変天目の方が国宝のものより美しく感じられてしまうということです。
これは私一人だけがそう感じているということでもないのです。
私と同じような感じ方をする人は、他にもおられることは確かです。

言いたいことはもうひとつあります。
それは、現代に作られたものでも古典を超えているものがあるということです。
そんなに多くは無いにしても、まったく無いわけではありません。
国宝だからといって、どれもこれも現代のものよりいいということはないのです。

だから現代に創作されているものにもっと注意深く意識を向けて欲しいのです。
国宝のご開帳と聞くと美術館を取り囲む長い列に並んで何時間も待つ熱意を有しながら、
自分と同時代の人間が創ったものには関心を持とうとしないのは、
私にはなんだか自分というものを軽んじているように感じられるんですね。
国宝として今日に伝承されているもの以上にいいものは、
だれの身の周りにもきっとあるはず。そういったことに目を向けて行く意識を持って欲しい、
というのが私の言いたいことです。以上。




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