モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

新刊本の紹介「平和に生きる権利は国境を超える」猫塚義夫・清末愛砂 著

2023年12月16日 | 時事雑感
ご無沙汰です。
突然ですが、臨時で新刊本の紹介をさせていただきます。

本のタイトル「平和に生きる権利は国境を超える」
著者 猫塚義夫・清末愛砂




 

 今年10月7日、中東ガザ地区を実効支配するイスラム過激派ハマースが隣国イスラエルを急襲したのに対し、イスラエル軍はその報復としてガザ地区パレスチナ人民(女性、児童を含む一般市民)の殲滅を目的とした大規模かつ徹底破壊的な軍事攻撃を開始したことを受けて、この本が緊急出版されました。
 著者は二人で一人は「北海道パレスチナ医療奉仕団」代表の猫塚義夫さん、もう一人は憲法学者の清末愛砂さんです。清末さんは上記「北海道パレスチナ医療奉仕団」のメンバーとして折に触れてパレスチナに赴き、女性・子供支援の活動を続けています。アフガニスタンのフェニミズム団体RAWAとの連帯活動にもかかわって、「RAWAと連帯する会」共同代表を務めてもいます。
 本書はもともと「難民や紛争地域における国際支援活動の基軸として日本国憲法をどのように位置づけるのか、そしてその具体化としてどういうことができるのか
やらなければいけないのか」を語る本として制作が進められていたものです。しかし今回の事態に対して緊急に出版されることになりました。
 イスラエルのガザ襲撃が持つ意味、ガザの一般市民に対する医療を含めた救援活動、女性や子供たち、高齢者がどんな過酷な境遇に追い込まれているか、といったことが二人の緊急座談会を通して語られ、今後どのような活動が要請されるか、平和的生存権を憲法の前文に掲げている日本国政府が果すべき役割は何か、といったことが提言されています。

 パレスチナ人民の窮状を救い、イスラエルによるジェノサイドを止めさせるために私たちに何ができるかを考える提言書としてこの本の意義があることは言うまでもありませんそのことに加えて、私個人としては、清末さんが普段から主張されている「平和的生存権」という事案について関心を向けていくこともこの本を読むもうひとつの動機でした。
 平和的生存権は、日本国憲法の前文二段目に記されている「日本国民は、恒久の平和を念願し、」から「平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」までの文章にその論拠を置いています。清末さんはこの中の特に「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免がれ」という箇所に注目して、「恐怖と欠乏から解放される権利」を平和的生存権としています。

ここで、そもそも平和とはどういうことかというところから考えてみたいと思います。
平和といえば戦争のない状態をイメージする人は多いかと思います。もちろん間違ってるというのではないですが、「平和―戦争」の二元論で平和を考えると、たとえば今日の国際情勢の中で「戦争放棄では国は守れない」とか「平和を維持するために軍備が必要」とか「平和を守るために武器を持たなければ」という議論に引きずり込まれてしまう弱みがあります。それは「戦争はなぜ起るのか」を考えることなしにただ「平和がいいから戦争が起らないことを願う」と成り行き的に平和を望んでいることと変わりません。
戦争がなぜ起るのかということは、国際社会や歴史の構造的な問題から発生している、と書くと話が難しくなりますが、たとえばイスラエルとパレスチナの関係でいえば、イスラエルによるパレスチナの占領政策の下で長年にわたって継続してきた支配・被支配の権力構造ということがあります。この権力構造がパレスチナ人民の日常生活を「恐怖と欠乏」に陥れ、今回のハマースによるイスラエル急襲ということを呼び起こしたのでした。
強者と弱者の間の支配・被支配関係が弱者側に「恐怖と欠乏」をもたらすという図式は、国家や民族間の戦争のみならず、私たち日本社会のなかでも現実に起っていることです。清末さんの言葉を借りると「例えば、いじめ、ハラスメント、差別、DVや児童虐待、性暴力、失業により生活維持が困難になることから生じる不安、自然災害など、あげていけばきりがないほど」ありますね。
私たちの身近に起っているこれらの「恐怖と欠乏」は、いずれも強者と弱者の支配・被支配関係から発生してくるものとして共通の土台を有し、そしてそれが国家や民族間に生じる暴力行為(戦争)にまでつながっていると見ることができます。
清末さんは法学者の立場から平和ということを「恐怖と欠乏から解放されてある状態」として捉えて、次のように定義しています。
『平和』とは、人が生きるという根本的な行為に対して、具体的な安心感を与えると同時に、人間としての尊厳をもって生きるということを肯定的に捉える大きな安心材料を与えるもの

この定義に基いて「人権に関する権利性を含有するもの」として平和的生存権を設定することで、私たちは、現実に今世界で起こっているさまざまな出来事――暴力行為による人権侵害事件全般から国家・民族・宗教間の戦争まで――の不法性を告発していく意識を持つことができます。
そして、「国の平和をまもるために戦争(生存を脅かす行為)を放棄する」とか「平和的生存権を盾として平和を求めていく」と主張することができるのですね。

イスラエルによるガザ(そしてパレスチナ全体)の殲滅(ジェノサイド)を意図した残虐極まる軍事攻撃が、世界中の民衆の批判と抗議を無視して粛々と遂行されていく有り様は、理性的判断をかなぐり捨てて、ならず者化した近代国家の本性が剥きだしになった姿です。
かつて西洋の近代的理性は、国家間の関係を戦争を常態とする野蛮状態から平和的共存へとステップアップさせていくために「理性の使用」と「法による統治」という手法を編み出しました。
そして現代、地獄に堕ち狂態を演じるならず者国家に打ち勝ち、克服していくためには、国際的に連帯した市民自身の手による「理性の回復」と「法による社会秩序の維持」ということが目指されるべきであると考えます。その意味で、平和的生存権はまさに国際社会の平和的秩序を求めていく運動の基盤に据えられるものとして、不可欠の案件となることは必定と、私は考えます。


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