『源氏物語』の世界は、特定のテーマが基底に据えられていて、それを巡って展開される物語、というふうのものではなく、
自然と人間の世界で繰り広げられるさまざまな出来事や心理の交錯をひたすら観察し、思考実験を繰り返してその観照世界を深めていく、といった趣きの作品です。
しかしそれにしても、西洋ではまだ「暗黒の中世期」といわれていた時代に、一人一人の人間の個別的な世界をなぜこれほどまでに物語文学の俎上に載せていくことができたのか、
『源氏』を読むつどいつもそこのところに感心するとともに不思議に思っていました。
いろいろ調べたり考えたりしているうちに、和歌という表現メディアが重要な役割を果たしていそうだということになってきました。
和歌といえば、すでに万葉集の時代から詠み手としての“個人”の存在が認知されていたと考えられます。
しかも、防人とか東歌とかの読み手はいわゆる“名もなき庶民”と言われる人で、上は天皇から下は名もなき庶民まで、万葉集の中では身分差を超えて歌が収録されています。
和歌という表現メディアは、人類史の中で見ると日本列島という地域に住む人たちの集団の中で育てられた、他に例を見ない歌詠みのメディアです。
そしてこの地域に育てられた文芸や芸術の創作精神の骨格を成して、日本文化の特質を豊かに肉付けていったように思います。
『源氏物語』には八百首に近い和歌が散らばめられていて、物語はそれらの和歌の付け詞の延長として書かれているという国文学者もいるぐらいに、単なる添え物ではなく重要な役割を有していると考えられています。
二人の人間が互いに応答しあう和歌が大半で、中でも男女が贈答し合う和歌が大半です。
和歌を軸にして物語を読んでいくと、任意の二人の人間関係がさまざまに設定されて、その関係の中で一人一人がどのように行動し、どのような心理的葛藤を演じるか、
作者紫式部にとって物語るとは、それら登場人物の言動を思考実験し、観察し、その積み重ねの上で、人間社会の観照を深めていくことに他ならなかったように思われるほどです。
古典和歌の研究者の鈴木日出男という国文学者は「源氏物語の和歌」という論文の中で次のように書いています。
「(男女の贈答のメディアとしての和歌表現は)場における連帯を可能にしながら相容れない個的感情をも表出しうる具として…。」
「『源氏物語』における、人間関係の独自な表現としての和歌は、人と人を関係づける重要な契機によりながら、その関係の固有さを個々人の心性のかたちとして形象している。具体的にいえば、場や場の言葉が人間関係を外側から包摂し、個々人はその外的な条件を媒介として関係の中の自己を形象化するのである。そしてこの、関係が個々人の心性のかたちによって把捉されるところに、物語において人間の孤立化の凝視される途を開いていく。しかも物語散文によって相対化される和歌は、連帯的機能よりも、個人の相容れない思念の一面をいよいよ鮮明にすることになる。」
古代和歌の世界は、二人の人間の間で思いを贈答し合うような機能性を土台にして詠われてきました。
このような関係は日本文芸史学において“連帯”とか“座”とかと概念づけられながら、古代から近世に至る日本の文芸史を通底する特徴として認知されています。
それはまた日本文化を生み出してきた思考や創作の基底的なパターンを表わしているとも言えるでしょう。
『源氏物語』は古代という時代区分の後半期においてすでに、日本的な思考と観照の構造的本質を明示していたと、私は思っています。
(了)
※今回をもちまして“日本的リベラリズム”シリーズを一旦終了といたします。
自然と人間の世界で繰り広げられるさまざまな出来事や心理の交錯をひたすら観察し、思考実験を繰り返してその観照世界を深めていく、といった趣きの作品です。
しかしそれにしても、西洋ではまだ「暗黒の中世期」といわれていた時代に、一人一人の人間の個別的な世界をなぜこれほどまでに物語文学の俎上に載せていくことができたのか、
『源氏』を読むつどいつもそこのところに感心するとともに不思議に思っていました。
いろいろ調べたり考えたりしているうちに、和歌という表現メディアが重要な役割を果たしていそうだということになってきました。
和歌といえば、すでに万葉集の時代から詠み手としての“個人”の存在が認知されていたと考えられます。
しかも、防人とか東歌とかの読み手はいわゆる“名もなき庶民”と言われる人で、上は天皇から下は名もなき庶民まで、万葉集の中では身分差を超えて歌が収録されています。
和歌という表現メディアは、人類史の中で見ると日本列島という地域に住む人たちの集団の中で育てられた、他に例を見ない歌詠みのメディアです。
そしてこの地域に育てられた文芸や芸術の創作精神の骨格を成して、日本文化の特質を豊かに肉付けていったように思います。
『源氏物語』には八百首に近い和歌が散らばめられていて、物語はそれらの和歌の付け詞の延長として書かれているという国文学者もいるぐらいに、単なる添え物ではなく重要な役割を有していると考えられています。
二人の人間が互いに応答しあう和歌が大半で、中でも男女が贈答し合う和歌が大半です。
和歌を軸にして物語を読んでいくと、任意の二人の人間関係がさまざまに設定されて、その関係の中で一人一人がどのように行動し、どのような心理的葛藤を演じるか、
作者紫式部にとって物語るとは、それら登場人物の言動を思考実験し、観察し、その積み重ねの上で、人間社会の観照を深めていくことに他ならなかったように思われるほどです。
古典和歌の研究者の鈴木日出男という国文学者は「源氏物語の和歌」という論文の中で次のように書いています。
「(男女の贈答のメディアとしての和歌表現は)場における連帯を可能にしながら相容れない個的感情をも表出しうる具として…。」
「『源氏物語』における、人間関係の独自な表現としての和歌は、人と人を関係づける重要な契機によりながら、その関係の固有さを個々人の心性のかたちとして形象している。具体的にいえば、場や場の言葉が人間関係を外側から包摂し、個々人はその外的な条件を媒介として関係の中の自己を形象化するのである。そしてこの、関係が個々人の心性のかたちによって把捉されるところに、物語において人間の孤立化の凝視される途を開いていく。しかも物語散文によって相対化される和歌は、連帯的機能よりも、個人の相容れない思念の一面をいよいよ鮮明にすることになる。」
古代和歌の世界は、二人の人間の間で思いを贈答し合うような機能性を土台にして詠われてきました。
このような関係は日本文芸史学において“連帯”とか“座”とかと概念づけられながら、古代から近世に至る日本の文芸史を通底する特徴として認知されています。
それはまた日本文化を生み出してきた思考や創作の基底的なパターンを表わしているとも言えるでしょう。
『源氏物語』は古代という時代区分の後半期においてすでに、日本的な思考と観照の構造的本質を明示していたと、私は思っています。
(了)
※今回をもちまして“日本的リベラリズム”シリーズを一旦終了といたします。