モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

近代的“数の観照”の宿命——数値化できるものが存在を認められる

2020年07月10日 | 「‶見ること″の優位」

任意の二つの数mとnの間の関係を表わす仕方にm=f・nという数式を使うやり方があって、
この場合のfを関数と言い、シンプルなところではy=ax+b(a,bは定数)のような方程式、あるいは高校で学ぶ二次方程式とかも関数とみなされます(数学全般で言えば、関数の世界は広大で複雑です)。
つまり関数は広い意味での「mとnの間の比例関係を表わす」と解釈することが可能かと思います。

そのように解釈すると、西洋文明における近代の認識方法は、m=f・n(もっと一般的にはy=f(x)と表わされる)という、
広い意味での比例関係を表わす数式に支配されてしまった、ということが言えるかもしれません。
科学的認識方法というのがこれで、要するに、観察データを数に置き換え、データ間の関係からy=f(x)で表わされる数式を導き出していく(逆に、その数式を使って観察データを数に置き換えていく)わけです。

“数の観照”という言葉を使うならば、“数の観照”をy=f(x)で表わして客観的な(さらには主観的な)現象世界を支配していくことを会得したのが、西洋の近代(科学)文明ということになります。
言い換えると、認識されるものは数に置き換えられるということであり、存在が認められるものは数に置き換えられるものとして存在するということです。
ということは、数に置き換えられないものは認識されることがない、つまりその存在が認められることがないということになります。



たとえば、社会科学としての経済学の文献に出てくる“富”という言葉を経済学辞典で調べてみると、そもそもその項目が扱われていません。
なんでかなと考えてみましたが、私の結論は“富”という現象は数に置き換えることができないから、ということになりました。
実際、“富”をどう定義するかというのはとても難しい問題のように思えます。
たとえば、自分が住んでいるところは自然が豊かであると感じ、その豊かさを享受しながら暮らしていけることをひとつの“富”として受け入れる場合、
あるいは家族に恵まれて、家族とささやかながらも不足のない日々を過ごしていけることを自分の“富”と見なせる場合、
その“富”の量はどれほどのものかということは、それを数値化して表わすことはとても難しいのではないでしょうか。

他方、“財”という概念は貨幣の量に換算してその量を計ることができるという意味で、その現象を数に置き換えて記述することができます。
たとえば、自分が住んでいるところの自然が豊かに感じられているとして、
その敷地面積が○○㎡あるので地価はいくらである、というふうに、
“自然の豊かさ”を地価に換算して数値化する場合には、“自然の豊かさ”を“財”として見ていることになります。

“財”については経済学辞典でも項目に挙げられている、というか、経済学の基本的な概念として何ページにもわたって解説がされています。
かくして近代経済学においては、“富”という現象は学的研究の対象とか商取引の媒体としては認められず、
経済現象は“財”の交換過程として対象化され、研究され、実践されていきます。

数値化されない事象は存在しない。
これが近代的“数の観照”の帰結であり、宿命であるということになります。
現代社会にはこのように、数値化する方法が見出されていないために存在が認められないブラックマターのようなものがいっぱいあるのではないかと、筆者は思っています。

そういえば、俗称ホリエモンなる御仁がIT関連企業の社長を勤めていたときに、
「貨幣で手に入れられないものはこの世にはない」と言ったとか言わなかったとか、聞いてますが、
それは単に、「この世には数値に置き換えられるものしか存在しない」と言ってるに過ぎないということだと思います。
コメント
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