モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

井上まさじさんの「気の絵画」

2012年02月04日 | 井上まさじの絵画





写真の作品は細いペンで同心円をフリーハンドで描いています。
線と線の巾は1mmぐらいです。
画面の全体に黄色、白、水色の大小のドットが散らばめられていますが、
これは同心円を描くよりも前に散らしたものです。
つまり、線を引いていく手の動きがドットのところで一旦切れているわけです。
とりわけ画面の端っこ(エッジ)の処理が素晴らしく、とてもきれいです。



上の作品のディテール(中心とその周辺)



上の作品のディテール(作品のエッジ)




以前に紹介した井上まさじさんの絵は、直径1mmぐらいの丸を
やはり細い線で紙の左上の隅っこから右方へ、そして一段が終わると下の段に移って
同じように機械的に描いていくという描き方の絵でした。
こういうのを果たして絵といえるのかどうかということが、いつも問題になるわけですが、
私が思うに、絵であるかどうかということは実は重要な問題ではなくて、
ただその画面を見ていて、いつまで見ていても見飽きないというところで、
「これは一体何なんだろう」と思ってしまうところが大事なところだということです。

なぜ見飽きないのかというと、一見機械的に描いているように見えて、
決して機械の仕事のように単調無味なのではなく、
線が密な状態で濃く見えるところと、線がこころもち疎な状態で
薄く見えるところがあって、全体としてはひとつの大きなゆらぎというか、
うねりのようなものが見えているわけです。
そのゆらぎ、乃至うねりが見ているうちに動いているように感じられることもあったりして、
そういった生理的な錯覚のようなことも含めて、
私は井上さんの絵を「気の絵画」と解釈したりもしています。

「気」という現象を、私は物質の世界の、物質と物質が出会って醸し出してくる
非物質的(に見える)現象、というふうに考えるのですが、
井上さんの「絵を描く」という営みは、
人間としての生命活動が物質的現象(自然)との境界をなくして、
一体化していく姿のように見えてくるのです。
このひたすら同心円を重ねていっただけの絵画が、
曼荼羅のように、あるいは宇宙の形そのもののように感じられてくるのは、
有情・無情の境を取り払った精神の世界が表わされているからであると私は思っています。


井上まさじのサイト
「かたちの会コレクション」も見てください。


コメント
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