校長室だより~「神々の国しまね」の『スクール・ライフ』

民間企業勤務から中学、高校、大学など、教育現場へ転じた『キャリアコンサルタント』の日常をお伝えします。

福沢諭吉とディベート

2017年09月03日 05時29分39秒 | 日記
昨日お伝えした1年生の英語の授業では、ディベートの下準備に取り組んでいるところでした。そういえば昨年、本校ではディベート同好会が部活動に代わり、1年生部員もたくさん入部しています。きっと各クラスの授業でも、ディベート部員がリードしている場面もあるのでしょうね。この夏休みにも1年生大会をはじめ、参加の計画を耳にして私も応援に行きたかったのですが、日程が合わずに機会を持てなくて残念でした。秋にも大会があるようなので、ぜひとも頑張ってください。部員はスピーチ大会でも活躍していましたが、英語を看板にしている本校ですから、ディベート部の発展は心強い限りです。
ところでそのディベートについて、日本においては比較的新しい活動なのだと思っていました。というのも、私がディベートを知ったのは、大学に入学してからのこと。入部したESSにディベート活動があって知ったのですが、もしESSに入っていなければ、さらに時期は伸びていたかもしれません。ところが最近、福沢諭吉の本を読んでいて、すでに明治維新の前に、福澤はその概念がわかっていたことを知ったのです。それが次の一文。『仮令(たと)い議論をすればとて面白い議論のみをして、例えば赤穂義士の問題が出て、義士は果たして義士なるか不義士なるかと議論が始まる。スルト私はどちらでもよろしい、義不義、口の先で自由自在、君が義士と云えば僕は不義士にする、君が不義士と云えば僕は義士にしてみせよう、サァ来い、幾度来ても苦しくないと云て、敵に為り味方に為り、散々論じて勝たり負けたりするのが面白いと云う位な、毒のない議論は毎度大声で遣て居たが、本当に顔を赧らめて如何あっても是非を分かって了わなければならぬと云う実の入た議論をしたことは決してない』。
この一文を読むだけでも、やはり福沢諭吉という人は、物事の本質を突きつめる方なのだろうと思わずにはいられません。すなわち、事の是非を判断するうえで、絶対的なものなどない。どちらの見方に立つかによって、正しいかどうかというものが決められる、相対的な位置づけにある。おそらくディベートという方法論が日本に伝わる前から、福澤はその思考訓練をすることの重要性をわかっていたのでしょう。
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