うちの母(77歳)は、最近腰が曲がり歩くのが超スローになっています。
10年前までは社員食堂の大なべを振ったりもしていましたが…
食堂の経営をやめて、やっと一息つき これから、どこにでも出掛けられるという時
弟のお嫁さんが肺がんのため2ヶ月の闘病生活で亡くなりました。
それからの母は、小学校4年生だった一番下と上2人、(20歳
17歳)と弟も含めた家族を守るため、がんばりました。
悪いことは重なると言いますが、姪は6年生になった時、骨肉腫になり大学病院に入院して
抗がん剤の投与から、最終的な足の手術に至るまで1年3ヶ月の闘病生活をしました。
母は、この間病院に付き添って看病しました。
現在、姪は大学2年生になり、足のハンディはあるものの明るく元気な娘に成長しました。
私はいつも母に言っていました。
お母さんが何でも「私がやる。」と言って引き受けるから、みんな頼るのよ。
「私には出来ない。」と言ってしまえば後は誰かがやるのに…。
「損な性分よね。」…と、
そんな時母は決まって、「知らん顔は出来んよね。」
「みんな病気は、私が代わってやってたら良かったのに!」
「順番通りにいかんね。」
元気な事が悪い事をしてるかのように母は言うのです。
これだけ色々あっても、母の運命には父を看病するという生活が待っていました。
母が姪に付き添っていた間、父は元気でしたが,母が帰ってきて数ヶ月後に
脳梗塞で倒れ、母は懸命に病院と家を毎日休まず往復して看病しました。
この時も家の食事の用意やすべての家事もやり遂げました。
「又、出来る人をやりょうるんね。」
「出来ないと言えば済むんよ。お母さんがやらなきゃ、みんなが考えるんよ。」
そういう私を、
「働きに出てるもんにはやらされんよ。」と…。
父の3回忌は今年の3月でした。
入院している父を、私が見舞いに行くと、
「はよう、逝ったらんにゃ、あれが苦労するばっかりじゃ。」
と、死ぬ2,3日前に私に言いました…。
父が一番母の事を思っていました。
現在の母は、「まだ、主婦です。」と言って明るく頑張っています。
料理の腕は今だ衰えず、若い人向きのメニューから、お袋の味に至る
までこなします。(完全に私は負けています。)
弟だけでなく私も何でも出来る母にずいぶん甘えてきました。
母を当然のように当てにして!
私は、自分の親を「おばあさん」とか「おばあちゃん」とか呼べません。
ずっと、お母さんと呼び続けます。
「おばあちゃん」と呼べるような、ゆったりとした生活をさせてあげて
ないからです。
母は、私にとって ただ一人の母であり人生のお手本のような人です。
とにかく、どこかに連れて行ってあげたいのですが、
「家が一番ええ」と言っています。
父も母も、足腰ちゃんとしていた時に海外旅行でも行ってたらと
ダメな娘は後悔しています。
せめて母の日は、花束のプレゼントと ささやかな心のこもった
食事を作ってみんなと一緒にいただきます。
このぐらいしか してあげれない娘です。
お母さんが病気になったら、今度は私が「看病できる人」になるからね!
その決意だけはしています。ダメな娘なりに……。
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