ありのまま

カルガモ母さんこと 川上美也子のコラム http://karugamo.org/

ただいま

2008-09-30 10:51:26 | Weblog
27日に書作展を終え、28日の午前2時過ぎに帰宅しました。

皆々様、どうもありがとうございました。

朝は意外なほど軽く、起きれるのですが、すぐ眠くなります。
あれこれ、お礼やら、感じたことやら、書きたいのですが…。

もうしばらく充電させていただきます。

感謝とよろこび、達成感と充実感、心地よい疲労感に包まれて。
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行って参りまーす

2008-09-23 09:34:01 | Weblog
長い文章をお読みいただいた方々、お疲れ様でした。
どうもありがとうございます。

続けて今年の状況を振り返ってまとめたいのですが、
今日はもう時間がないようです。
私ってキーボード打つの遅いから…。

今日から出かけます。
24日は人様の前でお話させていただくので緊張します。
25~27日は天理市本通りのギャラリーで個展です。
2階で写真展も同時開催です。

今年もたくさんの方々にお世話になりながら、
たっくさんの方々にお出会いさせていただけることでしょう。
重度障ガイ者になれて、ほんと、得したなぁ。

では行って参りまーす!
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ヨーロッパ記(完)…2007/11記

2008-09-22 12:18:48 | Weblog
【まとめのご挨拶】

 フランスで書作展させていただくのに、現実には渡仏費用のカンパをお願いすることになりました。帰国後、真実をお寄せくださった方々に、お礼の気持ちで報告文を書こうと思いました。
 でも、すっかり遅れてしまいました。申し訳ございません。まだ回復なかばみたいです。読み返すとあちこち推敲を必要とする、未熟な文章ですが、お許しくださいませ。

 今年の夏は暑いなりに、うれしいフランス行き予定のおかげで心倒すことなく、割と元気にお連れ通りいただきました。7月にいただいた講演も務められ、教会の看板の揮毫という身に余る大役も間に合いました。暑い日々、8月のカルガモ書作展も皆様に助けていただき、盛会に終えました。あとの予定は、ヨーロッパ行きだけでした。8月末やっと涼しくなるとの予報、9月1日から本当に涼しくなったので、ほっと、緊張の糸をゆるめました。去年の暮れから緊張感を常に持ち続けて、例年夏バテする梅雨と夏場には、ピーンと張り詰めていたのです。よかった、なんとか乗り越えられた!
 ところが、暑さがぶり返して、かつてなかったような、厳しい残暑になりました。完全にほっとして気を抜いてしまっていたので、体調の修正は正直たいへんでした。

 ほんとうに、おかげさまで、ありがとうございました。

 実は、一昨年、いよいよ・・かなと覚悟した日がありました。
 去年は、そこまで思った日はなかったのですが、全般的に一昨年より体力がなくなっていました。去年は1年間で大きな筆を持って書道出来たのは、たった1日でした。
 そんな昨今、そして酷暑、フランス行きにドイツ行きも加わって、あちこちでのパフォーマンスの予定が入りました。この上なくありがたく、しあわせに思いました。きっと、おやさまが、最後の花道をくださったのだろうと感謝しました。
 ですから、よろこび勇んで、ありったけ出し切って参りました。「命…命いっぱい生きて」のテーマ通り、命いっぱい燃やして参りました。悔いはありません。

 と言いながら、こうして久しぶりに長い文章を書いていましたら、どんどんはまってしまいまして、もっと書きたい! と欲が出てきました。
 しかも、フランスとドイツでパフォーマンスして交流できたおかげで、私もっと外国に行けそう、きっと出来ますよ、なんて思ったりも致しました。書道も、もっとやりたいです。書きたい字が残っています。それに、モネの睡蓮のように、私も同じ字や言葉を、一生かけて書きたくなったのです。候補は、「愛」「夢」「陽気」「心」「花」・・・。
 長生きさせていただけたら、いい五行歌も残せるカモしれません。

 きっと、神様が、この者にひきつづき命を与えようか、没収しようか、ご思案中です。
 たくさんの方々の応援を頂戴していますので、私の心は、より逞しく、より勇んでおります。身体のほうは、まだまだですが、せっかくですから、病人モードの期間を楽しんで休ませていただきます。今年いっぱいかかるだろう、漠然とですが、そんな気がします。
 その間に、次のステージが見えるでしょう。もし見えたら新しいスタートです!
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ヨーロッパ記(8)…2007/11記

2008-09-21 21:55:36 | Weblog
14日 ヨーロッパ出張所の大祭参拝
15日 パリ発20:00(全日空NH206便)
16日 成田着14:30
 山崎氏の車で、空港より自宅まで送っていただいた。

 おかげさまで無事に帰国致しました。
皆々様に心より感謝致し、御礼申し上げます。

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ヨーロッパ記(7)…2007/11記

2008-09-21 09:02:21 | Weblog
13日 パリ講演(とパフォーマンス)

 目覚めに、今日の講演の内容が浮かんだ。あら大変。
 ケルンではドイツ語に同時通訳します、ということで、あらかじめ原稿を送った。会場では、その原稿を読ませていただいた。
 パリの方は、対象が日本語が通じる方々ですから、日本語でいいですよ、とのことだった。それで安心していた。私はこのところぶっつけ本番が多い。一応基本原稿はあるものの、現地で、あるいは会場で、感じたことを加える。話のネタは一応たくさん持っているので、講演中に浮かんだものをお話しする。だって、私には会場の方々の背景やお気持ちを予想出来ないもの。出来るなら、わざわざ足を運んでくださった方々のお心に、少しでも添わせていただきたい。いつも講演直前に神様にお願いして、心を澄まして、浮かばせていただく。但し、初めとまとめ、全体の構成だけは、事前に必ず決めておく。
 パリの講演の日程は最後だったから、特別な原稿は用意していなかった。ケルンでお話ししたことを基本にして、あとは会場で、と決めていた。
 ところが目覚めに、全く違う新しい内容が浮かんでしまったのである。起きてから、浮かんだことをメモした。日常でも、すぐ忘れるので、メモは断片的だった。しかし、目覚めに最初に浮かんだ、「わたしの神様」という言葉だけはしっかり覚えていた。目覚めの時には、その言葉に続いて理路整然と話が展開していた。だから、今日の講演は、断片を拾い集めればまとまるはずだった。

 この日は書作展の最終日で、講演は18時30分の予定だった。会場は文化協会の地下で、ギャラリーと反対側にある部屋だそうだ。お昼過ぎに、文化協会に向かった。
 私の頭の中は講演のことでいっぱいだった。当初の内容を白紙にして、今朝浮かんだ内容で組み立てようと決めていた。容易に出来るものと思っていた。ところがちっとも出来ない。大ざっぱに見えてこないことには、調整も出来ない。
 文化協会で一部屋お借りして集中したいと思っていたら、すでに控室が用意されていて、1畳のタタミも敷いて下さっていた。横になって身体を楽にして、集中した。時間は迫る。
 早く決めて、出来れば書道をしたい。日本に帰る前にフランスで、もう一度書きたくなっていた。人前でのパフォーマンスであってもなくてもいい。フランスで書いていきたい文字があった。「心」初日にも一枚書いたが、実はしっくりこなかった。ある人にお礼に差し上げたいと思って書いたのだが、書けた字はインパクトが強すぎて、その人のやさしいイメージとは違う気がしていた。

「心」の話をしたいと思う。ある人とは、和装一式を提供してくださった、「丸中」の奥様(先代の社長夫人)だった。
「丸中」は、今年の成人式に、次女が晴れ着を借りた貸衣裳店である。振り袖を返しに行く直前、ふっと思ったことがあった。当たって砕けろ、ダメモトで、奥様に思い切って話した。「十月にパリで個展をするのですが、着物を提供していただけませんでしょうか?」「はい、いいですよ」驚くほど切れのいい即答だった。そして、「まだ十分時間があるから、落ち着いたら寸法を合わせましょう」とおっしゃった。それが1月20日ごろのことだった。
 これはちょっと照れる話だが、私は着物を着たかった。それも紫色の着物。結婚式の披露宴のお色直しに着る和服を選ぶ時だった。赤い着物と紫色の着物を着てみた。両方よかった。赤は華やかで、紫には上品さがあり、紫ってすてきだな、と思った。でも、紫はあとでいつでも着れるから、赤がいいわね、という周囲の声に納得して、赤に決まった。紫色の着物はいつか着れると楽しみにしていた。子育て、重度化、金欠、そんな30年の年月に、いつのまにか叶わない夢と化していた。ほとんど着る物も買わず、美容院も行かず、化粧もしない30年だったが、私だって、ちゃんとしたら、けっこう綺麗なのヨーンてところを、元気なうちに残したかったのだ。私も、女のようですねえ。
 そして半月後、今年の2月のことだった。ある小学校で道徳教育の公開授業があり、午後の記念講演に呼んでいただいた。体育館で、保護者、地域の方々、教育委員会、先生方の前で、書のパフォーマンスもやった。その時、一番前に腰掛けていらしたご婦人が、さっと来られて手伝って下さった。全ての行事が終わって控室に戻った。そこに校長先生と、そのご婦人がいらっしゃった。3人で話が弾んだ。校長先生とは、前任校が子どもたちが卒業した小学校だったご縁があった。何度か学校に呼んでいただき、お話しも交わした。校長室はいつも開けっ放しで、校長室でお話ししていると、「ねえ、校長先生」と言いながら生徒が入ってくる。何につけても子ども優先で、話を交わすのが楽しかった。
 そこでも話が弾み、「今度フランスに行くんですよ」と言ってしまった。するとご婦人が、「私も行こうかしら」とおっしゃり、校長先生は「いいですね、ご一緒に行ってらっしゃいな」、みたいな展開になった。で、話がトントン進んで、ご婦人もフランスに同行されることになった。
 そこで私は思い切って聞いてみた。
「私、フランスで着物を着るのですが、あのぉ、着せていただけませんでしょうか…」
「ええ、いいですよ。私、着付けの仕事もしていますから」
 すごい。なんと。こんなこともあるのかしら。などと思いながら、話を続けた。
「実は自宅の近くの貸衣裳店で、着物を提供していただけることになったんです。次女が借りた、丸中さんというお店なんですがね」
「え! 私、丸中さんに勤めているんですよ。成人式のお手伝いにも行きましたよ」
 奇跡としかいいようがなかった。神様が応援してくださっている、と思った。そこで名前と住所を交換した。青木さんとおっしゃった。

 根がシャイな私は、気になりながらも丸中に行けないでいた。そのうちに酷暑にやられて、もう和服はあきらめようと自分に言い聞かせていた。青木さんには一度電話したのだが、お留守だった。
 いよいよあきらめた時、青木さんからお手紙が届いた。ご一緒に衣装選びに行った。
 そこで、奥様と青木さんと私の3人で決めた。晴れ着だと私には帯がきついので、袴にした。袴も、日本の正装だそうだ。袴なら車イスに乗っても背中が楽だし、パフォーマンスも出来そうだ。早速着せていただく。奥様が、中の着物はあらかじめ短くしときましょう、そのほうが楽でしょう、とおっしゃった。パフォーマンスの為に、襷(たすき)をかけることになって、色や寸法も合わせた。ほどけにくいように、正絹を用意しましょう、とおっしゃった。
 至れり尽くせり、細かいところまで配慮してくださった。すべて無料なのだ。
 せめても…と思って、「お好きな字とか、言葉とかありますか」と伺ってみた。
 その時の奥様の答えが、「心」だった。

 青木さんにも、一方ならずお世話になった。衣裳一式をわざわざ借りに行って、ご自分の荷物と一緒に運んでくださった。自費で行かれたのに、ずっと同行してくださった。たまたま私の勝手で1回になったが、2回でも3回でも私の希望次第で、いつでも着付けてくださったに違いない。

 どうしても、なんとか、フランスで、「心」を書きたかった。
 フランスでの道中、パフォーマンスの字が浮かばない時、皆さんに好きな言葉を聞いたりした。青木さんは、「帯」とおっしゃっていた。内心、出来れば「帯」も書けたらいいな、と思っていた。

 さて、13日の夕方4時半になっても、講演の構想が見えてこなかった。書も書きたいのに、肝心の講演が決まらない。この日パフォーマンスする予定はなかった。黙ってそばについていてくれたみのりちゃんに、「書道したいの。でも講演の方がまだ出来ないから、書けるかどうかわからない。もしかしたらってことで、書道させてくださいって言っといてくれる?どうするか5時に決断するので、ノックして」と頼んだ。
 どうしても見えてこない。タイムリミットだ。これもきっと、理由があるんだろう。よっしゃ!
 5時にノックしてくれたみのりちゃんに、「書道します。パフォーマンスでも、一人でもいいよ」と言った。講演は得意のぶっつけ本番だ。もう一人の私がつっこむ。おいおい、フランスだよ。ここまで来て、それ、やる?
 さあ、決行だ。6時半の講演。逆算すると、6時までに書き上げなくては。地下の会場の近くに準備してくれた部屋へ移動。今日は搬出日で片付けもしなきゃいけないってのに、我が儘この上ない。ひらめきと、なりゆきで、動く奴。それでいて何にもしない奴。その名は川上美也子。周囲はたまったもんじゃないな、ってこの文章を書きながら思う。もっともっと感謝しなくっちゃ。わかったか私。

 フランス最後の書作。結局ヨーロッパで4回目のパフォーマンスになった。
「心」と「帯」と「わたしの神様」を書いた。

 さあ、次は講演だ!
 手が墨だらけだった。手を洗う所、講演会場の奥にトイレとシャワー室があった。階段を昇る余力はないので、そこに行った。みのりちゃんに、着替えを運んでもらって、そこで着替えた。スーツに着替えていたら、構想が見えてきた。40分の話で20分の質疑応答だった。よし、40分のうち、10分は五行歌の話をさせてもらおう。
 そこにフランス語の訳を入れてもらおう。「みのりちゃん、長谷川さんに頼んで。草壁先生の五行歌の色紙と翻訳、私の色紙…満天の…と翻訳をもらってきて!」 ああ、ほんとうに周囲はてんてこまいだ。

 無事、1時間終了。やあ、ぶっつけ本番は、やっぱりおもしろい。自分にも先が見えない。ひらめきとなりゆきの得意技(技ではないかな)で、会場の方々と通じ合えたような気がする。もしかして私だけ?



 おかげさまで、次から次へと、お話しや質問に来てくださる方々が続いた。
 おしゃべりしているうちに、会場の椅子が片付き、大きなテーブルが用意されていた。皆さんはワインを飲みながら、あちこちで歓談されている。突然、長谷川さんの声が響いた。
「みなさーん。昨日は、川上さんの誕生日でした!」
 会場から拍手が起こった。なんとケーキが、私の目の前に置かれた。思いもよらない展開だった。シャンパンがあけられ、たくさんのかわいいグラスに注がれて配られる。
 いつもの私なら、すぐ泣くのに、この時は反応が遅かった。ポーっとなっていて、それでも、じわじわと熱くなっていた。大勢の、初対面のみなさんも笑顔で祝ってくださる。シャンパンで、何度も、何人もの方々と、乾杯した。いつのまにか泣いていた。こんなにしあわせ者がいるのだろうか…。もったいない。
 この文章を書きながら、またウルウルしている。

 初日のパフォーマンスで、「夢」と書いた。
 ほんとうに、夢のような日々だった。

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ヨーロッパ記(6)…2007/11記

2008-09-20 14:34:29 | Weblog
12日 フリー (56歳の誕生日)

 すっきり目が覚めた。一泊でドイツまで移動して、ゆうべは限界を過ぎたかのようにガタガタだったのに、今朝はウソのように回復している。
 ほんとうに不思議なご守護だと思う。寝て起きると、疲れがとれている、っていう、誰にでも起こる奇跡だ。しみじみ、ありがたいと思う。
 朝づとめで皆さんに再会。お三方は、「ゆうべは2時半まで飲んだよ」って、おー信じられないパワーだ。脱帽です。同じ部屋でなくてよかった。お互いにね。

 朝食の時に、「今日はフリーですから、どこか行きたい所ありますか?」と聞かれた。
 周囲の様子を見回して、「では、すみませんが私から言いますと…」てな調子で、最初に言っちゃった。それは、モネの家だった。あの睡蓮の池があるという。美術館にも行きたいが、文化協会から近くて時間さえあれば電動車椅子でも行ける。それに作品は日本で見るチャンスもある。でも、モネの家、睡蓮の池はフランスにしかない。私にとって優先順位の一番だ。車で連れて行ってもらえるなら、夢のようなチャンスだ。
 そこは睡蓮の咲いている時期だけしか開いていないので、ひょっとしたら閉まっているかもしれないと、調べてくださった。10月一杯は開いているとわかった。結局私の希望が通って、10時出発と決まった。ヤッター!

あれは、もう35年も前のことだ、私が、天理高校二部の准看女子寮「よろこび寮」の舎監として勤務していた時だった。休日を利用して、日展を観るために上京した。上野の日展会場に着いて、さあチケットを買おうとしたとたん、声がかかった。
「よかったら、無料のチケットが余っているのですが、ご一緒にいかがですか?」
 思わず、ラッキー!と思った、けれど、ちょっと待った。都会は怖いぞ…。慎重に声の主をうかがい見ると、地味で誠実そうな青年だった。いい人だと思った。(ちなみに彼の出身は新潟で、私と同県人だった。おらが新潟にゃ悪い人はいねえ)
 てなわけで、ちゃっかり無料で入場した。彼は洋画家の鈴木信太郎先生宅の書生さんだった。絵と書を観たが、どの作品も、これでもかこれでもかと熱く迫ってきて、私は息苦しくなっていた。
「それでは、印象派の展覧会に行きましょうか」ということになった。彼は招待状のようなはがきだったかを持っていた。「はい」ラッキー! 案内してもらった美術館に入ったら、いきなり、モネの睡蓮の絵が、ドーンと飾られていた。私は、その前に釘付けになった。それまでに、あれほどの衝撃があっただろうか…。うっとりと見入った。心が癒されてゆく。
 もともと美術の教科書で、印象派の絵は好きだったのだが、あの感動以来、完璧な印象派フアンになっている。以後、案内してくれた彼と再会することはなかった。きっと立派なアーティストになっていらっしゃることだろう。
 さて、フランス行きが近づいた頃、東京六本木でモネ展が開催された。行きたい、行きたいと思ったが、酷暑でダウン寸前の私は、とうとう行けなかった。でもテレビで、モネの特集番組は見た。なんと、フランスにモネの家が残っていて、あの、睡蓮の池もあるとのこと。フランスに、太鼓橋や睡蓮が、あの池が、現存していたとは知らなかった。私の胸は高鳴った。でも、観光で渡仏するのではないし、まして車イスだから、自分が行ける可能性など考えてもみなかった。

 長谷川さん運転の車は、パリ郊外のジヴェルニーという町に向かった。
 パリで生まれたモネは、パリで成功することなく、困窮しながらセーヌ川添いの町を転々として、43歳の年にジヴェルニーに移り住み、86歳までの一生を過ごしたと聞く。ジヴェルニーはとても静かな町だった。家々の外壁に伸びたツタの葉が、真っ赤に紅葉していた。町は自然と一体化して、秋がひときわ美しい。ゆるやかな坂道を登った所にモネの家があった。



 窓口でチケットを購入して、少し離れた車椅子専用の入り口から入れてもらった。お花畑をしばらく行った木製のドアを係の方が開けてくれた。中に入ると、いきなり目の前が太鼓橋だった。モネの睡蓮の絵にある、あのグリーンの太鼓橋!

 56歳の誕生日。母の享年をちょうど10歳越えた、その日、私は夢の国にいた。
 印象派の巨匠モネの絵の中に飛び込んでしまった。
 睡蓮の池の周りの細い道、その道を進む。涙が溢れる。ああ、こんなしあわせがあったのか。一歩も歩かない私が、空間を飛び越えた。車椅子が飛んだ!



 モネが歩いた道を進み、モネが植えた木々を眺め、モネが描いた睡蓮を見つめている。池の水面は、あちこちで小さい輪が生まれ、広がる。小さな生物たちが生きているようだ。小さい波なので、水面に写った全てはそのまま、消されたり揺れたりすることはない。百年の揺るぎない静寂…。
 睡蓮の広がり、大きさ、水面に託す余白、周りを囲む樹や空や草花、静けさ、時間、空気、道、橋‥‥ふしぎな世界の中に、私もいた。

 池の中に1羽の鳥が泳いでいた。かなり遠くだった。
「ありがとう。こっち、もっと近くに来てちょうだい。こっちこっち」
 私が突然、鳥に語りかけるものだから、「フランス語じゃないと通じないんじゃない?」とか、「あらあら、尻尾向けちゃったわよ」とか言われる。笑われている。ふふふ、きっと来てくれますよ。私って、よく不思議なことが起きるんだもの。あの鳥もきっと、そばまで来てくれるんです。内心そう信じていたから、私はゆとりで楽しんでいた。
 鳥はゆっくりと、こちらに泳いで来た。近くの睡蓮の葉の上に足を乗せる。チョコンと乗ると葉は少し沈んで、鳥は次の葉にチョコンと足をかける。そうやって鳥は睡蓮を歩いている。鳥の体重を睡蓮の葉が支えられないようで、一枚一枚沈みながら、まるでそれを楽しむように、チョコンチョコンと葉の上を渡ってくる。
 私の目は、1羽の鳥の上に点になっていたことだろう。
「川上さん、ちょっと譲ってあげたほうがいいみたいよ」
 その声で我に返る。池を見渡せる絶好の場所に、私は相当長い時間いたのだった。

 動き出す。池を一周する方向へ動き出した。太鼓橋の真向かいで、また止まった。じっと見入ってしまう。引き込まれそう。そこに、また、夢の国への入口があるのだ。でも今度は観光の方々が大勢見えたので、入らなかった。太鼓橋をバックに記念写真。先に進んだ。ちょっと行くと、なんと私の大好きなコスモスが咲いていた。
 モネの睡蓮とコスモス!
 こんなにうれしい誕生日。ああ、どなたにお礼を申し上げればいいでしょう!

 池を一周して、スタートの太鼓橋の所に着いた。ドアがある。ああ、これで睡蓮の池とも、おそらく一生のお別れだ。皆さんがドアに向かう前に、「もうちょっと待って」。



 私は車椅子を降りて、自分の足で立った。緑色の橋の細い木の欄干につかまりながら、一歩一歩踏み締めるように、実は一瞬の片足立ちなんかもやらかして、モネの絵の太鼓橋を歩いて渡った!

 出口のドアの外は道路で、道路を渡って向かいのドアから中に入る。そこは広大な花の庭だった。何本も平行に伸びた細い道、それぞれ道の両側に背丈を越えそうな花々が咲いている。散歩しながら、花々に語りかけるモネの、後ろ姿や温かい眼差しが見えるような気がした。
 数段の階段を伝い歩きして、モネの家にも入った。部屋毎に淡い黄色や水色に、壁もカーテンも調度品も統一されていて、ほっと癒されそうな美しさを感じた。

 生前に認められないで、貧しい生涯を送った芸術家が多い。それもいいかもしれない。百年、五百年と経っても、偉大なアーティストは決して埋もれないだろう。長い年月をかけてこそ、真の才能が見えてくるのかもしれない。
 でも、モネの家や庭や池を見ていたら、生きているうちに認められるって、やっぱりしあわせだと思った。認められて、ある程度の金持ちになれるのもいいことだ。せっかくの感性を、作品だけでなく、家にも庭にも池にも残せて、そこで後世の沢山の人々が、とびっきりのひとときを味わい、夢の国に浸ることが出来るのだ。泣くほどの感動、この感動は5年は私に力をくれると思う。そんな思いを、一観光客にくれるのだ。

 ふと、あの鳥は、モネだったかもしれないな…と思った。彼は、ああやって時折、彼がこよなく愛した池を泳ぎ、睡蓮を散歩しているのではないだろうか…。

 お昼を過ぎていたので、近くのホテルの野外レストランで昼食をいただいた。いろいろ注文して、飲み物は、ということになったが、結局みんなお水で乾杯した。休肝だ。長谷川さんの解説がいいのか、選ぶ私たちが賢いのか、元がいいのか、いただく料理はどれも美味しかった。7人でバラバラに注文して、いつものようにみんなでいただいた。

 満腹で一路パリへ。
 文化協会に着いたのは、4時近かったろうか。7時に集合ということで、一時解散になった。私は少し休みたかったので、文化協会に残った。みのりちゃんもそばにいてくれた。8月まで職員だったみのりちゃんが、2階のスタッフルームに案内してくれた。そこへ会長夫人がお見えになって、結局、会長室のソファーでしばらく休ませていただいた。皆さんは観光に行かれたと思う。
 おかげで体力を回復した。やっぱりただ寝ているのはもったいないので、私たちも外に出ることにした。シャンゼリゼ通りを電動車イスで歩いて、凱旋門まで行きたいな、と思っていたが、時間がない。セーヌ川までは5分もかからないが、反対側の大通りに出てみた。ウインドウショッピングだ。おしゃれな洋服店に入り、時々手に取りながら、あれこれ見て回る。ふーん、これがパリのファッションか…てな顔して、結局見ただけで出る。ふふふ。お財布軽いけど、なかなかリッチな気分、心も軽い。
 ルーブル美術館に行って、ガラスのピラミッドの前で記念写真だけ撮った。
 
7時に戻ると、皆さん揃っていた。では、ということで、まず近くで夕食。町の人たちで賑わう飲食店通り。ラグビーの世界大会がフランスで開かれていて、この日はフランスとイングランドの試合とか。各店の中でも外でも、テレビ観戦しながら、わいわいとお酒や食事を楽しんでいらっしゃる。

 食後、長谷川さんがまた車で観光に連れて行ってくださった。
 最初はシャンゼリゼ通りだった。
「川上さんは、ここを歩きたいでしょう。僕は凱旋門近くまで行って車を留めて待っていますから、ここで降りてゆっくり楽しんできてください」
 わおーっ。すごいことになった。またも夢の続きみたいだ。私たち6人は降りて、手動車イスを押してもらって、夜のシャンゼリゼ通りを歓談しながら歩く。深野さんが、「オー、シャンゼリゼ~」と歌いながら歩いている。小雨が降ってきた。傘をさすほどでもない、ムードを盛り上げてくれる、うれしい雨だった。
 カメラを持った千田さんが、時折小走りに走っては振り返って、スナップを撮ってくれる。しばらく行くと横断歩道があった。中央の分離帯まで行くとストップがかかった。シャンゼリゼ通りの真ん真ん中で、凱旋門をバックに写真を撮るためだった。写真を撮り終わると、元に戻って歩きだした。
 長谷川さんが待っていてくれた。再び車に乗った。今度は?
 遠くから見ていただけのエッフェル塔の下まで行ってくれた。一時停車だったが、ちょこっとだけ降りて、見上げた。品格のある美しさ。さすがに大きい。
 塔の足の部分に巨大なラグビーボールが見えた。フランスは自由で大胆、それにおちゃめ、そんな一面があるのかな?

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ヨーロッパ記(5)…2007/11記

2008-09-19 14:54:54 | Weblog

「大聖堂のステンドグラス」

11日 障ガイ者作業施設訪問 

 この日の予定は、午前中は世界で最初の作業所を見学させていただき、午後はミニ観光、5時過ぎの新幹線でフランスに帰る予定で、私の動向は体調次第、ということになっていた。風邪気味のみのりちゃんを志水宅に残して、私は志水氏の車で合流先のホテルに向かった。朝、私がゆっくり休めるようにと、寝かせてくださっていたので、朝食前だった。急いで作ってくれたハムサンドを、車の中で戴いた。ハムがとても美味しい。
 青木さんと深野さんが泊まったホテルの前で、合流した。もう一度、朋子さんとゆっくり話したいと思っていたが、うみさんと千田さんを車から降ろすと、さっと出そうだった。私は志水氏の車の中で奥にいたから、あわてて呼んでもらった。彼女からドイツの地ビールをいただいたが、私もぜひ彼女に差し上げたい(託したい)物があったのだ。

 それは、草壁主宰のご自筆の五行歌色紙だった。
 五行歌は去年の暮れに世界に飛び出した。まず米国、ニューヨークだった。当初、主宰はヨーロッパにも今年中に渡られそうな気配だったが、アメリカでの足固めに力を注ごうとなさってか、結局ヨーロッパへ入る五行歌は非力な私が一番乗りになりそうだった。たかが個人の個展や講演会場だけのことであり、五行歌界の歴史には残らないだろうが、それでもまずい…と私は思った。一番は主宰でなくては申し訳ない。
 そこで主宰にご相談して、主宰の五行歌を色紙に書いていただいてお預かりしてきたのだ。3枚くださった。まず、フランスの書作展会場に展示させていただき、ドイツに移動するにあたって、3枚共持って来た。フランスを出る時から、1枚はドイツの国に置いてこようと思っていた。ケルン駅を出たとたん、大聖堂を目の前にして、「どんなステンドグラスを・・・」の歌がいいと思った。3枚の色紙は講演会場でも披露させていただいた。事前に両国語に翻訳していただいていた。
 ケルン泊の朝、目覚めにふと「朋子さんにもらってもらおう」と思った。ご主人も彼女もオペラ歌手で、来年、ご主人は日本公演されると聞いた。国際的で、品格ある方々だった。
 起き上がって先ず、3枚の色紙を入れた袋を出して、どの1枚にしようかと、心鎮めて、神様にか、主宰にか、伺うような気持ちで、そっと取り出すことにした。ふっと一番上にある色紙にしようと思い、取り出して見ると、「どんなステンドグラスを・・・」の歌だった。完全に決定。

 どんな     
 ステンドグラスを
 通りぬけてきたのか
 君の
 薔薇色の頬      草壁焔太 (五行歌の会主宰)

 ホテルの前で、笑顔でよろこんでくれた朋子さんに、主宰の色紙をしっかりお渡しできた。私もとてもうれしかった。

 朋子さんと別れて、私たち6人は障ガイ者作業施設に向かった。車でかなりの時間かかったが、とても大きな立派な施設だった。世界で最初に出来た作業所だそうで、建物は建て替えられ、施設というより工場だった。大勢の障ガイ者がそれぞれの障ガイに合わせた作業を受け持って、一個十万円以上する高級ランプを作っていた。廊下で休んだり、一服する人もあり、同じ作業を黙々とこなす人あり、笑顔で楽しそうに仕事する人もあって、自由で、かつ整然としていた。
 所長さんが案内してくださった。ここでは障ガイ者手当などとは別に、働いた給料が払われるとか。金額などの待遇も、日本の昨今の現状とは掛け離れて、いいと感じた。
車椅子の私は、腰掛けていたり、車椅子だったりする彼らと、目の高さや形状が近かったおかげか、あちこちで笑顔で、あるいは目と目で、心が通い合えた気がした。
 身体が不自由で、感性溢れる人たちは、パソコンを使って、外注のチラシやメニューなど、斬新な商品に仕上げていた。個性を活かせる画期的な職場だと思った。
 作業をするのが困難な障ガイの人たちの部屋にもおじゃました。所長の話を聞きながら、近くに腰掛けていた女性のそばに行くと、いきなり私の顔を引き寄せられた。うれしかったのでニッコリすると、彼女は私の頬にチュ!をしてくれた。3回もキッスしてもらえた。とてもしあわせだなって思った。
 障ガイを持たせてもらったことに、心底ありがたく思う瞬間である。



 施設の応接室で美味しいコーヒーをいただいたので、トイレを借りてから車に乗った。車は一路、志水宅へ向かった。
 元気を回復したみのりちゃんを乗せて、先ずはケルン駅に行く。駅のコインロッカーに荷物を入れるためだった。コインロッカーは日本のとは、かなり違っていた。ちょうどスピード写真を撮るボックスのような大きさで、入り口は一つだけ。コインと荷物を入れて扉を閉めると、どこかへ行ってしまう。次の荷物を入れようとすると、新しい空っぽの扉が開く。私の大事な荷物どこへ行ったの、と心配になる。駐車場と同じだよ、と誰かが言った。ふうん、って、わかったような、わからないような私だった。

 ともかくもコインロッカーに荷物を預けて、身軽になった私たちは、新幹線の時間までミニ観光を決行した。ケルン大聖堂。昨日は外観だけだったので、いよいよ中に入った。ものすごい広さ、そして高さ。上まで登った経験のあるみのりちゃんが、私の車椅子を押しながら教えてくれた。狭くて急な階段で次々に人が登って来るので、一旦登ると途中で休めない、引き返せない。で、けっこう大変なんだとか。ふと、四十数年前に姫路城の階段を登った時の大変さを思い出した。狭くて、とても急だった。
 ステンドグラスがすばらしい。聖書を読めない人々にもわかるように、聖書の内容をステンドグラスの絵に表したのだと、最近「世界遺産」のテレビ番組で聞いた。
 外の広場に出ると、大道芸の人や、広場の石の地面に直接、絵を描いている人もいた。そんなこともあり、なんだ。「今度来たら、ここでパフォーマンスすれば?」なんてこと言われて大笑い。おもしろいカモしれないけど、誰がやるのよ、って感じ。私には無理、むり。シャイだもの。
 広場の一角に、ヒロシマ、ナガサキの原爆写真が展示してあった。ドイツ語でいろいろ書いてあった。私たちは立ち止まって、じいっと見せていただいた。

 志水氏の案内で、駅の裏側に向かって歩く。路面電車か、確かに電車の形なのに、堂々と道路の真ん中を走って行った。そうそう、道路と言えば、2台を蛇腹で繋いだ電車みたいなバスが、曲がり角なんか実に器用に走っていたっけ。
 敷石の所が車椅子には大変だったが、近い所に、あの有名なライン川があった。悠々と流れている。地理に弱い私は、唯々こんな近くに、あのライン川があって、自分がその川縁に居ることに驚いていた。感動、そして、ローレライ気分…。
 志水氏がライン川の下流を指しながら、「川上さん、今度はオランダまで行きましょう。近いですよ」とおっしゃった。大きな船が下って行く。のどかで、ダイナミックだ。ああ、こんなスケールもいい。ふーん、オランダか、いいかも…ふふふ。なんか、行けそうな気がしてくる。単純なカモでした。
 敷石が大変だったので、帰りは別の道にしたら、もっと長くガタガタの敷石道路が続いていた。一人が押して、二人が前の両側を浮かすように引っ張る。車椅子の移動は、場所によっては、汗だくの重労働と化す。ありがとうございました。

 ケルン駅。いよいよドイツとも、志水氏ともお別れの時間だ。
 新幹線の指定席はバラバラだった。まず荷物を載せ、私が乗り、入り口近くの席に腰掛けた。私の隣にみのりちゃん。デッキの反対車両に3席、そこに、うみさん、青木さん、深野さん。千田さんは一人、かなり離れた席に決まったらしい。
 ホームとは反対側の、奥の席にかけた私には見えなかったが、志水氏がホームにいらっしゃるようだった。昨日から思っては躊躇していたのだが、思い切って私の自筆の五行歌色紙を出して、裏に、お礼のメッセージを書いた。そして、みのりちゃんに頼んで、志水氏に差し上げてもらった。「えっ、いいんですか?」とおっしゃってよろこんでくださったそうだった。押し付けだと思って躊躇したのだが、よろこんでもらえてうれしかった。

 やがて、発車した。17:14発。
 その車両には、みのりちゃんと私だけ。周囲は皆、知らない人たち。しかも私たちと向かい合う2席と通路を挟んだ隣の4席には、にぎやかなヤンキー風の男女ご一行様だった。私たちの向かいは、イケメン二人。私が一番視線が合いやすい斜め向かいには、グループで最年長とわかる男性。いかにも砕けた風体で、通路に長々と足を伸ばしてお酒を飲んでいた。酒とつまみとサラダなどが、彼らの前のテーブルに所狭しと並べられていた。私はけっこう緊張していた。正直ちょっとこわかったのだ。
 ふふ、私たちの前のテーブルにも、お酒と食べ物があった。駅で買ったパン。それと、志水氏が買ってくれたという地ビールの500cc缶だった。きっちり腰掛けるのがきつかったので、せめてと思い、私は靴を脱いで、立ち膝にした。それからパンを食べた。
 喉が渇いていたが、飲み物を買うのを忘れた。これ幸いとばかり、缶ビールを開けてぐいっと飲んだ。
 みのりちゃんが笑いながら教えてくれた。あっちの人たちが、「日本人でもあんなことするのか?」みたいなことを言っているそうだ。(あっはっは、私のことかしらん?)それにしても、よく日本人とわかったものですね、とみのりちゃんが続けた。あちらは私たちには通じないと思っている。確かに私には何にもわからない。でも通じたのよね。私たちが聞き分けて笑って話していること、日本語通じてないよね??
 ちょっと、この足は行儀悪かろう。ほんとは、もっとしっかりイケメン兄ちゃんの所まで伸ばして、前の座席にドーンと乗せたいんです。それをお行儀よく我慢しているんですの。だって日本女性ですもの、ほほほ。ほんでもって、障ガイあったら、しょうがあんめえ。

 4時間の乗車時間の半分くらいの時、千田さんがやってきた。ちょうどイケメン兄ちゃんたちが席を立ってどこかに行ったときだったので、空いていた前の席に腰掛けた。まずい、と思って、斜め向かいのボスを見ると、「いいよ、いいよ」というジェスチャーをしてくれた。ボスの前のナイスボディの女性もにっこりしてくれた。私は笑顔で頭を下げた。ふーっ、緊張が解けていく。いい人たちじゃん。ごめんなさい。
 千田さんと3人で話していると、隣の車両から深野さんが、「あっち、誰もいないから来ない?」と呼びに来てくれた。では、ということで、グループの方々に会釈して、3人共移動した。
 行ってみると、別世界のようだった。8人スペースに、うみさん、青木さん、深野さんの3人だけ。その奥は扉が閉まっていて、まるで8人部屋の特別室みたいだった。今までの緊張は何だったのだろう。よその国の新幹線の座席の配置はわからないが、隣の車両とは完全に違う。たまたまだったのだろうか。
 私が横になれるようにと2席分、前にみのりちゃんが腰掛けた。通路を挟んで4人が腰掛けた。缶ビールが残っていたので、移動するとき持って行った。横になる前に空っぽにしようとして、お腹はいっぱいだったけど、ちょっと無理して飲み干した。そしてバッグから、マイ枕を出して横になった。このマイ枕は飛行機でも活躍してくれた。
 さて、緊張が解けて疲れがどっと出たのか、飲み干したアルコールが度を超したのか、どんどん具合が悪くなっていった。バッグからエチケット袋を出して、万が一に備えるほどだった。私はなるべく気づかれないよう、じいっと目を瞑り、静かに横たわっていた。
 幸いエチケット袋を使うことなくパリ北駅に、予定時刻の21時5分に到着した。
 長谷川さんが車で迎えに来てくれていたように思うのだが、そこからほとんど記憶がない。やっと自分のベッドに着いて、風呂にも入らず翌朝までぐっすり眠った。
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ヨーロッパ記(4)…2007/11記

2008-09-18 10:43:03 | Weblog
10日 ドイツのケルンに移動 講演とパフォーマンス



 朝6時30分、出張所を出発。パリ北駅まで長谷川さんに車で送ってもらう。
 8時55分北駅発、新幹線(ケルン着12時45分)。


「寝ながら原稿チェック」

 ホームで日独文化工房の志水氏が出迎えてくださった。
駅前に、世界遺産のケルン大聖堂が全貌を表した。惜し気もなく、堂々と、そびえ立っている! いきなり度肝を抜かれた。みんな揃って、ハイチーズ!



 志水氏の車とタクシーに分乗して、志水宅へ。昼食をご馳走になる。
 しばらく観光の時間があったので皆さん出られたが、私は夕方の出番に備えて、志水宅で休ませていただいた。ベッドを勧めてくださったが、食事をいただいた部屋のソファーが気に入ったので、そこで楽々横になった。みのりちゃんも残ったが、私を一人にしてくれて、次々に帰宅する子どもさんたちの相手をしていた。時々楽しそうな笑い声がしたが、おかげで広い部屋で一人、まるで我が家のようにリラックスさせてもらった。

 19時より講演とパフォーマンス。志水夫人の車で、会場の文化工房に移動した。

ちなみに「TENRI日独文化工房」は
日本とドイツの文化をつなぐ、アットホームなギャラリーで、
日本のアーティストを呼んで、写真、音楽、書、絵画を
ドイツの人たちに紹介しているとか。
http://www.tenri-kw.de/programm.php
所長の志水氏は ケルン大学で雅楽の講師もされていて、
その関係でケルン大学学生も演奏を披露したり、多く訪れるそうだ。



 同時通訳付きでお話するのは初めてだった。ゆっくりと原稿通りにお話した。まあ、原稿を読んだ、って言ったほうが近いかな。
 途中で障ガイをお持ちのお嬢さんが立ち上がった。私は、「しまった。退屈させたかな」と反省したが、原稿を送って翻訳してあるので、急に変えられない。でも同時通訳は、どうやら私の話すスピードや間に合わせてくださっているようなので、多少間を空けても大丈夫そうだ、と思った。
 私は、間をとって、彼女の様子をゆっくり笑顔で伺った。隣にいらしたお父さんの表情が申し訳なさそうに感じられた。もし、そうだったら、こちらこそ申し訳ないことだった。まあ、全てを、おやさまと、志水氏は承知のはずだから、何が起きても全く心配いらない。私は、笑顔で、そして真摯に、お話させていただけばいいのだ。それがまずければ、なりゆきで見えてくる。

 予定のお話を終えて、パフォーマンスに移る。
 ちょっと席を外して、部屋の隅でスーツのジャケットを脱ぐ。着替えのために別の部屋に行くには数段の階段があり、それを昇ったり降りたりする体力のゆとりはなかった。ロングスカートの下にはパフォーマンス用のパンツを履いていた。
 ここでも即興で、ひらめいた文字を書いた。講演の途中で立って、少し歩いて、また戻って腰掛けてくれた彼女が、しなやかで輝いて見えたので、まず、「輝」を書いた。
 私は書く前に、座って、神様にお礼の拝をする。いつでも、どこでもする。だって、普段ほんとうに寝てばかりいる私が、ヨタヨタしてろくに歩けない私が、立って、大きな筆を持って、大きな字を全身で書くのだ。誰よりも私自身が感動している。自分の力で書いているとは思えない。神様のおかげ、としか思えない。だから、まず、神様にお礼申し上げる。道具を運ぶのも、並べるのも、片付けるのも、私一人では到底出来ない。サポートしてくださる人間あってのパフォーマンスなのだ。「おやさま、ありがとうございます。これから書かせていただきます。よろしくお願いします」と申し上げてから、始めさせていただく。

 さて、「輝」に続いて、「陽気」と書いた。
 パフォーマンスのための洋服に変身している時に、書こうと思った。せっかくお集まりいただいた方々に、私の話は満足いただけただろうか。きっと足りなかったと思う。私が伝えたいのは、「生きるよろこび」だ。そう、よろこびを伝えるとしたら、「陽気」だ。そう思ったのだった。



 ふと、思いついて、「どなたか、書いてみませんか?」と会場の皆さんに振った。
 すると、あの彼女が、手を挙げた。紙を2種類と、筆は大中小たくさん持って行ったので、全ての中から選んでもらった。紙は大きい全紙、筆も特大を選んだ。
 彼女は、たぶん日本人のお父さんとドイツ人のお母さんのハーフのようだった。ドイツ在住だと思う。彼女にとって、生まれて初めての書道だったと思うのだが、まず靴を脱いで、正座して、拝をした。私だけでなく、会場の、皆さんが驚いたと思う。
 彼女は皆さんに、和みと感動をくれた。

朋子女史と出会う。とても魅力ある人。ご主人とお嬢さんとご一緒に、講演会に見えてくださっていた。でもそれはあとで知ったので、残念ながらご主人とお嬢さんには挨拶出来なかった。



 緊張の講演とパフォーマンス、全て終わって、椅子が片付けられた会場の床に、私は大の字になって伸びをした。それから上半身を起こしてボーッとしているところへ、初対面の朋子さんが声をかけてくださった。彼女の人徳なのか、もともと縁があったのか、不思議なほど、最初から近くに感じた。大好きな旧友に久しぶりに会ったかのように、その出会いはとてもうれしくて、違和感がなかった。床の上でべったり座って、足を伸ばして、たくさんおしゃべりした。
 朋子さんの車に乗って、志水宅へ。みんなで夕食会。テーブルと椅子なので、私は勝手して自分が一番楽な場所を探す。床に直接座り、足を投げ出し、昼間寝ていたなじみのソファーの肘掛けにグラグラする頭を預けた。お尻が痛いでしょうと、夫人にクッションをもらったが、尻の下に敷かせてもらうのには申し訳ない気がして遠慮した。すると志水氏がどこからか、かわいい座布団を2枚持ってきてくださった。返って申し訳ないことしたかな。それから小さなテーブルが運ばれて、私だけの贅沢スペースが出来た。ほんとうは回りの皆さんが何かと気遣い、お互いに疲れるアクシデントだっただろうに、初めて顔を合わせて食事をするのにも拘わらず、実に自然体だった。心地よく、「特別席」で同じご馳走をパクパクいただいた。ドイツのビールとソーセージが美味しかった。朋子さん手製のラザニアとカボチャのスープが、また絶品だった。じゃんじゃんお代わりした。お話も弾んだ。
 食後、みのりちゃんと私はそのまま志水宅、うみさんと千田さんは朋子さん宅、青木さんと深野さんはホテル、それぞれに別れて泊めていただいた。

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筆記体で書く

2008-09-17 12:23:49 | Weblog
カメよりのろいカモモードですが、書作展の準備やってます。
順調です。

私の五行歌を、
一昨年の暮れに、マッシュさんが英語に翻訳して下さいました。
去年の秋に、マリーさんが仏語に翻訳して下さいました。

中学生時代、英語の筆記体を書くのが得意だったので、五行歌も
日本語と英語の両方を、自筆で書いてみたいとずっと思っていました。
先日、400首まで日本語は色紙に書き上げました。
3年2か月かかりました。

いよいよ英語。
13日の土曜日に初めて書いてみました。
予想以上に困難で、下手でした。だから、やめました。

でも14日の夜ふとしたきっかけで再挑戦することにしました。
きっかけとは、自分が何故、五行歌の色紙書きを始めたか?
翻訳した歌を筆記体で書こうとするのか? 自問の答えは
子どもや子孫に形見として残してあげたかったから、です。

だったら、下手でもいい。
「へえ、ばあちゃんも英語書けたんだ。にしてもへったくそじゃん」
って、笑ってもらえたら本望じゃないか、と思いました。

そんなわけで、15日の月曜日から書いてます。
ほとんど一日かかって、16首。まあまあの出来。
昨日の朝は左手が動かないかも…と覚悟していたら、意外や軽い。
で、昨日も残りの8首、書けました。

たどたどしくって、時に、さらさらの傑作です。
今朝も目覚めは軽かったのですが、右の肩甲骨のあたりが
さっきズキン!としました。
仏語にも挑戦したいのですが、無理かもしれません。
まず勉強しなくちゃ。
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ヨーロッパ記(3)…2007/11記

2008-09-17 10:20:23 | Weblog
9日 アントニー市の障ガイ児施設にて交流

 宿泊先の出張所では、朝づとめに続いて、所長夫妻と朝食をご一緒出来た。焼きたてのフランスパン(これがまた、とっても美味しい!)とコーヒー、無塩バターと各種ジャム、フルーツヨーグルトをいただきながら会話が弾む。私も話したが、主に、所長の永尾先生のお話、そして所長とうみさんとの会話を聞くのが楽しみだった。うみさんの質問や展開は興味深く、所長の答えや見解は一つ一つがとても勉強になった。
 この朝の話題は、日本の文化。たとえば日本の相撲を見て、あちらでは、「何やってるんだろう、さっさと取り組めばいいのに」と言うらしい。確かにそうだ、取り組みはアッという間に終わったりするのに、それまでがやたら長い。大笑いだった。日本は儀式を重んじる。剣道しかり、茶道しかり。私は、うーーん、なるほど…、いわゆる道(ドウ)か…と思った。そして、ふと、天理教はなんで、「お道(みち)」と言うんだろう。おやさまがおっしゃったのだろうか…と疑問に思った。質問したかった、が、もうヨーグルトも食べ終わって、食事の終わりだったので、あきらめた。たぶん、おふでさきかなあ。「この道は…」とか、道はたくさん出てくるしなあ、トホホやっぱり情けないことに、よくわからない。でも、なんか、「道」「みち」「日本の文化」「天理教」には、深~い繋がりがありそう…。

 この日はアントニー市の障ガイ児施設への訪問と交流が予定されていた。私の役割は、子どもたちや職員の皆さんの前でのパフォーマンスだった。
 私は、「みち」と「道」を書いた。今朝の所長のお話からいただいた。
 大勢の子どもたちが先生の指示で、私の回りを囲んで座っていた。長い下敷きに置いた全紙に先ず「みち」と書いた。彼らが子どもだから、ひらがな、を選んだわけではない。子ども、という意識は私にはなかった。ただ朝食時の話題が心に留まって、「みち」と「道」を書こうとひらめいただけのことだった。
 この時のパフォーマンスが動画で残っている。いつものように筆に墨液をたっぷり含ませたあと、筆をまっすぐ上げて、ツーッ、ボトボトと落ちる墨液を、私はわざわざ自分が動いて、子どもたち全員に見てもらっている。
 2枚目を書くとき、紙を縦に並べてもらって、同じように書こうとして、ふと気がついている。私の後ろに座っている子どもたちは、また私のお尻しか見えない。私はさっと方向を変えて、大小4個の文鎮の位置もみんな替えて、「道」を書いた。ほとんど一瞬のひらめきでやっていることだ。我ながら、よかったなぁと思う。いつものパフォーマンスなら見ている人が自由に動いて見れる。でも今日は、発達障ガイの子どもたちが先生に指示された位置で、実に行儀よくジーッと見てくれていたのだ。
 私に、そんな気の利いた配慮が出来るわけがない。とっさだもの。
 おやさまだと思う。文字の選択もきっと…。最良だったのかもしれない。



 パフォーマンス後は、予定通りワークショップに移った。スペース海の方々の到着が遅れたので、うみさん一人で新聞紙を使ったカブト作りを教え、長谷川、青木、深野、佐々木の面々が、初めて書道をする子どもたちのサポートに急遽おおわらわ。会場はたちまち笑顔と歓声で溢れた。私は持ち込んだ座椅子に凭れて、全体の様子を楽しく眺めていた。子どもたちが入れ替わりに私のところまでやってきては、自分で折ったカブトを得意げにかぶったり、書を見せてくれたりした。
やがて、スペース海の皆さんが到着。先生が増えて、ますます賑やかで和やかな交流会になった。職員の方々も、笑顔で、あるいは真剣に筆を持って、漢字を書いておられた。



 その後、手作りのクッキーと飲み物を全員でいただいた後、施設の中を見学させていただいた。
子どもたちは帰宅時間となり、見学を終えた私たちは、職員の方々と記念写真におさまり、3台の車に分乗して出張所に戻った。

 この日の夕食は近くのスーパーで食材を調達して、手作り食事会と決まった。
 明日は早くからドイツに移動して、夕方は講演とパフォーマンスの予定。
 私は夕食の席には同席しないで、自室のベッドに寝転んで勝手させてもらった。
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