今日の記事は平和ノーベル賞について書きたいのですが、
余りに大きな話題のため、少々気後れしてしまっている私です。
主婦ブロガーに過ぎない私には、日常の私的な出来事やエピソードを書くのが一番楽です。
いえいえ、それさえ苦労で、日常の疲労の原因の一つにもなっているのですが。
でも何か書かなければ。
私は、3キロの地点で被爆した広島の被爆者ですから。
父は出張から帰宅したばかりで、その翌日8月6日は出社を30分遅らせて良かったために、
九死に一生を得ました。
でも父は当日、焦土と化した街中を通り抜け、会社に向かっています。
父の目に映った風景は、正に地獄絵図そのものだったに違いありません。
それゆえでしょうか。
生々しい被爆経験を私と妹に語ることはほとんどありませんでした。
その気持ちは、とてもよく分かります。
爆心地からほぼ一キロの地点にあった父が通っていた会社の被爆後の姿です。
数年前、この写真に初めて出逢いましたが、父の強運に改めて思いが至りました。
私も、小学生の時、一度だけ原爆資料館を見て回ったことがあります。
その時思った事は、二度と見たくないでした。
そのくらい、ショックを受けました。
その誓いを破らないまま、80才の年齢を迎えてしまった私です。
帰省するたびに、もう一度訪ねようかしら、と幾度も思いましたが、
行く勇気がどうしても、湧きませんでした。
この齢になってそれをもう一度見たなら、上の画像と共に脳裏に焼き付いて
離れなくなってしまうでしょうから。
被爆の中心地まで赴き、帰りには黒い雨も浴びた父ですが、会社を無事に勤め上げ
82歳で亡くなりました。
一方では被団協の皆様のように、そのむごさを語り続け、核兵器廃絶を訴え続けてきた人が
大勢いらっしゃいます
その方達のご苦労と努力、勇気には頭が下がり、我が身の無責任さを恥ずかしく思うばかりです。
今の年齢になり、こんな嬉しい報道に接することが出来るなんて、夢のようですが・・・。
でも遅きに失した感は否めませんね。
既に多くの被爆者が亡くなられましたから。
私は目で耳でこの感激を味わうことが出来た、残り少ない被爆者の一人になれました。
私の寝室から望んだある日の明け方の秋空 6時10分ごろ撮影。
こんな美しい青空を80歳になった今も望める幸せに感謝です。
母は翌日の8月7日が集団奉仕の日でした。
この日に原爆が投下されていたなら・・・。
今の時代は、一触即発で核兵器が使用されてもおかしくない時代ですが、
この受賞が契機となり、核廃絶の機運が一層高まり、その日が必ず訪れますように。
そう、願って止まない私です。
余談になりますが、私が原因不明の熱で床に臥し、掛かり付けのクリニックの先生の紹介状を持ち、
病院で色々検査を受けた時のことです。
異常は見られなかったのですが、最後の診断でお会いした先生は血液科の先生でした。
その時最後に言われた言葉が、余りに意外で、今も心に焼き付いて離れません。
「あなたは被爆者ですから、白血球の推移をもうしばらく採血で見ていきましょう」と。
こんなことを言われたのは、私の記憶にはありません。
はじめての事でした。
ところがその後しばらくして転倒。
絶対安静の身となったため、次の予約はキャンセルし、その後まだその大学病院には行っていません。
でも未だにその先生の言葉が、脳裏から離れないままでいます。
その時付き添ってくれた長女は、整形外科でも、その後採血検査は何度も受けて異常は見つかって
いないのだから、心配しなくて大丈夫、と言っています。
医師から、被爆者であることを直接指摘されたのはこの時が初めて。
被団協がノーベル賞を受けたのは、それからしばらくしての事。
改めて、自分が被爆者であることを強く認識させられた、医師の言葉と共に、
この度の被団協のノーベル平和賞受賞の喜びが、
私の記憶に同時に焼き付くことになりました。
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