アインシュタインいわく
『・・・この定理から次の事が推論されよう。
地球の赤道上に固定され、自転する地球に伴って、動いている平衡輪式時計(注1)は地球の南北いずれかの極点に置かれた全く同じ構造や性能を持つ時計(置かれた場所の違いを別にすれば、これら二つの時計は全く同じ条件の元にあるとする)に比べて、非常にわずかではあるが、遅いテンポて時を刻むということである。』と言っている
「アインシュタインの特殊相対性理論(1905年)」: https://archive.md/hjDby#2-6-2 : (6)原論文§4の「2.時間の遅れ」からの引用
さてこの文章の前半にある部分を参考にするならば「極点に置かれた時計は静止系に置かれた時計である」とみなされ「赤道に置かれた時計はその静止系に対して運動している時計である」とされている。
アインシュタインはまずは慣性系を一つ選択しそこに観測者を立てます。
そうしてその観測者が立った慣性系を「これが静止系である」と宣言するのです。
次にその観測者の足のしたに地球の北極を持ってきて地球を自転させるのです。
そうすると北極に置かれた時計は静止系に対して運動していません(=くるくると回転する、「自転運動はしています」が観測者の足の下から移動しない)のでその時計は観測者が持っている時計と同じテンポて時を刻みます。
つまりは「北極にある時計は静止系にある時計と同じテンポで時を刻む」とアインシュタインは言っているのです。
他方で「赤道に置かれた時計」は静止系に対して速度vで円運動する事になります。
さてそうであれば「極点に対して速度vで運動している赤道に置かれた時計はsqrt(1-v^2)の割合で極点に置かれた時計に対してテンポが遅れる」とアインシュタインは主張しているのです。
さてこのアインシュタインの主張はまさに「客観的な静止系は存在する」と主張している様に当方には聞こえるのですが、さて皆さんにはどのように聞こえたのでしょうか?
さてそれで、このような主張をするアインシュタイン自身は「客観的に存在する静止系は認めていない」のです。
ただし「特殊相対論には静止系と運動系がある」という事は認めています。(というよりはそれは特殊相対論の大前提です。)
そうして「静止系については観測者が立っている慣性系を静止系として良い」としているのです。
そうして又「極点に設置された時計は自転していますが、その事を除けば静止系に設置されているのと同じだ」としているのです。
それはつまり「自転していても時間の遅れは発生しない」と主張している事になります。
そうしてまたその事は「我々の暮らす宇宙では自転運動は絶対運動である」という事もアインシュタインは認めている様に見えます。(注2)
さてそれで「ハーフェレ・キーティング」のこの辺りの取り扱いはこうなっています。
『地球が回転しているため、地表に静止して配置された標準時計は、非回転の(慣性の)空間の座標時計の候補としてこの場合には適していません。それにもかかわらず、地球上の時計の相対的な時刻の振る舞いは、基礎となる非回転(慣性)空間の仮想的な座標時計を参照することによって評価できます(6)。
この目的のために、北極点から遠く離れた場所から見下ろす非回転(慣性)空間の観察者が地球(回転している)を見た場合を考えてみましょう。赤道上の地表に固定された時計は、非回転空間に対して速度RΩを持ち、したがってこの空間の仮想的な座標時計に対して1 - R^2*Ω^2/2c^2の比率で遅れています。一方、赤道面近くで地球を周回する飛行時計は、地上速度vを持ち、したがって対応する時間比率1 - (RΩ +v)^2/2c^2で遅れています。』
まあ大筋は上で述べたアインシュタインの主張と同じです。
さてそれでここでは「時間の遅れはお互い様」というミンコフスキーの主張がこの「ハーフェレ・キーティングの実験結果」に対応しているかどうかを考えてみます。
「時間の遅れはお互い様」論者によれば『私』である観測者が飛行機に同乗した場合は地球に固定された時計の方が遅れる、という事になっています。
なんとなれば「『私』は静止していて地球が回転していると見てよい」と言うのが「時間の遅れはお互い様」論者のいう所の「相対論的なものの見方」でありますから。
そうすると「地球にある時計は常に『私と一緒に飛行機に乗っている時計』よりも遅れる」という事になります。
さてそれで事実はどうでしょうか?
ナノ秒の獲得、予測 実測 差分σ
重力 運動学的な 予測合計 測定値
(一般相対性理論) (特殊相対性理論)
東回り +144±14 −184±18 −40±23 −59±10 0.76σ
西回り +179±18 +96±10 +275±21 +273±7 0.09σ
単位 ナノ秒 (マイナスが時間の遅れをしめす。プラスは時間の進み。)
飛行機が西回りに飛んだ場合は確かに飛行機の時計は進みました。(+96ns)
つまりは「飛行機の時計から見れば地上の時計は遅れた」のです。
しかしながら飛行機が東回りに飛びますと今度は飛行機の時計が遅れました。(−184ns)
つまりは「飛行機の時計から見れば地上の時計は進んだ」のです。
さてこれは「時間の遅れはお互い様」という主張からみると「おかしな事」です。
「時間の遅れはお互い様」では常に『私=観測者』が静止系をきめる権限を持つのでしたから、その『私』に対して運動している地球上の時計は遅れなくてはならないのです。
しかしながら「事実はそうはなってはいない」のです。
という事は「飛行機に乗っている『私=観測者』以外の誰かが、あるいは何かが静止系を決めている」という事になるのです。
さてそうであれば「新幹線で東に向かう時」には「新幹線の時計は駅の時計よりも遅れる」という事になります。
そうしてまた「帰りの西に向かう新幹線では列車内の時計は駅の時計よりも進む」のであります。
さてそうであればこの地球では「動くものは時間が遅れる」のではなくて「遅れる場合もあるし進む場合もある」が正解となっているのです。(注3)
注1:「平衡輪式時計」とは「テンプ式機械時計の事」です。それは「機械式腕時計で使われているメカニズムです。」: https://archive.md/Amz0n : https://archive.md/iuQ0X :
注2:がちがちの相対運動論論者の場合は「地球が自転している」のではなくて「宇宙全体が地球の周りに回転している」と主張する事でしょう。
そうなりますと「静止しているのは地球で回転しているのが宇宙だ」となります。
これはまさに「天動説」ではありますがマッハは「そう考える事も出来る」と主張しました。
しかしながらさすがにアインシュタインはそこまでは主張していません。
「宇宙が静止していて地球が自転している」と認めているのであります。
さてそうだとすると「アインシュタインはマッハよりも弱い意味での相対運動主義者」という事になりそうです。
というのも「マッハは自転運動でさえ相対運動だ」と主張する者であるからです。
その点ミンコフスキーは「自転運動などはどうでも良かった」様です。
あるいは「自転運動を考慮外に置いた相対運動主義者」となります。
というのも「自転運動、あるいは回転運動での時間遅れをどのように扱うのか」というのが「静止系が客観的な存在であるのかどうか」ということと密接に関係してくるからであります。
そうであればミンコフスキーにとっては「静止系が客観的な存在であるのかどうか」という「問いそのものが始めから存在していない」という事になりそうです。
注3:この結論は「地球が宇宙=静止系に対して自転している」と認めた所から出てきています。
つまり「地球が自転している」と認めると「地上での時間の遅れはお互い様ではなくなる」=「時間の遅れは一方的になる」のです。
追記:このページのポイントは「ハーフェレ・キーティングのやり方では北極点上空に設定された慣性系が優先慣性系になっている」という事です。
つまりは「優先する慣性系がある事を認めている」のです。
それ以外の「その他大勢の慣性系の選択」では「ハーフェレ・キーティング」の結果を説明できない様にみえます。(注4)
つまりは「この実験は任意の慣性系に立つ観測者が静止系を決める事が不可能である事」を示しているかの様です。
そうしてそれは「アインシュタインの前提の崩壊」を意味しています。
つまり「任意の慣性系に立つ観測者は『自分こそが静止系に立っている』と主張してよい」が成立していない事をしめしている様に見えます。
注4:さてそうであれば後日、この事を数値計算によって確認する事となります。
追記の2:冒頭に述べたアインシュタインの主張によれば「赤道上の時計が遅れる」のです。
そうして「この状況は観測者が北極に立とうが赤道に立とうが変わる事は無い」とアインシュタインは言っているのです。
そうであれば「この場合は時間の遅れはお互い様ではない」のです。
この点でアインシュタインは「時間の遅れはお互い様」と主張しているミンコフスキーとは違っている、という事が出来ます。
追記の3:冒頭に述べたアインシュタインの主張は「北極は(あるいは南極は)静止系として認めてよいが、赤道は静止系ではない」と言っている事になります。
そうすると「北極で行われた相対論的な物理実験結果」は「赤道上で行われた同一の相対論的な物理実験結果」とは「一致しない」という事になります。
なんとなればアインシュタインの指摘によれば「赤道上は静止系ではないから」であります。
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