アインシュタインの前提では「全ての慣性系は平等である」となっています。
「特別な慣性系=客観的に存在する静止系は存在しない」という主張です。
これを「弱条件化」しますと「特殊相対論は特別な慣性系=客観的に存在する静止系を必要としない」となります。
しかしながら「運動による時間の遅れ」は特殊相対論の結論です。
そうして「運動というのは静止系に対する運動」ですから「特殊相対論によって時間の遅れを計算する為には静止系が必要になる」のです。
しかしながら「客観的に存在する静止系は存在しない」と主張するアインシュタインにとっては「それでは一体どうやって静止系を決めたらよいのですか?」という問いかけに答える必要が出てきます。
それに対するアインシュタインの答えが「観測者が立つ慣性系を静止系として扱ってよい」というものでした。
実際観測者にとっては「自分が立っている慣性系は自分に対して静止しています」から「それを静止系とする事」には抵抗がありません。
そうしてまたその様にして特殊相対論を「運動していると観測者が認めている対象物に対して適用したならばその対象物の時間の遅れが計算出来ている」様に見えました。
従いまして「観測者が立つ慣性系を静止系として扱ってよい」という主張は妥当なものである、とされてきたのです。
そうしてまた「時間の遅れはお互い様」という認識も「それぞれの観測者が立つ慣性系を静止系として扱ってよい」という前提から出てきたものでした。
「時間の遅れはお互い様」という認識を再確認しておきますと慣性系αの時計Aはアインシュタインの教えに従って「自分こそがその静止系である」と主張し、その主張に基づいて計算するとなるほど測定結果を再現していました。
この場合慣性系αには時計AとCが、慣性系βには時計Bが置かれ、慣性系αに立っている観測者によって「慣性系αが静止系である」と指定された上で、得られたデータを解釈すると「なるほど慣性系βの時計Bが遅れている=慣性系βの時間が遅れている」と結論が出されます。
しかしながらその時同時に慣性系βに置かれた時計A'と時計C'、そうして慣性系αに置かれた時計B’を使って慣性系βに立つ観測者は上記慣性系αの観測者が行ったのと全く同じ主張をし、計算をし、得られたデータを解釈した結果「時間が遅れているのは慣性系αだ」という結論に至ります。
この二人の観測者の主張は矛盾していますが、アインシュタインに従う限り「そうなって当然である」、「それでいいのだ」とされてきたのが「時間の遅れはお互い様」という内容でした。
以上がアインシュタインが認めた「それぞれの観測者が立つ慣性系を静止系として扱ってよい」という前提から出てくる矛盾になります。
さてそうなりますと「それぞれ3つの時計を使った2つの測定が同時に行われた時にいったい静止系はどこにあったのか?」という質問が出てきます。
慣性系αに立つ観測者と慣性系βに立つ観測者の主張を同時に認めるならば「静止系は慣性系αと慣性系βに同時にあった」となります。
ほほう、そうなりますと「慣性系αと慣性系βはともに静止していた」という事になります。
しかしながら事実は「慣性系αと慣性系βは相対速度Vをもって接近し、すれ違っていた」のです。
こうして「時間の遅れはお互い様」論者は「静止系がどこにあるのか決定できない」という状況に陥るのです。
あるいは「静止系はこの測定の時には2つあったという事を認めている」とも言えます。
アインシュタインに従った場合は「それぞれ3つの時計を使ったこの2つの測定が同時に行われた時には静止系の位置を決定できない」のです。
以上がアインシュタイン流の「観測者が立つ慣性系を静止系として扱ってよい」=「特殊相対論は主観物理学である」という立場からでてくる結果となります。
しかしながらここにきて「時間の遅れはお互い様」という主張が否定されました。
その主張は単なる誤解に基づいていた、という事は以前のページで指摘した通りです。
それから「LLの一般解が示している事」は「3つの時計を使った時間遅れの測定を解釈する場合にはどうしても静止系が必要である」という事でもありました。
但しその静止系はどこにあっても良いのですが「運動している慣性系の時間遅れを計算する為には必ず一つ、静止系が必要になる」というのが「LLの一般解の主張」です。
そうしてその要請は特殊相対論そのものから出てきています。
それでここで注目すべきは「LLの一般解は客観的に存在する静止系を排除していない」という事です。
「静止系として客観的に存在する慣性系があってもよい」と「LLの一般解は言っている」のです。
「LLの一般解」にとっては「3つの時計を使った測定の結果を説明する際に一つの静止系を必要とする」だけですから、その静止系が客観的に存在し、つまり「宇宙の中で特定の位置を占めていてもよい」と言っているのです。(注1)
ただし同時に「その静止系については3つの時計を使った測定では検出できない」とも主張しています。(注2)
さてそのような「客観的に存在する静止系があった場合は3つの時計を使った測定結果はその測定者の主観による静止系を導入する事なく解釈する事が可能」となります。
繰り返しますが「任意に選ばれた2つの慣性系を対象とした3つの時計を使った測定結果を説明するのに、その度ごとに(時間の遅れはお互いさま論者がやっているような)観測者が立っている慣性系を静止系に指定する必要はない」のです。
そうではなくて「静止系は前もって客観的に存在している静止系を採用」すれば「全ての3つの時計を使った測定結果は説明できる」と「LLの一般解は主張している」のです。(注3)
そうであればもちろん当方の選択は「客観的な静止系は存在する=基準慣性系は存在する」と言うものになります。
そうしてまたそれゆえに当方は「全ての慣性系は平等である」というアインシュタインの主張が存在するにも関わらず「特殊相対論は客観物理学である」と主張するのです。(注4)
注1:といよりもむしろ「静止系は人間の意向に関係なく宇宙がすでに決めている、ととらえた方が自然である」と言うのが当方の主張になります。
といいますのも「LLの一般解は一つの静止系を必要とする」のです。
さてその場合、その静止系を決定できるのは誰ですか?
あなたですか?それとも私?あるいはアインシュタイン?
2021年現在、地球上の人口は約77億人です。
その中の一体誰が静止系を決めれる、というのでしょうか?
注2:地球がその客観的に存在している静止系に対して動いているのかどうかは検出可能な実験方法があります。
詳細についてはたとえば: ・円運動を使った基準慣性系の判定 :を参照願います。
注3:その静止系がどこにあるのかは「LLの一般解は問わない」のです。
しかしながら「静止系は一つ必要である」とは言います。
注4:その様に主張する当方はアインシュタインの主張にも関わらず「情報が光速を越えて伝わっても過去には戻らない」とも主張しております。
通説では「情報が光速を超えて伝わると過去に戻る=因果律が破られる」として「特殊相対論が情報伝達の上限を光速に制限している」としています。
しかしながら「基準慣性系が存在すると情報が光速を越えて伝わっても過去には戻らなくなる」のです。
従って「情報が光速を超えて伝わっても因果律は破られない=特殊相対論は情報の伝達速度の上限規制はしていない」となります。
たとえば: ここまでの状況のまとめ・計算ルールなど :などを参照願います。
但し現在の所「光速を超えて動いている素粒子は見つかってはいない」という事も了解しておく必要があります。
なおこの件につきましては後日、改めて検討する事と致します。