私の好きな遍路道(3) 伊予

私がお勧めする遍路道(つづき)
伊予




1、宿毛街道の道、その1、松尾峠、御荘、柏坂、岩松、松尾峠。 地図:土佐「宿毛付近」伊予「札掛付近」「城辺付近」「御荘付近」「柏付近」「柏坂付近」「畑地付近」「岩松付近」「松尾峠・野井坂付近

真念は「道指南」与州の初めに次のように記します。「これよりいなり(41番龍光寺)へ道すぢ三有。一すぢ、なだ道のり十三里。一すぢ中道、大がんだう越、のり十三里。一すぢ、さゝ山越、のり十四里半。三すぢともに岩ぶち満願寺ニ至ル。」。
その「なだ道」(灘道)と記された道。宇和島手前の松尾峠を越えるまで。古くより宿毛街道のうち最も多くの遍路が歩いたとされるお馴染みの道。私見の要注目箇所を含めて概略辿ります。
宿毛より国境松尾峠越、札掛の先旧赤坂街道の土道、40番観自在寺、そこから繋がる笹子谷への古道、柏坂、つわな奥から由良半島の眺望、上畑地の禅蔵寺、オサカの鼻、岩松から松尾峠越えて柿の木庚申堂・・(なお、江戸期において岩松から宇和島への道は専ら野井坂越であり、松尾峠は古道に含まれません。)

2、宿毛街道の道、その2、中道、満願寺、野井坂。地図:伊予「城辺付近」「大岩道付近」「小岩道付近」「畑地付近」「岩松付近」「満願寺付近」「松尾峠・野井坂付近」「祝森付近

40番観自在寺から満願寺までの「中道」は平成25年から29年、地元の中道復元実行委員会の活動により整備・復元された道。(実質的な整備区間は御荘長月の山に入る道から本俵の山を出るまでの道の区間)
この中道は宿毛街道の主道でしたが、言わば「官道」としての利用が専らで、遍路や旅人は早い時期から姿を消したと言われます。この道を歩いて気が付くことは道標や石仏が殆ど見られないこと。私が確認したのは二体の石仏のみでした。
本俵から満願寺の旧道は、今の県道より東の山際を通る道でした。
野井坂越は消えかかった古道の道跡を探りながらの踏査で越えたり、越えなかったりしたものでしたが、この道も平成23年復旧事業により復元されました。少々残念なことは、復元された道は歩き易い道筋を選んだためかと思われますが、古道よりやや東に寄っており、古道にある地蔵などに会えない道となったこと。道復元の難しさを思います。
柿の木庚申堂で中道と松尾峠越の道が合流します。
もう宇和島も近い保田の川を渡る道も旧道の趣を感じます。

3、宿毛街道の道、その3、篠山越。 地図:伊予「札掛付近」「山北付近」「篠山付近」「祓川温泉付近」「御内付近」「満願寺付近

篠山越えの道は宿毛街道の道の中で最も厳しいが、それ故にまた魅力に富んだ道であると言えましょう。
この道は札掛の篠山神社一の鳥居から始まります。東へ道をとり昔、猿越と呼ばれた小坂を越え中組へ、安養寺、徳右衛門標石も見る。昔は峠今は篠南トンネルを抜けて山北に入る、歓喜光寺、蕨岡家。御在所の二の鳥居より山道。山頂の篠山神社、観世音寺跡。下り道は安政7年の標石から左へ焼滝に下る道。この道は悪路要注意。
古道は尾根を辿る道で通行した人もいるようですが、難所。
祓川温泉近くの裏参道二の鳥居も必見。岩陰大師に寄り日限地蔵、少林寺飛大師、御槇神社。
横吹渓谷沿いの道を行き馬ノ渕の大師堂、堂前の徳右衛門標石は盛んな遍路道であったことの証です。颪部で野井坂の道を分け満願寺へ。
厳しく長く、夢のような道でもあります。




4、窓峠の古道を通って龍光寺へ。 地図:伊予「務田付近

三間町辺り、多くの遍路は新道の窓峠を越え予土線のむでん駅の近くを通って龍光寺に向かう道をとるようですが、峠手前から左に入る旧窓峠越えの古道が残っています。
峠の切通しの先には七度栗の伝説を持つ大師堂(多福院)があります。峠を下り旧道を辿って41番龍光寺へ。

5、歯長峠上り下りの道、法華津峠への道。 地図:伊予「歯長峠付近」「卯之町付近

仏木寺から歯長峠に上る道は、休憩所の先が鎖を張った急坂で、伊予の遍路道中でも特徴のある道の一つに数えられるでしょう。
最近その急坂の先の道の一部が崩落して不通となっているようです。従って県道の歯長トンネルを通らざるを得ない状況です。
トンネルを出ると目の前に「四国のみち」が待ち受けていてその道に誘われますが、ここは左に上がる林道を経由しても古道である遍路道を辿り下川(ひとうかわ)へ下りたいものです。やや荒れ気味ですがいい道です。中間点には寛政7年の美しい標石が待っています。
実は、この辺りで私が特に推したい道がもう一つあります。
これまで遍路道であったことはないと思われますが、歯長峠から高森山を経て法華津峠に出て卯之町へ下る道です。(一部は「四国のみち」)
法華津峠から見た宇和海の海の色、島々の影、それらを背にして立つ西村清雄の歌碑。卯之町に下る旧宇和島街道そのままの石畳の道にも出会えます。
私が何故この道に感動し推すのか・・それはもう遍路日記、「平成26年春その1」を見ていただくしかないでしょう。

6、笠置峠越えの道。 地図:伊予「坂戸・笠置峠付近」「東多田付近

この道は札所と札所を繋ぐ遍路道ではありません。九州方面からの人が八幡浜に上陸し、卯之町や宇佐に行くあるいは帰るために越えた道です。
宇佐側の上り口にある安養寺は臨済宗の寺ですが大師堂があります。
道傍には標石や遍路墓が残り、峠には立派な地蔵があります。それに昭和20年代まで峠に茶屋があり、旅人の憩いとなっていたそうです。
この道ほど古い遍路道いや街道の雰囲気を保っている道はそうざらにあるものではありません。地元の人々の心が感じられる道です。(遍路日記 「平成26年春その2」)

7、金山出石寺の山道、瀬田道、地蔵道。 地図:伊予「大洲付近」「十夜ケ橋付近」「金山出石寺付近

金山出石寺は古くからの霊山であり、ここ単独で参拝がなされてきました。地元では「おいずしさん」と呼ばれます。
九州や山陽からも講を組んだ多くの参拝登山が行われ、その出発点は八幡浜や長浜が多かったのではないかと思われます。長浜からは、下須戒、柿の久保、刈屋峠、尻高峰を経る道。八幡浜からは、名坂峠を越え喜木川、野地川沿いに進み、山神坊、防秦野を経る道であったと思われます。
別格二十霊場あるいは四国八十八ヶ所霊場と併せて参拝する場合は、アプローチの利便から大洲からのルートとなります。
大洲からは阿蔵の深井または八幡神社の前から上る阿蔵ルートが最も楽な道。高山を経る尾根の舗装道で、県道248号と交差する所から土道、雰囲気のある参道となります。
この阿蔵ルートに繋がってくるのが地蔵道、瀬田道と呼ばれる道。地蔵道は地蔵堂のある地蔵堂(字)の先から土道、3.6kで阿蔵道に合流します。多くの作業道が交差する道で道筋定めに苦労する所もありますが、最近はボランティアの方の案内札も増えたようです。
瀬田道は多くが土道ですが、沼田と瀬田の集落の所で舗装道となります。県道248交差よりさらに寺に近い所で参道に合流します。この道も迷い易い箇所があります。遍路札や案内札を見落とさぬよう注意が必要でしょう。

8、内子前後の古道、五十崎の道、水戸森峠。 地図:伊予「新谷付近」「内子付近

内子の街はたくさんの古いものが美しく保存されていて歩いていても楽しくなりますが、街の前後の道もまたいい道です。
黒内坊の国道との分岐に置かれた徳右衛門標石に「左へんろちかみち」と彫られているので戸惑いますが、これは右にゆく国道が出来た時に後刻されたもの。左の遍路道が歴とした昔からの「大洲街道」であるようです。
入ればすぐに土道となり、春は花の道、秋は黄金の田圃の道となる見事さ。舗装化されないのが不思議に思えます。
思案堂、駄馬池から眺める廿日市の街、ここが内子の発祥地だといいます。
内子の街を抜け、福岡大師堂で旧大洲街道を分け直の道を行くとすぐに水戸森峠。水戸森という地名は江戸時代の記録には見られないようですが、道筋からいってやはり古道でしょう。
峠を下ったところに石浦大師堂。あまり古いものではないと思われますが力の籠った立派なお堂です。村の人々の拠り所として賑わったことを感じさせる堂周辺です。



9、大宝寺へ向かう山道、下坂場峠、鴇田峠。 地図:伊予「宮成付近」「久万付近

内子から44番大宝寺へ行く道は、始めほぼ国道379号に沿い、落合で県道に入り下坂場、鴇田の二つの峠を越える道、これが一つ。
もう一つは先の道の突合から国道380号に沿い、その後、農祖峠を越える山道に繋がる道。この二つがよく知られています。
二つとも古くからの道と思われますが、もう一つ古道がありました。それは国道380号を小田で外れ、県道52号、211号に沿い久万高原町境のほうじが峠を越える道でした。
私は久万高原町の梨の下(なしのさがり)から峠まで上がり、峠から下る微かな道跡を認めましたが下る勇気はありませんでした。右側の林道をクボノに下りました。
国道380号に沿う道は、農祖峠は低く越えるに楽な道なのですが、今は真弓峠を越えることは困難でトンネルをくぐる道となってしまったことが難でしょうか。
このルートの本命はやはり下坂場峠、鴇田峠を越える道ということ。峠付近の現世利益の祈りを見る石造物も他には見られぬ幽玄な雰囲気のものでしょう。
なお、二つの道の三島神社を繋ぐ畑峠の道は協力会が復元したものですが、かつて遍路道であった形跡は少なく、むしろ真弓峠または鴇田峠の閉鎖時の連絡道の位置づけであったかに思えます。

10、岩屋寺への道、八丁坂、槇谷道。 地図:伊予「岩屋寺付近

多くの遍路は八丁坂を上り、そこで延享5年の巨大な大師宝号石や標石を見、丁石地蔵の並ぶ道を岩屋寺に向かいます。
この道が古くからの参道であることは、寺の山門がこの道の終わりにあることによっても明らかです。参道の途中にあるセリ割行場の様子は江戸時代の「名所図会」の詳細な記述と寸分違わぬもの。また、本堂横上部の岩窟にある阿弥陀像のこと、江戸初期の澄禅や寂本の記述にも現れていたにもかかわらず、最近注目されるようになったのは不思議なことに思われます。
寺からの還り道は、その一部が屡々崩れて不通になるようですが、県道に出ることなく川に沿う道を古岩屋荘まで辿ることができます。
八丁坂に上るもう一つの道は槇谷の素鵞神社からの道。槇谷の集落は、私が遍路を始めた頃の「限界集落」から今は消滅集落に移ったようです。廃屋の傍に立つ「山へんろ道、道険しく足元に注意してお参り下さい」の看板が寂しく残されています。ここから水峠に上り八丁坂上に下る道はやはり厳しく寂しいものです。

11、千本峠越えの道。 地図:伊予「久万付近

大宝寺、岩屋寺を打って46番浄瑠璃寺に向かう遍路は、今は峠御堂トンネルを通って三坂峠に向かうことも可能ですが、トンネルのなかった時代には千本峠越えの道は必須の短縮道であったと思われます。今は「四国のみち」にもなっていますが、古道です。
切り通しの峠を下って50mほどの所、元々の道はここから高野の集落に通じていましたが崩落により道が消えて、今は下って上り返す道となっています。最近も道の閉鎖が起こったようで更に下方の迂回路もできています。
高野から下る道は舗装道と土道を繰り返し砕石工場の傍に出ます。新旧の道標も豊富ですので見落としが無ければ迷うことはないでしょう。
この先、三坂峠までの国道33号の周辺旧土佐街道の道が潜んでいます。古道好きは見落とせない・・
峠からは土道の下りです。

12、松山へ、今治へ、点々

浄瑠璃寺から松山までの遍路道は、基本的には旧土佐街道、旧讃岐街道を基幹として、寺と寺を繋ぐ道から成り立っています。
松山市街を通って堀江から今治までは、これはもう旧今治街道一筋です。これらの道の中には古道の面影を残す箇所も多く、また短いながら土道も残っています。私の独断となりますが、心惹かれた道の断片を列記しておきましょう。
重信川北岸に僅かに残る旧道。(地図「西林寺付近」) 石手寺から伊佐爾波神社への裏道。(地図「松山市内」)高浜から52番奥の院への山道。(地図「堀江付近」) 粟井坂の旧道。(地図「粟井付近」) 鴻之坂を下る道。窓坂越えの道。(この道が旧今治街道。ひろいあげ坂がゴルフ場で潰されたのが残念。)(地図浅海・窓坂付近」)石清水八幡越えの旧道。仙遊寺への道。(地図「栄福寺・仙遊寺付近」)栴檀寺奥の院(旧本堂)への山道。(地図「栴檀寺付近」)

13、横峰寺への道、湯浪道、おこや道。地図:伊予「大頭付近」「小松付近」「横峰寺付近

59番国分寺から60番横峰寺へは西山興隆寺や生木地蔵などの番外札所に寄る遍路が多く、札所番号順にまわるとすると大頭から入り湯浪を経る道が最も自然でしょう。
このルートは他に比べ土道は短いものの谷を渡り石を越える厳しい、その段差が膝に負担を強いるのです。
寺に近づいた古坊、昭和20年代まで数軒の人家があったといいます。昔はこの辺りに石鎚山の一の王子社もあったと思われます。今は荒れた観音堂一つ。前神寺との石鎚山別当争いの結果でしょうか。
この道の前半、馬返から湯浪の間、今は県道ですが、昔の道は山裾の道。多くの丁石地蔵や徳右衛門標石も残っているようですが、私の幾度かの挑戦は失敗しています。
横峰寺への他のルート。香園寺から白瀧を経て上る道、小松駅付近から採石場を経る道、いずれも「おこや」を通り寺に至ります。いずれも急坂ですが、段差の少ない歩き易い道です。

14、石鎚山への道について。 地図:「成就社・石鎚山付近

石鎚山への道は成就に近い奥前神寺が事実上札所でなくなった現在、遍路道とはいい難いでしょう。独自の石鎚山参拝道というべきか。
登山ルートをざっと辿ってみます。一つ、横峰寺からモエ坂を下り虎杖、河口、今宮道(または黒川道)で成就そして山頂石鎚神社。一つ、石鎚神社(里宮)から黒瀬峠、極楽寺、河口、今宮道(または黒川道)で成就そして山頂石鎚神社。
石鎚山までの参拝は本来山頂まで続く36の王子社に参る道であると思えます。この道は荒れた厳しい道筋を含んでいます。地図にはその道筋を示しておきましたが、多くは気楽に近づける道ではなさそうです。

15、三角寺、奥ノ院仙龍寺往還の道。 地図:伊予「三角寺・奥の院付近

三島から三角寺、そして奥の院仙龍寺への往き道、市仲から堀切峠さらに平山までの還り道。この10kを超える土道の連続は四国の多くの遍路道の中でも屈指の素晴らしい古道です。
澄禅は奥の院への道を「是ヨリ奥院ヘハ大山ヲ越テ行事五十町ナリ。・・誠ニ人ノ通ル可キ道ニテハ無シ・・峠ニ至テ又深谷ノ底ニツルベ下ニ下・・」と、奥院から平山への道を「件ノ坂ヲ山ノ中腹ヨリ東ニ向キテ恐シキ山ノカケヲ往ク。所々霜消テ足ノ踏所モ無キ細道ヲ廿余町往テ、少シ平成野ニ出ヅ・・」と記しています。やや大仰な感無きしもあらずですが、当時の道の厳しさが感じられます。
しかし、江戸中期までには道沿いに標石も立ち、不動堂近くの大窪には茶屋も建つようになったようです。仙龍寺への参拝の盛況さが伺われます。堀切峠から平山の道は土佐街道の一部ともなる道で、土佐の殿様道であった遺構も見られます。
なお、平山から川之江に至る土佐街道の旧道は新しい道の建設によりその多くが失われつつあるのは残念なことです。

 

 

 

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