か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

やま滴(したた)る

2016年05月06日 | 教育

春の季語に「山笑う」があるということを、このgooか、みんカラに書いた。5月になりこの季語は使えなくなった。今、暦は夏なのだ。

あまり使われることの無い季語だ。  「やま滴る」

(桜の散った後。したたるほどではありません、みどり。)

 

能力が無い人間は、形式とか前例とか多数とかに盲従する。とくに、なんちゃって高校の若い教師にこの手のバカが多い。すると生徒は国語嫌いになる。形式ゴッコでは自分(生徒)に迫るインパクトが無い。

使いもしない、また、使えもしない助動詞の活用を覚えさせるのを仕事のやりがいにしている。ほとんど気違いの域だ。

夏井先生はきっと笑っている。

ごたごた細かいことを言わず、これがいいのだ、とバシッと切り込み、言われたほうはダイレクトに心で理解する。テレビによく出るあのおばちゃんだ。松山はのろまが多くうそつきの町だったが、文化的には日本最高だ。

要綱

5月22日 主催 松山市 17音が景色を変える  講師 夏井いつき

(もうすぐ睡蓮)

 

巷にも俳句の会があるが、痴呆が入ったジジババが、出来の悪い俳句をわざわざ額に入れ褒めあうところだ(松山以外)。やはりここでも国語嫌いは増幅する。旧制女学校出のきちんとした素養のある人は忸怩たる思いでいる。

間違いなく女性の句は秀でている。男は、わしは昔は偉かった、の話ばかりだ。まとめて爆破できないか。

今、高校では国語の教員の中に漢文の専攻の人はほとんどいない。授業のコストしか眼中に無いアホな高校が増えた。

つまり、国語科全員に平等な授業の受け持ち時間を配当するには、漢文しか持たない先生が混じると人件費がかさむという理屈だ。

なぜここで漢文か。俳句の話ではなかったか。あほ。山の緑が滴る様に覆っている(やま滴る)、わけだが、出典はMade in Japanではない。そう。おまいらの嫌いな、Made in Chinaだ。

”郭煕(かくき)”の著書である『臥遊録(がゆうろく)』とされている。

(ちゃんと枝垂桜を観にきている人たちがいる。有名ではないのに都府楼の奥の上品(じょうぼん)の桜をめでる人たちがいる。軍歌を流して日の丸を振るよりよほど日本を強くする行為だ。)

 

漱石が現代文から消え、「ばなな」が教材になる。漱石の漢文に対する深い造詣に接すると、かならず人は謙虚になる。現代のわれわれも彼を学び、自らの日本語力を高めることができる。ばななの文にはその素材すらない。

漱石に何が何でもこだわるということは、ない。ただ、真摯な日本語の世界観を知らない人は教科書に載ってはいけない。

現代文の授業が、早く進む先生ほど良い先生とされる何ちゃって高校が、生徒の国語力を奪い、国語嫌いを増やしている。

灘の橋本先生は、3年間たった一冊のテキストでほぼ全員を東大に通した。

 

 

 

 

 

 


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