か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

昭和18年。 遷都候補地の一つは、京城(ソウル)もう一つは福岡県八女市だった。

2012年05月01日 | 東洋歴史
 
昭和18年になると帝都東京に大規模な空襲が予想されるようになる。そこで中枢機能だけでも移しておく必要性が高まってきた。東条だけが帝都への敵機の侵入は一機もないと言い張っていたが、米軍機は毎日のように侵入し焼きつくすための資料を作っていたのだ。

貧乏国日本はただでさえ戦力の集中運用が必要なのに、陸軍と海軍と政府がそれぞれ違う夢を見ていた。

とくに海軍は、戦略的にも戦術的にも何の成果をあげることなく壊滅した。一年や二年暴れてみせますという大ウソを、天皇に対してついたのは連合艦隊長官山本だ。一億特攻のさきがけとなれと言われたら、軍令部はなぜか納得して大和の3000人は死んだ。

弱いくせにケンカを挑んで負けっぱなしで、あげくのはてに自殺攻撃しか手がなくなる。

陸軍は陸軍で明治にできたボルトアクションの銃で戦い、砲は大正時代の骨とう品だった。しかも海軍との連絡の悪さから多くの戦機を逃す。人口六千万の貧乏国が七百二十万の軍隊を抱えていた。その中に朝鮮軍、関東軍、内地、中支派遣軍、・・・など複雑な指揮系統になっており当の陸軍自体が混乱している。

政府も一部で終戦工作をするかと思えば、一部では徹底抗戦を叫ぶ者もいた。米軍が、言を左右にする島国のサルを信用しなかったのも当たり前だ。

遷都の予定地に京城(ソウル)が入っているということは、朝鮮の治安の良さを物語っている。京城市内龍山(りゅうざん)には、きわめて精鋭の部隊が無傷で残っていた。かといって大勢には何の影響もないが。やはり首都が外地に逃げ出すのはまずいと考えたのだろう。福岡県八女市が主たる候補地となった。

絶対に実現しない。計画だけでも何年もかかるのに、目の前に米軍が迫って何をしようとしたんだろう。多くの費用を使って結局遷都は取りやめになった。貧乏国こそ節約して事に当たるべきなのに浪費した。なんと言う倒錯した役人、軍人たちか。

おまけに陸軍はバカの上塗りをしている。

ちかくの亀の甲龍が原(地名、かめのこう たつがはら)に大刀洗飛行学校筑後分教場(岡山飛行場)を建設しようとして近くの学校の生徒たちを動員した。飛行場建設は昭和20年になっても続く。2キロほど離れた川から人力で石を運ばせた。トラック一台が10分で運べる量を、何千人がお国のためと信じて一日かけて運んだ。拷問にひとしかった。そして最後まで飛行場は完成しない。

頑張って負けたのならあきらめもつく。しかし、建設作業の途中から明らかに無駄だと分かっていることを強要したのは戦争犯罪だ。なぜなら、どこに飛行機があった。どこに戦闘にまにあう搭乗員がいた。どこに訓練や攻撃のための燃料があった。グラマンを撃ち落とす対空施設がどこにあった。

子供たちの終戦は、石運びからの解放だった。
Posted at 2012/04/30 21:07:44
 
 
 
 
 

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