か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

会社も辞めたし。趣味でも持つか。それは趣味に失礼です。

2013年06月02日 | 日常

お前らが仕事を命がけでしたと思っている以上に趣味は命がけだ。かつ、山で死んだら捜索費は有料だ。自分が死んだうえに家土地が吹っ飛ぶほどの捜索費が請求される。

つまり命と財産をかけて遊ぶのだ。理解力のない便所の団子虫は否定的に、何で山に登るかねえという。学校の評定で言うと興味・関心は「C」だ。何で登るかわからぬ虫が、興味・関心なんぞ最初から持ってはいけない。

「そこに山があるからだ」と答えたのは方便である。なぜ頭痛がするのかと問われ「そこに頭があるからだ」と答えるに等しい。

登山家にとっては、朝飯を食う、食器を洗う、着替える、電車に乗る、朝礼に間に合う、昨日の残りを入力する、レイアウトを整えプリントアウトする、課長の決裁をもらう、稟議書を作る、昼飯を食う、他社との応対に出る、翌日の資料を作る、退社する、不倫相手とお茶を飲む、帰宅する、子供を抱き上げ家っていいなと思う。これらの一つ一つが山で死ぬより苦痛なのだ。

人が考え、ためになる話だと思い厳選したものを書いているのに、偽インテリの思い上がりはひがんですぐ非科学的ちょっかいを出す。僕は、こんなところで自慢したりしない。僕の言いたい中身をくみ取ってほしい。

山は麻薬だ。フリークライミングという幼稚園のジャングルジムを大の大人がやるようになった。一度でも岩登りをやると、もう岩登りまがいのことはできない。ジャングルジムごっこや砂場遊びに関心が向くことはない。大きな北壁は僕の技術では無理だがそこそこであれば精密な計算とチームワーク、「勘」、体力があれば困難ではない。日本の谷川岳がはるかに危険だ。九州の鷲ヶ峰はさらに危険だ。

人間が克服できるのは「困難」である。「危険」は確率の問題でたとえば隕石を避けることはできない。がっしりしたヨーロッパの岩を見たとき、電柱を登るようなまるで工事だなと思った。

そんな工事の電柱登りのため体力づくりをしようとは思わない。ましてやジャングルジムの登頂のため腹筋を鍛えるバカはいない。

岩にへばりつき手を伸ばしても届かない、下を見ると曇って見えない。この時自分を助けるのは自分だけだ。ルートの計算、ザイルをもう一本出すかどうか、カラビナは、ハーケンはここで打つべきか。間違えればザイルでつながった仲間も死んで膨大な借金を残す。

それを何百回繰り返し、ふとあるとき垂直面の連続が水平面に代わり手のひら、肘、腕で体を押し上げる瞬間が来る。頂上だ。

僕は便所の団子虫になって満員電車に乗るのはいやだ。

  Posted at 2013/06/01

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