京の四季 名勝散策 写真集

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嵯峨野 二尊院 新緑 6/16/2011

2011年06月26日 | 洛西 嵐山・嵯峨野 高雄

      

      二尊院(にそんいん)は、嵯峨野にある天台宗の寺院で、山号は小倉山、正しくは小倉山二尊教院華台寺といいます。二尊院の名は、本尊の「発遣の

      釈迦」と「来迎の阿弥陀」の二如来像が祀られているところからきております。  総門は慶長18年(1613)、豪商角倉了以氏の寄進によるものです。

 

  

 

 

 

      

      総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は、紅葉の名所として知られ、また、奥には、百人一首ゆかりの、藤原定家の時雨亭跡とされる場所があり

      ます。 

      

 

 

      

      起源は嵯峨天皇(809~823)の勅願によって慈覚大師が承和年間(834~847)に開山し、鎌倉初期には円光大師(法然上人)がここに居を定め、当時

      の貴顕の信望を集めたと伝わります。以後、一時荒廃いたしますが、法然上人の高弟である湛空らにより再興され、応仁の乱により堂塔伽藍が全焼い

      たしますが、本堂と唐門が約30年後の永正18年(1521年)に三条西実隆によって再建されました。 本堂「二尊院」の勅額(後奈良天皇)唐門「小倉山」

      の勅額(後柏原天皇)は、この時に下賜されたものです。       

 

 

 

      

      境内の山側の高台にはには、土御門(つちみかど)天皇、後嵯峨、亀山三天皇の分骨を納め、三帝陵として明治維新までは勅使の参拝がありました。

      また、二尊院は皇室直属の黒戸四ヶ院の一寺で明治維新迄御所の御内悌殿のお守りをして居り、宮中でのお彿事を勤めてきた歴史もあります。

 

 

 

 

 

      

      黒戸四ヶ院とは、もともと皇室をはじめ一般庶民にいたるまで、葬儀の際には仏教が関わるようになってきておりましたが、皇室は明治維新に神仏分離
     
      令により仏教を捨ててしまったため、今は無関係でありますが、京都には今でも「黒戸の四箇院」といって、皇室の葬儀などの仏事を専門的に行ってきた
      4寺院が現存しております。即ち、二尊院(京都市右京区)・般舟三昧院(上京区)・廬山寺(上京区)・遣迎院(北区)の4ヶ寺をいい、「黒戸」とは内裏の御内
      仏の扉が黒塗りだったことに由来し、元は四宗兼学といって、天台・真言・浄土(西山義)・律の教学を宗旨としていた寺院です。
      そういう皇室との関係から、昨年(22年)天皇両陛下が京都にお越しになられた時に、二尊院にお立寄りになられました。


 

 

 

  

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

              

              勅使門の唐門 

 

 

 

 

 

      

      二尊が祀られる本堂 

 

 

 

 

 

 

      

      二尊院の本堂前庭は、その昔この地に龍女が住み、正信上人によって解脱昇天した故事をもとに「龍神遊行の庭」と申し、また、本堂南側の石庭は浄

      土の世界をあらわしたものとして「寂光園」と名づけられております。
 

 

 

 

 

 

      

       木造、釈迦如来立像・阿弥陀如来立像  本堂に安置されております二体の本尊は、鎌倉時代の作で、像高は両像とも78.8センチ、向かって右に発

      遣(ほっけん、現世から来世へと送り出す)の釈迦如来、左に来迎(西方極楽浄土へ迎え入れる)の阿弥陀如来が並び立ちます。像表面は現状では黒

      ずんでおりますが、金泥塗りとし、截金で文様を表しております。 

 

 

 

                           

      両像はよく似ておりますが、下半身の衣文の形式などに変化をつけており、右の釈迦如来像が右手を上げ、左手を下げる一般的な印相を示すのに対

      し、阿弥陀像は右手を下げ、左手を上げる形に造り、両像は左右対称形となっております。また、通常の阿弥陀如来像は親指と人差し指(または中指、

      薬指)で輪をつくる印相を示しますが、二尊院の阿弥陀如来像は下げた右手の指を5本とも真っ直ぐ伸ばしている点が珍しいそうです。 

 

 

 

 

 

      

      本堂の南側の納経所から本堂に上がります。 御朱印受付の右手が、浄土の世界をあらわした石庭の「寂光園」です。
 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      寂光園 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

               愛宕山の「火の用心」お札が、貼られております。 

 

 

 

 

 

      

      庭園奥の 茶室「御園亭」は後水尾天皇(1611~1629)の第五皇女、賀子内親王の御化粧間であったものを元禄10年に下賜されたもので、狩野永

      徳筆の腰張りがあるそうですが、一般公開はなされておりません。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

      本堂南側に展示されております「御駕籠」は、江戸時代末期頃、二尊院住職が御所に読経(おつとめ)に上がる時に使用されたもので、菊の御紋が付

      いているため、無条件で出入りできたそうです。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

      本堂北側の御霊屋と奥に九頭龍弁財天堂

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      九頭龍弁財天堂 

 

 

 

 

 

               

               弁財天堂の前に建つ扇塚

      

      吉村雄輝氏とは、 上方舞吉村流の四世家元で、人間国宝です。高知県生まれで、俳優池畑慎之介 (ピーター) の実父だそうです。  

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                  

                   九頭龍弁天堂と鐘楼の間の階段を登りますと、湛空上人廟が建ち、廟の左手の山中

                  に「時雨亭」跡があり、藤原定家卿が百人一首を選定した場所として知られております。  

 

 

 

 

      

      二尊院中興の祖、湛空上人廟 

 

 

 

 

 

      

      坂の途中にある公卿の墓所

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      角倉了以像の裏手にたつ鐘楼、梵鐘は1604年の鋳造でしたが、1992年に再鋳し、「しあわせの鐘」と名付け、世界平和を祈願して参拝者に撞いてい

      ただける様になっております。

 

 

 

 

 

      

      角倉 了以(すみのくら りょうい、1554年~1614年8月17日)は、戦国期の京都の豪商で、 朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を行い、京都山

      城の大堰川、高瀬川を私財を投じて開削した。地元京都では商人と言うより琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名です。 

      角倉家は代々医術を本業としていたが、その傍ら土倉 つまり質屋も営んでおり、了以は祖父の企業家精神と、医者であった父の科学的精神をうけて、

      医業は弟に譲り自分は土倉経営 を中心に家業を発展させ、海外貿易でも文禄元年(1592)豊臣秀吉の朱印船に加わり、安南国(今のベトナム)と貿

      易して莫大富を得ました。家康が江戸幕府を開いて3年後に、京都の西を流れる保津川(大堰川)開掘の願書を出し、30数キロ上流から嵯峨までの

      舟運に関する権利を得て、開削を始めて6カ月後には竣工させております。その工事に当たっては人任せでなく、自ら石割斧を 振るって仕事にあたっ

      たと言われ、史料等々によりますと、保津峡の開削の成功によって搬送船が嵯峨に着 き、大堰川開削により丹波地方の農作物は旧倍して運ばれは

      じめ、嵯峨近辺は商人の往来が多くなり発展したと記録されております。 角倉家 は、莫大な資金を投じて開削ましたが、開削後の水運による収益を

      すべて独占する事で、さらなる利益を得たと考えられます。他にも幕命により了以が行った通船のための河川疎通事業としては、 富士川・天龍川・高

      瀬川等の開削があります。

 

 

                

               

               

 

 

 

  

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      小倉餡発祥の地の石碑の横のモニュメントは、「真(しん)」と名付けられ、平安遷都1200年祭にプレイベントして開かれた野外彫刻展の入選作で、橋

      本清氏の作品です。 円形は時間の流れを現し、ややねじれているのは、この世に完全無欠なものはないことを象徴していると説明されております。

     

 

 

 

 

               

               こちらの石碑は、井筒八つ橋本舗が、創業200年を二記念して建てられたもので、裏面に小倉餡の歴史が刻まれ

               ております。 

 

 

 

 

 

 

      

      境内の北の端に建つ八代ノ宮

 

 

 

 

 

 

               

                八代の宮の前から坂を上って行きますと各家の墓所があります。公家の二条家、三条家、四条家、三条西家、

               鷹司家の墓地のほか、伊藤仁斎・伊藤東涯父子、角倉了以・角倉素庵父子の墓など。また境内奥には土御門

               天皇、後嵯峨天皇、 亀山天皇の分骨を安置する三帝陵があります。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      唐門内側の「小倉山」の勅額(後柏原天皇)は、永正18年(1521年)に三条西実隆によって再建されました時に下賜されたものです。       

 

 

 

 

 

      

      蟇股の牡丹でしょうか?椿でしょうか? 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      雨の中の遠足でしょうか、小学生数人が総門の軒下でお弁当を食べておりました。 雨降りで可哀想ではありましたが、・・・・・・・ 

 

 

 

 

 

      

      山門の向かって左手前に「大界外相(たいかいげそう)」と刻まれた石碑が立ち、ここからは聖域であるという意味を表しています。その当時の律宗の寺

      院では「禁女人入門内」という意味も含まれているところもあるそうです。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 


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