この前、改装中の山野楽器本店の、改装が済んだ2階クラシックフロアで、レイアウトが変わっただけで、あまり品数の増えていないCDの棚を眺めながら、少しだけ買って精算しようとキャッシャーにならんでいたら、銀座百点という小雑誌が目に飛び込んできた。
それをただでくれるというのでもらって持って帰った。
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1955年創刊というから半世紀以上もちこたえている。見たことはあったかもしれないがとりたてて興味もなかった。
最近、月刊「日本橋」というのを見ながら蕎麦屋の品定めをしていたことがあったので、同じ形状の銀座百点に目がとまった。
この2月号のエッセイに、作曲家の吉松隆さんの「銀座のファゴットと寿司」という小文が掲載されている。
昔、高校の時に吹いていたファゴットは高かった。寿司も高かった。銀座で寄るところはヤマハ楽器と山野楽器だけだった。こんな感じの青春時代。
作曲家になってしばらくたって、ようやくカウンターで寿司を食える、というよりもカネを払えるようになるまでのお話し。
作曲家も言っているが、合席の女性というのはおごってもらう機会が多く、若い時から高額寿司を食べ慣れている。寿司屋での動作・挙動など不自然さがない。たしかにそうかもしれない。
お勘定のことを脳裏に浮かべながら食べる寿司の味は20パーセント落ちる。というか味よりも別のことを舌が考えている。
カウンターで寿司を食べるようになって一人前というが、そうではなく、カネが脳裏に浮かぶことなく心おきなく食べれるようになって一人前ということなんだろう。
銀座界隈、六本木界隈、の寿司はどちらも高額だが、そんなにあふれるほど儲かっているという話もあまりきかない。食材だけでなくいろんなところにカネがかかるのだろう。
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高額があれば低額もある。
低額寿司屋でいつも思うことがある。同じ値段で、荷崩れの起こすシャリと荷崩れを起こさないシャリがある。あれは握り方に対する姿勢が職人によって違うからではないか。
同じ低額寿司であれば鮮度の同じ魚介類が上に乗っているのであれば荷崩れの起こさないシャリのほうが河童は食べやすい。
しっかり握る職人が、上にのぼるのではないか。同じ食材同じ鮮度タネ同じ米、そして技術のレベルが違う。ただそれだけで上を狙えるのが寿司職人ではないだろうか。
ファゴットだって作曲だってサラリーマンだってなんだってみな同じ。この下積みがあとでものをいうのさ。
客は寿司職人をよく見ている。見てないふりをしながらみている。見るつもりがなくても見ている。
なぜかというと、客は職種はちがうけどみんな同じく仕事をしている。だから、共感あるなしにかかわらず仕事をするものの細かで微妙なニュアンスを自然に感じ取ることができ、それを受け入れたり受け入れなかったりしている。仕事をするものの自然の摂理。
銀座の寿司は高いけど、もしかしてサラリーマンの単価なんてもっと高いかもしれない。
みんな一生懸命になって仕事をして、得たカネでエンジョイ・ライフしている。それでいい。
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吉松さんの文を読んでいると、昔のピュアで一心不乱に邁進していた学生時代のことを思い出す。河童も吉松さんと同じぐらいまじめだった。
おわり
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