相変らずの土日の忙しさ。
その上に太陽さんがお出ましになったので、ばたばたと。
同時に暑くなっちゃいましたね。困ったモンです。
今日も朝から暑くて・・一歩も外に出る気力のなくなっているkおばちゃんです。
ああ、お盆も来てしまいました。
●6月5日(木)
プルゼニPlzeňでの朝の目覚めは・・まあまあです。夕べは楽しくビールを頂いてゆっくり出来ましたからね。
朝ごはんもいつもどおりモリモリです。
朝ごはんを頂いて・・小休止した後は、もうこの町を出発します。
今日は今回のこの旅のメインの場所に行くためです。
ただし、事前情報は殆どありません。それほどマイナーな場所なのです。
このプルニゼから1時間ほどの距離の場所にあるはずなのですが・・有名な観光地でもないし、むしろ現在の住民にとっては触れられたくない部分でもあるのでしょう。
今日はナビ様たよりなのですが・・目指したのはPobezoviceと言う場所。読み方も良くわかりません。ポベチョビッツェと読むらしいです。ロンスペルクRonspergと言ったドイツ語名のほうが日本人にはわかりやいかもです。
リヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデン ホーフ=カレルギー(リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー)Richard Nicolaus Eijiro Coudenhove-Kalergゆかりの地です。
彼は、現在のユーロ圏構築の思想の元、パンヨーロッパ主義Pan-Europeanismを唱えた人物。
現在このユーロ圏は行き詰まり感がありますけれど・・
リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーは、明治女の日本人の母を持ち日本でうまれたそうです。その後、欧州に渡り、ウイーンで学生生活を送る前までは、ここロンスペルグで兄弟とともに過ごしていた・・ということでした。
母のミツについては色々ドラマチックに語られているようですが、最近ブックオフで手にした本によると、半ば身売りのようなかたちで嫁いだとか。
現在は廃墟となってしまっているとはききましたが、この目で見てみたっかたのでした。
地名のみの検索で、集落まではたどりつきましたが・・さてどこだ?
中心地とみられるのは何処の集落でも教会ですからね。一応教会堂を目印に捜す事にしました。
駐車場は・・よくわからないけれども、大丈夫そうな場所を適当に捜して。
実は、このときの画像はデジイチで撮っているはずなのですが・・まだPCに読み込ませていないみたいで・・そのうち画像もアップできるとはおもいますが、今はとりあえず撮ったスマホの画像で。
ようやく見つけたお城ロンスペルグ城Castle Ronsperkは見るも無残でした。
入り口こそこんな感じでそこそこなのですが・・
インフォメーションの看板が下がっていますが・・誰もいません。平日の昼間だと言うのに。
地図が掲げられていました。
ドイツ語の説明文はついています。
それもそのはず、第二次世界大戦のころまでは、ここはドイツのコミュニティだったのです。クーデンホーフ家の所領だったわけですからね。
それ以外には大きなユダヤ人コミュニティーがあったそうですが、対戦中にナチスにより消滅してしまったようです。
大戦終結後はチェコ人のもとのとなり、国有化されたそうですが、もともとこの地にいたのはほぼドイツ人だったため、新しく入植してきたチェコ人たちばかりの町となってしまったそうです。
つまり、昔の町とは縁もゆかりも無い人達の町となってしまった訳です。
実際お城の敷地に入って見ましたが・・城の周りの建物は、作業小屋となってしまっていて、トラクターやらなにやら機械の修理をしてるおじさんがいるだけです。
その雰囲気からして、話しかけるのもはばかられるような感じです。
この看板の真中に映っているのがお城・・なのですが、これは随分と加工してあるのじゃないでしょうか?
スマホに残っていた画像はこんな状態です。
廃墟と言っても良いくらいです。足を踏み入れられる状態ではありませんよね。
唯一、2階の窓に描かれている和服の女性が『ミツ』さんではないかと思わせる程度しか・・
左側の窓に佇む女性は誰でしょうか?
ミツの夫の最初の恋人でしょうか。父親に結婚を断固反対され、なんでもこの城の窓から転落して亡くなったとか。まさかねぇ。。
それとも息子の嫁で、大のギャンブル好きだったという女性でしょうか?
個人的には、ミツさんにも興味がありますが、ミツさんについてきた乳母2人の日本人女性にも興味がありますが、この場所ではこれ以上のことはわかりそうにもありません。
そうそう、この城の入り口付近の建物に掲げてあったプレートが唯一の今回の収穫でしょうか。
カレルギー家の前にこの城の主であったトゥーンThunů家の音楽教師として、親の支援が途絶えかけたスメタナが、パトロンのトゥーンThunů家の城のひとつであるここに滞在していたことがあるようですが、そのことが書かれたプレートです。
そのうえの庇というかバルコニーの下というか・・には燕の巣があって、忙しく燕が行き来ていました。
覚悟はしていたけれど、栄枯盛衰を実感したkおばちゃんです。
その上に太陽さんがお出ましになったので、ばたばたと。
同時に暑くなっちゃいましたね。困ったモンです。
今日も朝から暑くて・・一歩も外に出る気力のなくなっているkおばちゃんです。
ああ、お盆も来てしまいました。
●6月5日(木)
プルゼニPlzeňでの朝の目覚めは・・まあまあです。夕べは楽しくビールを頂いてゆっくり出来ましたからね。
朝ごはんもいつもどおりモリモリです。
朝ごはんを頂いて・・小休止した後は、もうこの町を出発します。
今日は今回のこの旅のメインの場所に行くためです。
ただし、事前情報は殆どありません。それほどマイナーな場所なのです。
このプルニゼから1時間ほどの距離の場所にあるはずなのですが・・有名な観光地でもないし、むしろ現在の住民にとっては触れられたくない部分でもあるのでしょう。
今日はナビ様たよりなのですが・・目指したのはPobezoviceと言う場所。読み方も良くわかりません。ポベチョビッツェと読むらしいです。ロンスペルクRonspergと言ったドイツ語名のほうが日本人にはわかりやいかもです。
リヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデン ホーフ=カレルギー(リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー)Richard Nicolaus Eijiro Coudenhove-Kalergゆかりの地です。
彼は、現在のユーロ圏構築の思想の元、パンヨーロッパ主義Pan-Europeanismを唱えた人物。
現在このユーロ圏は行き詰まり感がありますけれど・・
リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーは、明治女の日本人の母を持ち日本でうまれたそうです。その後、欧州に渡り、ウイーンで学生生活を送る前までは、ここロンスペルグで兄弟とともに過ごしていた・・ということでした。
母のミツについては色々ドラマチックに語られているようですが、最近ブックオフで手にした本によると、半ば身売りのようなかたちで嫁いだとか。
現在は廃墟となってしまっているとはききましたが、この目で見てみたっかたのでした。
地名のみの検索で、集落まではたどりつきましたが・・さてどこだ?
中心地とみられるのは何処の集落でも教会ですからね。一応教会堂を目印に捜す事にしました。
駐車場は・・よくわからないけれども、大丈夫そうな場所を適当に捜して。
実は、このときの画像はデジイチで撮っているはずなのですが・・まだPCに読み込ませていないみたいで・・そのうち画像もアップできるとはおもいますが、今はとりあえず撮ったスマホの画像で。
ようやく見つけたお城ロンスペルグ城Castle Ronsperkは見るも無残でした。
入り口こそこんな感じでそこそこなのですが・・
インフォメーションの看板が下がっていますが・・誰もいません。平日の昼間だと言うのに。
地図が掲げられていました。
ドイツ語の説明文はついています。
それもそのはず、第二次世界大戦のころまでは、ここはドイツのコミュニティだったのです。クーデンホーフ家の所領だったわけですからね。
それ以外には大きなユダヤ人コミュニティーがあったそうですが、対戦中にナチスにより消滅してしまったようです。
大戦終結後はチェコ人のもとのとなり、国有化されたそうですが、もともとこの地にいたのはほぼドイツ人だったため、新しく入植してきたチェコ人たちばかりの町となってしまったそうです。
つまり、昔の町とは縁もゆかりも無い人達の町となってしまった訳です。
実際お城の敷地に入って見ましたが・・城の周りの建物は、作業小屋となってしまっていて、トラクターやらなにやら機械の修理をしてるおじさんがいるだけです。
その雰囲気からして、話しかけるのもはばかられるような感じです。
この看板の真中に映っているのがお城・・なのですが、これは随分と加工してあるのじゃないでしょうか?
スマホに残っていた画像はこんな状態です。
廃墟と言っても良いくらいです。足を踏み入れられる状態ではありませんよね。
唯一、2階の窓に描かれている和服の女性が『ミツ』さんではないかと思わせる程度しか・・
左側の窓に佇む女性は誰でしょうか?
ミツの夫の最初の恋人でしょうか。父親に結婚を断固反対され、なんでもこの城の窓から転落して亡くなったとか。まさかねぇ。。
それとも息子の嫁で、大のギャンブル好きだったという女性でしょうか?
個人的には、ミツさんにも興味がありますが、ミツさんについてきた乳母2人の日本人女性にも興味がありますが、この場所ではこれ以上のことはわかりそうにもありません。
そうそう、この城の入り口付近の建物に掲げてあったプレートが唯一の今回の収穫でしょうか。
カレルギー家の前にこの城の主であったトゥーンThunů家の音楽教師として、親の支援が途絶えかけたスメタナが、パトロンのトゥーンThunů家の城のひとつであるここに滞在していたことがあるようですが、そのことが書かれたプレートです。
そのうえの庇というかバルコニーの下というか・・には燕の巣があって、忙しく燕が行き来ていました。
覚悟はしていたけれど、栄枯盛衰を実感したkおばちゃんです。
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