平均寿命、男女とも長野首位

平均寿命、男女とも長野首位=延び幅は山形、愛媛―10年の都道府県別調査・厚労省
厚生労働省は28日、5年に1回の国勢調査を基にまとめた自治体別の平均寿命を示す「2010年都道府県別生命表」を発表した。最も長いのは男女いずれも長野(男性80.88歳、女性87.18歳)。最下位は男女ともに青森(男性77.28歳、女性85.34歳)だった。平均寿命は鳥取の女性(前回比マイナス0.19年)を除き、いずれも延びた。平均寿命が前回調査から最も延びたのは、男性が山形(1.43年)、女性が愛媛(0.90年)だった。

私の住む長野県の平均寿命が男女とも首位だという。なぜ長野県が首位なのかいろいろ調べてみたがよく分からない。ただ特筆すべきは都道府県別一人当たり医療費が最も少ない県の一つになっていることだ。生活習慣病の予防に力を入れているとも聞くが、正真正銘の長寿県であることは確かなようだ。

さて上のリンク記事によると長野と青森の差は男性3.6歳、女性1.84歳。47都道府県の首位と最下位の差だから私の感覚からすると僅差である。あえて挙げれば青森男性の77.28歳がちょっと短いか。それよりも寝たきり病人を除く健康寿命の長いことに価値がある。心身ともに生き生きと元気な人生を送ることができるかだ。言い換えればその努力をしたかである。厚労省発表の数字のランキングに一喜一憂してもあまり意味がない。

PS:町内に明治41(1908)年生れ今年満105歳を迎えるご婦人がいらっしゃる。明治・大正・昭和・平成の激動の世を元気溌剌に駆け抜けたのでしょう。今もご健在です。
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自見さん、一筆啓上仕り候

国民新党2議員離党 所属議員は自見氏のみ

いま話題の国民新党が風前のともしびであります。来る参院選が厳しくなったのか自民党へ吸収合併を要請したようですが断られたみたいです。そうしましたら、二人が離党し無所属。国民新の所属議員は代表の自見庄三郎(右写真)さんだけとなりました。自見さんこれからも自民党入りを模索するみたいですよ。

国民新党といえば例の小泉郵政改革(民営化)に反対し、自民党を追い出されて新党作ったんですよね。歴代代表は綿貫民輔さん、亀井静香ちゃん、そして自見さん。結成は05年だから足かけ8年も存続したのですか。この間、うまいこと民主党と連立政権組んで良い思いもしたんでしょう。その割には党勢拡大ならず、どんどん落ちていっちゃった。そうしてとうとう今回のドタバタ劇。真相は来る参院選で全国特定郵便局長会の支持を得られないことらしいですね。でも自民党へ助けを求めても難しいですよ。いや助けを求めるんでなく、参院がねじれだから自見さんが2票持参し助けてやると助平根性出したのか?だが節操がまるでない。自見さんたち、とても国会の先生方とは思えない滑稽さであります。みんな自分の命が危なくなると的確な状況判断ができなくなっちゃう見本ですかね。

もうこうなると滑稽を通り越して不憫(ふびん)であります。何とかならないものか?亀ちゃん*のところへ相談に行こうよ。自見さんたちを助けてやってください。(爆汗)
*亀井静香氏の所属政党遍歴:
(1)自民党→(2)国民新党→(3)反TPP・脱原発・消費増税凍結を実現する党→(4)減税日本・反TPP・脱原発を実現する党→(5)日本未来の党→(6)みどりの風

PS:直近忙しくブログ投稿が途絶えている。今夜の政治ネタはつまらないが、何も考えず短時間に書けたので自見さんへ一筆啓上いたしました。多忙なのは自見さんかな。忙しいとは心を亡くすと書く。なので、ゆめゆめ言わないことにしましょう。
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安倍首相の講演、演説の草稿は誰が書くのか?

安倍首相、米政策研究機関で講演 「2級国家にはならない」
安倍首相は22日、アメリカ・ワシントンの有力な政策研究機関で、「日本は戻ってきた」と題し、英語で講演した。安倍首相は「アイ・アム・バック。日本も、そうでなくてはなりません」と述べた。講演で安倍首相は、「日本は、今もこれからも、2級国家にはならない」と強調した。尖閣諸島をめぐって、安倍首相は、「今も、未来も、何であれ、(日本の領土・主権への)挑戦を容認することはできない。わが国の決意に関し、どの国も、判断ミスをすべきではない」と述べ、中国をけん制したうえで、「わたしたちは、わたしたち自身の力で領土を守っていく。これからも冷静に対応し、対立をエスカレートさせるつもりはない」と強調した。

民主党政権(とりわけ鳩山政権)下、何かとぎくしゃくした日米関係だったが、安倍首相の訪米による日米首脳会談によって両国の信頼関係は修復したといっていい。摩擦が絶えない日中関係、北朝鮮問題等、外交問題が山積している折から、わが国の安全保障は日米同盟が基軸である。かつて小沢一郎氏が日中米のトライアングルとか、日米軍事同盟は第7艦隊だけで十分とか訳の分からんことを言っていたが国力を考えればあり得ない。この原点に立ち返って真の日米関係を築く緒に就いたことを歓迎する。もちろん日米間にあっても諸々の問題があることは承知している。それを両国が一つ一つ知恵を出し合って解決してゆくことが大事である。

日本はここのところ政治・経済・社会とも自信がないのか閉塞感が漂いさながら彷徨える国に成り下がっている。こういう危機の時代には強いリーダーの登場が望まれる。安倍氏がそのリーダーになり得るかは分からないが、日米首脳会談を無難に終え、上の講演のようなPRができたことはよかったと思う。政策演説で「日本は二級国家にはならない」とするくだりは、安倍氏が強い決意をもって日本国を牽引してゆくことを内外に示したものだ。このようにがんばる安倍氏に期待したい。

さてこの講演の草稿は誰が書いたのか?隙を突かれるような脇の甘さはなく、むしろ強かで上手くまとまっている。この作者は只者でなく大したブレーンである。同じ講演でも昨日エントリした丹羽宇一郎氏とは雲泥の差。価値観の違いと言ってしまえばそれまでだが、どちらの演説が国益を重視しているかは明らかだ。丹羽氏のほうが国益にかなうと評価する人たちは、おそらく平和ボケという病にかかっているに違いない。
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丹羽宇一郎さん

尖閣、日本から対話を=中国との共同開発提起―丹羽前大使
丹羽宇一郎前駐中国大使は19日、都内で講演し、沖縄県・尖閣諸島をめぐる中国との対立について、「(両国は)どうせ仲良くなる。夫婦(げんか)と一緒で意地を張らないで、強い方がごめんねと言う。日本が自分が強いと思えば、そういう役割を買って出たらよい」と語り、日本側から対話に向けた努力をすべきだと訴えた。 また、丹羽氏は「日本は尖閣に外交上の争いがあることを認めるべきだ」との認識を重ねて強調。その上で、「領土問題で『50対50で共同開発しましょう』と言うようなことはあるだろう。しかし、主権は譲歩しない」と述べ、尖閣の主権が日本にあることを前提に、中国が日本と対等に共同開発することを容認する立場を示した。

丹羽宇一郎氏が中国大使を退任(事実上の更迭)し帰国したらあちこち講演で忙しそうだ。上のリンクはやがて切れるので記事を載せておいた。どうも丹羽氏の言っていることが理解しかねる。こっちのアタマが可笑しいのか。いずれにしても私流に疑問に感じたことを記しておこう。

(1)日中は「どうせ仲良くなる」いずれ仲良くなるの意だが、根拠不明・意味不明である。(2)「夫婦喧嘩と一緒」って日中の関係がいつから夫婦になったのか?(3)「強いほうがごめんね」と言えという。中国は軍事大国、経済も米国に次いで第2位の経済大国。何を基準に日本が強いのかそれを聞こうじゃないか。強いから謝る、弱いから謝るとか変なことを言う。ごめんねと謝るには確たる理由がなければならない。周りを見渡しても何もないが、ごめんねとタダ言葉を発すれば済む相手か?バカバカしい。(4)「日本は尖閣に外交上の争いがある」尖閣は日本固有の領土であって、領土問題は存在しないとする歴代政府方針に反する。したがって外交上の争いがあるのではなく、中国のいちゃもん、言いがかり、不法侵入だ。他方、丹羽氏は尖閣の主権が日本にあると言っておきながら、同氏の認識は初めから後退している。つまり弱腰・負け犬の発想と言わざるを得ない。

以上リンク記事の行間からもこれだけの疑義が散見する。大使を務めた者がどうしてこんな常態に陥ったんだ?丹羽氏が耄碌したのか?私が耄碌したのか?うちのかみさんは私が耄碌したと言うのは判りきっているが、それにしても丹羽氏の言動は不可解だ。

2年余り特命全権大使として中国に赴任し完全に中国に取り込まれてしまったのか?まるで中国の駐日大使のようだ。それとも丹羽宇一郎氏は伊藤忠商事出身だから生粋の商人。あきんど稼業を優先し中国にヨイショしたのか?であれば売国奴と言われても仕方がない。あるいはルーピー鳩山同様これが持論なのか?親中派のつもりだろうが大使在任中存在感は何もなかった。上のリンクを見てみよう。wikiの記事は100%信頼性はないかもしれないが、「中らずと雖も遠からず」だ。
<おまけ>
このように書くとブログ主も最近流行りの右傾化の思想の持ち主で危険だと批判にさらされる。ハト派とか極左はどうでもいいが、彼らが筋道を立てて私を説得できる主張や持論を聞いたことがない。私のアタマが悪いゆえ、だから困っておる。
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雨水は過ぎたのに寒い冬

中庭の雪がまだ融けない 今朝はマイナス12度だった
離れの別棟側から母屋を撮影するいつもの見慣れた光景で恐縮です

今冬はこれまで何回雪が降ったのだろうか?当地(諏訪地方)は内陸性気候だから、一度雪が積もって融けないうちに立て続けに降ると根雪のようになってしまう。根雪を避けるために住民はみんなせっせと雪かきをして除雪する。暦の上では雨水も過ぎたというのに、北側の屋根の雪は30センチもある。こんなに寒くて雪の多い年は十年来記憶にない。地球温暖化なんて嘘のようだ。

きのう午後4時ころ車を走らせていると、地元ラジオ局が北国雪国の模様を伝えていた。北信濃だろうかそれとも陸奥(みちのく)の山間地のお話しだろうか?「むかしも大雪だったが楽しかった。家中、近所衆みんなで雪かきや雪下ろしをした」。「雪深く買い物はできなかったけど、お米や野菜や保存食材や食品などを蔵の中から出してきて美味しく食べた」。「長い冬の間、何一つ不自由はなかった」と。「それがいつの間にか男衆は出稼ぎで居なくなり、さらに若者は都会へ移ってしまった」。「今は年寄りだけが残った」と・・・。年寄りだけでは「雪かきも思うようにゆかないが、それでも春が来れば雪は跡形もなく融けてしまう」と・・・。そして大地が顔を出し「作物を植える」のだと・・・。

それがどうだ今は・・・。車社会、文化的な生活を送るから大雪は困る。交通インフラがずたずたに遮断されてしまう。国道や県・市道は行政が重機を使って除雪する。家の周りの通りや生活道路も雪かきする。昔だったら人が通れるほどの除雪でよかった。生活には直接影響ないのに、庭先や家の周囲を隈なく雪を取り除く。老人ほど神経質そうに、これを何度もくり返す。じっと耐え忍び自然のままに放っておけばよいものをと思う。上の北国のお年寄りのお話しのように、「冬来たりなば春遠からじ」である。


東に面した通り
フェンスの下の基礎化粧ブロクが見えないほど道路の雪を高く寄せる


東面の屋根


北面屋根は30センチを優に超える積雪 道路は雪で隠れて見えない


これも北側通りから北庭を望む
50センチ以上あり長靴を履かないと壁面に近寄れない

<参考>超高齢社会の功罪 (人口の都市集中)
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ワルター/マーラー:交響曲第1番二長調≪巨人≫

きょうは世界的な指揮者ブルーノ・ワルターの忌日(62年2月17日)。フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルターの3人を称して「三大巨匠」とか「世界三大指揮者」と呼んだ時期があった。だがいずれも20世紀前半活躍した指揮者であって、現在も適用するかは疑問である。

ワルター盤は手元に少ししかない。米コロンビア交響楽団を指揮したベートーヴェンやモーツァルトの後期交響曲、ブラームスなどを集めたのが最初である。マーラーはずっと後年CDの時代に入ってから少し集めただけだった。ワルターがマーラーの弟子と自他ともに認めているだけに演奏も決して悪くはない。であるけれども、バーンスタインが2度目の全集をドイツ・グラモフォンに残すに及んでワルターの評価は相対的に下がった。然しながら、きょうリストアップする第1番「巨人」と「大地の歌」はこれからも長く語り継がれる名演だろう。

コロンビア交響楽団は、ワルターのレコーディングのための臨時のオーケストラである。当時のLPはステレオ時代を迎えワルターのステレオ録音を多く残そうとCBSコロンビアが企画したのである。録音セッションは57年から61年の5年間に及んだといわれる。この時代ワルターはすでに80歳を超える高齢の身で嫌がる氏を説得したようだ。特に体調面が心配なので1日のワン・セッションを3時間以内にとどめることを条件としたと、オーディオ評論家の若林駿介*が語っている。
*若林氏はステレオ録音技術を習得するため58年にハリウッドへ出かけていた。そして幸運にもワルターの録音セッションの現場に立ち会うことができたという。

さて後期ロマン派のマーラーは歌曲も作っているが交響曲作家といってよい。交響曲第1番の≪巨人≫はマーラーのネーミングとされるが楽曲とは直接関係ないようだ。この第1番をかつて宇野功芳氏は「マーラーの青春の歌」と表現した。マーラーの歌曲集「さすらう若人の歌」の旋律(第2曲「朝の野を歩けば」、第4曲「恋人の青い瞳」)がところどころ*に出てくるのでこのように表現したのである。まさしく甘く美しい詩である。しかしこの演奏は生々しい派手さはなく、えも言われぬ上品な美しさである。この美しさは温厚なワルターの人柄と人間性によるものであり、優れた最大の特徴だと思う。とくに第3楽章が秀逸。
*第1楽章に第2曲、第3楽章に第4曲が挿入されている

記録をみると61年1/14,21、2/4,6の4回の録音セッション。順番は分からないが、恐らく各楽章の録音を1日ずつ費やし、計4日間かけて録音を完了したものと思われる。
PS:右上の写真はライナー・ノーツの裏表紙に載っていた晩年のワルター
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リヒター/バッハ:管弦楽組曲(全曲)BWV.1066~9

今日はドイツの指揮者、オルガン、チェンバロ奏者でバッハ演奏の第一人者カール・リヒターの忌日(1981年2月15日没)。

リヒターのバッハ作品は、4年ほど前になるが拙ブログで音楽の捧げものを取り上げている。それ以来のエントリなんだが、この日の為に数日前からバッハのリヒター盤を片っ端から聴くことにした。といっても所蔵枚数すべてを聴くことは時間的に不可能である。とりあえず上の写真のCDを抜き出した。写真は判りづらいから参考に記しておこう。ボックスは「マタイ受難曲」、「ヨハネ受難曲」、「ミサ曲ロ短調」、「クリスマス・オラトリオ」、「ブランデンブルク協奏曲」、「単品は「オルガン作品集(1)」、「カンタータ選集(7)」、「カンタータ選集(14)」、「カンタータ選集(24)」、それと標題の「管弦楽組曲全曲(2CD)でいずれもアルヒーフ・レーベル音源である。宗教音楽あり世俗音楽ありの何でもありだ。

本来はバッハ作品の最高峰にしてクラシック音楽(西洋音楽)の最高傑作マタイ受難曲をエントリすべきかもしれない。ましてやリヒター盤が20世紀クラシックのトップ・ランクに位置する超名盤である。であるから逆に恐れ多くてレビューなんか私にはできない。という訳で間に合わせにポピュラーな「管弦楽組曲」の感想を書くことにしたい。

はじめに断っておくが、バッハを聴くには「オリジナル楽器演奏でなければ意味がない」というリスナーはこれ以降本稿をスキップして頂いてかまわない。

なるほどバロック音楽はピリオド楽器全盛時代だ。例えばゲーベル&MAKの同曲演奏は全編疾走感あふれる演奏で魅力的だ。左のアマゾン(リンク貼ってある)のカスタマー・レビューも本盤(モダン楽器)は重たい演奏だとか、旧式の演奏スタイルだとか、古いバッハ解釈だとかのコメントが散見する。

いつも思うのだが、音楽鑑賞の視点をどこにおいたらいいかである。この問いは極めて難しい。音大生や音楽学部生はともかく、楽典に目を通したことがほとんどない我々がこういう議論をすると三者三様の答えが返ってくる。そうすると音楽とは?音楽の定義から始めなければならない。wikiによれば3要素(リズム・メロディ・ハーモニー)を持つものが音楽とされる。いや音楽とは音そのものである。それでは音とは何か?空気の振動なんだが、高さ・強さ・音色である。つまり音楽とは、「音を媒体とした時間芸術」である。

他方、音楽の三方面がある。作曲(者)、演奏(者)、鑑賞(者)の三者である。作曲家は音楽の創作者であり演奏家は楽譜をみて音を出す行為者である。左の二つは芸術家である。鑑賞者は左の二つの他者が創造した音楽芸術を聴くだけだ。このように考えると、芸術家(作曲家・演奏家)と鑑賞者の関係性は対話によって相互作用しているものと思われる。つまりそれぞれの存在が互いに影響を及ぼしていると考えられる。前者は音楽という時間芸術の美を追求し、後者はその芸術を受け入れ感動する

こうして上で述べたことを認識すると、我々リスナーは楽曲の形式とかその時代の作曲(者)の意図とか背景とか、演奏のテクニカルな部分とか、ある程度鑑賞眼を養っておく必要がある。もとより音楽を聴いて何を感じるか、どんな評価をするかは受け手である鑑賞者の主観による。各々人生観や生き様が違うように音楽観が異なるのは当然である。そこで先ほど「美の追求」と述べた。いま適切な言葉が思い浮かばないが、美を究めた作品は敬虔な祈りにも似た深い精神性に到達する。そうして受け手は幾重にも感動が満ちあふれてくる。こういう音楽が私の言う最高の作品である。リヒター演奏を耳にすると、本物の音楽に出会えたと確信する。

本盤のレビューを簡単にしておこう。秀逸は組曲第2番ロ短調だ。冒頭のフランス風序曲は何とも優雅な主題を颯爽とアンサンブルが奏でる。中間部に入りオーレル・ニコレ(フルート)*が登場する。ここからは事実上フルート協奏曲で胸がこみ上げてくる。
*ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席フルート奏者(56~59年)

もう1曲第3番二長調も挙げておこう。管弦楽組曲といえば有名なエール(G線上のアリア)を聴かねばならないだろう。この楽章は5′40″の演奏で美しい旋律をリピート・ボタンを押して繰り返し聴きましょう。

ここまでお読み頂き有難うございます。今日はこのくらいにしておきましょう。
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ギュンター・ヴァント/ザ・ラスト・レコーディング

きょうは世界的な指揮者ギュンター・ヴァントの命日(02年2月14日没)である。ヴァントはブルックナー弾きで知られる。ケルン放送O、北ドイツ放送SO、晩年はベルリンPOを客演指揮し数えきれないほどのアルバムを残した。

私もブルックナーが好きで、ヴァントのみならず数々の指揮者の作品を集める。ヴァントに関していえば、ケルン盤以外はたいがい所蔵している。ブルックナー演奏の最高傑作はと問えば、ブルックナー好きのリスナーはいろいろ答える。ネット上のアマチュアも音楽雑誌に寄せるプロの評論家もだ。レビュアの好みか楽曲へのこだわりなのか、いろいろ綯交ぜになって論評する。ヴァントのアルバムは駄作がなく極めて上質な作品に仕上がって甲乙つけ難いからだと思われる。その点、同じブルックナー弾きで、しかも同じ多作の朝比奈隆のほうが出来不出来が激しい。

私が評価するディスクはBPOをはじめて振った95年の交響曲第5番変ロ長調をまずあげる。次いで01年1月録音の第8番ハ短調で同じくベルリン・フィル盤。この2枚で決まりと思っていた。ところがなんとその後たったの9か月後、またまた飛び切り上等の追悼盤(左リンク)が発売されてしまったのだ。ヴァントが手塩にかけた北ドイツ放送交響楽団とのコラボレーションは交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」(01年10月録音)だった。文字どおりラスト・レコーディングで神々しいばかりの白鳥の歌である。第4番はポピュラー過ぎて正直あまり好きじゃないけど、これを加えて以上3枚がヴァントの最高傑作と言っておこう。

右上の写真はヴォルフガング・ザイフェルトがスイス、ウルミツのヴァント宅を訪ねインタヴューしたときのもの。上品なアニータ夫人と一緒で仲むつまじく、そっと肩へ手を添えられている。この対談から2か月半後に他界。そんな訳でこの写真はありし日のヴァントを偲ぶよすがとしたいと思いここに紹介する。上のアルバムのブックレットからスキャン。
PS:本盤について・・・
これらの録音をアニータ・ヴァントに捧げる
NDRおよびBMGより感謝を込めて

NDR:北ドイツ放送交響楽団。BMG:レコード出版会社(メジャー・レーベルの一つ)
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倹約とケチ (その七)

「倹約とケチ」篇が今日で7回目のエントリになる。景気低迷下、世知辛い節約志向の時代ゆえ人気シリーズになるかと期待したが、結果は失敗に終わった。

ブログを解析するとコンスタントにそこそこアクセスはあるが、従前よりもPV・IPとも落ちている。テキストの要点がずれているのか、あるいは内容が平凡で新奇性が無いのか、それともみんな節約疲れで時宜に叶っていないのか?まぁ原因はこんなところだろう。であればこのシリーズを早いところ閉じなければならない。

本題に入ろう。「倹約」とは前にも書いたが、物や金銭を無駄遣いしないことである。浪費しないことである。なぜ浪費するかというと、身分の上下に関係なく有り余る収入があるからだ。当然必要以上にカネがあれば、コト的であろうがモノ的であろうが消費するのが一般的だ。例外的に全額を預貯金に回す人もいるだろうが、それは他の目的があるか単なるケチである。とくに後者はカネを貯めることが趣味か道楽になっている可能性がある。みんな後者だと日本経済は沈没する。「お金は天下の回りもの」だから一か所に滞留しているのは困る。

買い物をして無駄遣いって何だろうと反芻してみる。無駄遣いの解釈は人によりまちまちである。それに同一人物であっても、時代の移り変わりや年代によっても解釈が異なる。代金とは品物の買い手が売り手に支払う金であり代価ともいう。価格はその品物の価値(効用)を貨幣で表わしたものであるが、その商品が高いか安いかは買い手の価値判断による。品物に有用な価値がないと思っていたのに、友達が買ったから右に倣えすれば無駄遣いだ。いや当初は安いと思って買ったとしても、ほとんどその商品を使わなかったのであれば、高い買い物をしたことになる。お宅の家の中で殆ど使わず眠っている商品をリストアップすれば分かり易い。無駄遣い=浪費だったかどうかは一目瞭然だ。

恥を忍んで私の過去の無駄遣いの例を一、二挙げる。現役時代約40万円もするカシミヤの黒のオーバー・コートを買った。東京勤務時代は満員電車で生地が擦り切れるので、バーバリーの定番コットン・コートで過ごした。田舎に転勤したらマイカー通勤になった。なので厚手のロング・コートは不用。あれやこれやでカシミヤ・コートに袖を通したのは一冬2,3度だけだった。冬が過ぎるとクリーニングに出さなければならない。着ている日数よりもクリーニング屋さんに預ける日数のほうが多かった笑い話である。仕事柄ネクタイも毎日替えるからベラボーな本数になる。しかもいずれも輸入物で高額。ところが毎日取り替えてゆくうちに、同じ色や柄物もストライプも好みが一部のネクタイに偏る。必然使わないネクタイが洋服タンスに埋もれる。

さて右上の写真を説明する。一時期コレクションした腕時計の一部。真ん中がロレックスのDATEJUST定番アイテム(一時代前のアンティーク)。右がテクノスのMOSABA音叉時計。左がシチズンのEco-Drive。こちらは開店創業の客寄せ玉で7~8,000円位だった。デザインは可もなし不可もなしで電池不用時刻誤差もないお買い得品。右側の二つは時計の機能としてもブレスレットのアクセサリー的にも価格に不釣り合いのムダそのもの。自己満足にもならないぜいたく品で洋服タンスの引き出しに眠っている。

新婚まもない帰省したときだ。日常生活はできるだけ質素を旨とせよと、田舎にいる今は亡き父から説教される。慎ましい生活に徹せよというよりも質実剛健たれ。飾り気のない生活を送れという意味に解釈した。社会人になるまで何一つ不自由な生活を送ることはなかった。あれが欲しいこれが欲しいと言えば、二回に一度は買ってくれた。寡黙な父は極めて質素だったがケチではなかった。お金の有難味を知っており、使うべきところへは惜しまずドンと使う。子ども心にお金がどこにあるのか不思議に思ったものである。このように昔を偲ぶと、上のくだりといい、父の言いつけを忠実に守ったか自信がない。

だが人はだれもが失敗と成功を繰り返し、そこから学び、改善してゆくのではないか。
「倹約とケチ」シリーズ(完)
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バッハ/ヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ全集

一時クラシック音楽のCD蒐集にのめり込んだことがある。会社の後輩の影響である。彼は現在中国の現地法人に勤めている有能な社員だ。会社の昼の休憩時間に彼と音楽談義をしていたのが発端だった。

程なくして2度目の東京勤務になり、ある週末訪問先から中央本線八王子駅に乗り継ぎ、諏訪に帰省するときのことである。次の特急の発車時刻まで多少間があったので駅ビルのレコード・ショップに立ち寄った。店内を物色しながら、店長に「バッハを聴くならどの作品から集めればよいか」と聞く。「管弦楽組曲やブランデンブルク協奏曲、あるいはヴァイオリン協奏曲から入ったらどうか」とアドバイスを受けた。指摘の楽曲はすでに相当の枚数を集めてあったので「ふむふむ」と頷いたのち、無伴奏チェロ組曲(全曲)は誰の演奏がいいかと質した。件の店長いろいろ能書きを言っていたが、「シュタルケル(vc)がいいですよ」と薦められた。

なぜこんな前書きをだらだら書いたかというと、このシュタルケル盤にヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ(BWV1028,29)がカップリングされていた。ただこちらはモダン楽器によるチェロとピアノのデュオ演奏だったが、軽快なメロディが印象に残ったので、アンナー・ビルスマ盤や本盤やら、いろいろ同曲異音を集めたのである。

さてその本盤(左ジャケット/リンク)はヴィーラント・クイケン(ガンバ)とグスタフ・レオンハルト(チェンバロ)による74年録音。曲順はオーソドックスに、ソナタ第1番ト長調BWV1027、ソナタ第2番二長調BWV1028、ソナタ第3番ト短調BWV1029の総演奏時間46:24の力演。

ラインナップ中、とりわけ第3番BWV1029は他の2曲と異なり<急-緩-急>の三楽章構成からなる。ブランデンブルク協奏曲の主題がところどころ現れる。とくに終楽章はスケールが大きく、豪快な演奏でエンディングを迎える。3曲聴くのが長時間で耐えられないなら、筆者お気に入りの第3番(演奏時間16分12秒)をお奨めする。

PS:右上の写真はアルバムのリーフ・レット裏表紙に載っている写真。左がレオンハルト、右がヴィーラント・クイケン。レオンハルトは昨年1月16日数え年84歳で他界。先月没後一周忌だった。
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