諏訪地方の人口減少問題

地元紙きょうの朝刊

人口減少は当諏訪地方だけではない。すべての地方が減少している。この原因は誰もが知っている。一つは出生率の減少(少子化)であり、二つは地方から大都市圏への若者の人口移動いわゆる都市集中である。三つはグローバル経済により大半の企業が新興国へ進出し、地方の雇用機会が失せたことだ。辛うじて本社機能だけが残っている。

地方の空洞化を解消する道は極めて限られている。上述の少子化は家族間や夫婦間の価値観の変容で避けられない社会現象である。子育て支援が充実しても少子化が解消されるわけではない。また都市集中は古今東西からあり、今に始まったことではない。唯一対策が可能とすれば、上の三つ目の働く機会をいかに創出するかにある。魅力的な働く場所が地方にあれば一部の若者は回帰する。然しながらこれとて抜本的な人口増対策にはならない。たんなる一地方の転出減・転入増の社会的要因増であって、地方間あるいは大都市から地方への生産年齢人口の奪い合いに過ぎない。


こちらの新聞記事も今朝の地元紙

下諏訪町はかつて精密メッカの地だった。スピードスケートの五輪選手を数多く産んだ三協精機(現日本電産サンキョー)とカメラのヤシカ(現京セラ)が二大企業だった。両社だけで労働者はピーク時3,500人を遥かに超えていた。この2社に関係する中小外注企業群や下請工場の労働者とその家族を加えると大変な人口だった。いずれも過去形の話しだ。下諏訪町がたまさか町長選を迎えている。この新聞記事で課題を探る特集を始めた。きょうは人口減少に定住移住促進の事例が載っている。山紫水明のこの地に終の棲家を求めて老後を送る夫婦が移住して来るのは歓迎するしそれは有難い。だが地方の経済活性化にどれだけ寄与するかはたかが知れている。

経済力の有無は人口そのもので人口が原単位だ。シニア世帯の誘致もいいが地方自治体の首長はもっと大きいことを政策に掲げる必要がある。この場合、狭い諏訪の地に6市町村がひしめき合うのでなく、合併を促進し限られた自治体の予算を効率的に資源配分すべきである。企業誘致による社会的人口増を図るなら、立地のいいところへ工業団地を醸成し進出企業には減免措置・優遇税制等を導入し取り込む。これもできないのであれば何もしないほうがいい。ところがカネもないのに街並みを再開発するとか、中心市街地を活性化するとかいうのである。人が集まれば街は自動的に賑わうのである。
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開山忌

先日拙家の菩提寺である曹洞宗少林山頼岳寺の開山忌に参列した。3月26日の逮夜諷経(たいやふぎん)と3月27日(祥月命日)の正當諷経である。頼岳寺の開創は寛永8年(1631)で開山(初代住職)は群馬県雙林寺十三世大通関徹、開基は諏訪高島藩初代藩主の諏訪頼水である。この日は法類寺院住職が多数登院され厳かな法要が営まれた。

さて儀式の詳細は省いて当寺院の画像の一部を次に紹介したい。


のぼり勾配の参道 
途中から石段を登ると山門がある 枯れ葉ひとつ落ちていない


山門に掲げられている扁額
鵞湖禅林 「鵞湖」は諏訪湖の意でこの寺から一望できる


本堂外観
山門をくぐると壮大な本堂が眼前に飛び込んでくる


庫裡 (右前方)


本堂にある扁額
従一位源(久我)通久・こがみちつね


仏壇


本堂にある扁額
立一塵 中村不折


本堂にある扁額
無刀痕 中村不折著*

*中村不折に興味のある方は新宿中村屋のウェブサイトもご覧ください。不折にとって諏訪はゆかりの地でもあります。
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自己の探求

中村元は仏教学者で原始仏教やインド哲学に造詣が深いことは知っていたが、中村の書物を読んだことはなかった。たまさか地元の本屋の哲学や思想書の棚に積まれていた「自己の探求」(右の本でアマゾンのリンクを貼ってある)を何気に買った。興味があったというよりも、タイトルがおもしろそうだったからである。

そもそも「自己」とは何か?簡単に言えば「おのれ」であり「自分」であり「自身」のことであり、ずばり熟語のとおりである。この本のはしがきに中村元は次のように書いている。「自分自身はどのように生きたら良いのであろうか? この問題は、なにぴとにとっても差し迫っていることがらである。そうして、いかなる人も、最後には自分自身で決定を下さねばならぬのである。この問題に対してわたくしなりに試みた答えが、この『自己の探求』という書である。」

つまり「己の生き方を探し求める」この言葉に釣られて衝動買いしたのである。ところがインド哲学や西洋哲学、あるいは日本仏教などや思想界の文献を引用しながら解説を試みている。とくにプラトンやアリストテレスからはじまって西洋哲学とインド哲学のオンパレードである。しかもそれが頁の大半を割いている。私の読解力不足に起因するものか分からないが、ほとんど参考にならなかった。あえて付記すれば頁の最終章(運命)にわずかばかり著者の思想が描かれている。という訳で一晩で読了してしまった。

それにくらべるとデカルトの「方法序説」のほうが昔読んだときの驚きは忘れられない。私は名著といわれる書物を何度も読み返すことはしない。時代背景がデカルトの思想を決定づけたことは間違いないが何度読み直してもそのたびに新鮮なものを感じる。古典を読むときは訳者の影響もあるかもしれない。

それにしても哲学書を読むのは難解で退屈である。カントをはじめとするドイツ観念論は理窟っぽいが、これを機会に暇つぶしに読み返すのも楽しいかもしれない。だけどそんなことに時間を費やす読み人はおそらく稀であろう。
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謹賀新年


   




皆さまのご健勝をお祈りいたします
本年もよろしくお願いいたします

平成27年元旦

閑話ノート
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寺町めぐり(貞松院その二)

浄土宗貞松院(本尊阿弥陀如来)を見学しての感想であるが、ひと言で語ると仏教芸術は素晴らしいということだ。決して偶像そのものを崇めるのではないが、仏像にしろ絵画にしろ宗教という深遠な世界で作家の手掛ける全てのものが作品に凝縮されている。ピカソなどの絵画に見られる抽象芸術とは対極にある日本の芸術であり文化である。

京都や奈良に多くの国宝や国宝級の仏教作品があることは承知している。だがこのように地方にも埋もれているのである。仏教伝来以降、神仏習合(神仏混淆)として幾多の変遷を経て、日本の隅々にまで独自の信仰体系が成立していったといえるだろう。これらの作品に接すると仏教の世界観が目前に迫ってくるような不思議な体感であった。


貞松院殿*の位牌
*諏訪高島藩、初代藩主諏訪頼水の正室で本多康重の長女
その向かって右側に松平忠輝の位牌が安置されている 位牌の大きさは貞松院より小さい


厨子に納められている毘沙門天 鎌倉時代の作で伝・湛慶


不動明王 作者は同じく湛慶と伝えられる
隣り(写真は上)の毘沙門天と同じヒノキ材による寄せ木造り
毘沙門天・不動明王は阿弥陀如来の脇侍だが、なぜか本堂右脇壇位牌室に安置されていた


高砂図 一軸 
江戸時代 作者は冷泉為恭(れいぜいためちか)


十王図 二軸
江戸時代 作者不詳 この日は特別に本堂左に飾ってあった

見物者がとても多く、うまく撮影できなかった。そのほかにも重文級の展示品がいくつもあったが、混雑していてカメラを向けることができなかった。
寺町めぐり(続く)
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寺町めぐり(貞松院その一)

先日、諏訪市仏教会主催による夏季仏教講座があり参加しました。当仏教会は諏訪市内の24の寺院からなり異なる宗派の寺院の集まりです。当日は南沢道路(通称寺町通り)に面する三つの寺院(貞松院・法光寺・正願寺)を見学し、メイン会場の正願寺本堂にて講演がありました。その模様と感想を写真を交えてごく簡単にご紹介させて頂きます。

きょうはその一として迎冬山貞松院月仙寺です。諏訪では貞松院と呼んでいます。宗派は浄土宗で開基は諏訪高島藩初代藩主諏訪頼水公です。開創当時は慈雲院と称していましたが、頼水公夫人の没後、現在の貞松院に改称されました。貞松院は同夫人の院殿号であり、当院中興開基とされます。

なお、蛇足ながら諏訪頼水公の廟所は私の菩提寺である頼岳寺にあります。拙ブログで過去何度もこのページに登場しております。興味のある方は左サイド・バーの下方の検索の窓で頼岳寺と入力されますとヒットします。

さて貞松院は一般的には松平忠輝(徳川家康六男)の廟所として知られています。忠輝の兄秀忠公(徳川二代将軍)に改易され、この諏訪の地に配流されました。幽閉先の諏訪高島城にて没しています。享年92歳といわれますから当時としては長命だったといえましょう。流罪の身とはいえ家康公の御子として諏訪高島藩が丁重に扱ったことが伺えます。57年ものあいだ諏訪の地で暮らしたのですから。


諏訪市仏教会のパンフレットより
寺町通り界隈 こんな狭い地域に数えたら7つもお寺がある


山門 ここから境内に入る
道路は旧甲州街道(国道20号線と平行に走っている)


本堂 瓦屋根が優美


松平忠輝の石碑 墓石は境内の別のところにある(上のリンク参照)


松平忠輝の遺品(書見台)


本堂に隣接する庫裡の廊下
特徴は畳敷き、幅が広い、鴨居の高さが低いの3点
外からは長槍でも部屋に届かない設計と間取り この奥左に上段の間がある
徳川幕府所縁の武士が宿泊するので賊の襲撃を避けるねらいといわれている

寺町めぐり(続く)
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河合曾良の事ども (芭蕉との別れ)

あのおくのほそ道の旅から5年が経っていた。芭蕉は元禄7年(1694)江戸を旅立ち、伊賀上野(三重県伊賀市)へ向かう。伊賀上野は芭蕉の郷里である。このとき曾良は箱根まで見送りに出かけている。箱根迄送りて「ふつと出て 関より帰る 五月雨」曾良の句である。

この旅の道中、芭蕉は曾良宛に3通書状を送っている。最初は島田宿からの書簡。次いで膳所からの書簡。最後は芭蕉門人京都の去来宅からの書簡である。江戸深川芭蕉庵の留守を預かる曾良の存在感が伝わってくる芭蕉の私信である。

運命は皮肉である。箱根の関の二人の別れが師弟の今生の別れになる。というのはこの先、芭蕉は大阪で息を引き取る。芭蕉51歳、曾良46歳の年だった。亡骸は義仲寺(滋賀県大津市にある木曾義仲の墓所)に葬られた。wikiによると、焼香に駆けつけた門人80名、会葬者300余名と伝えられる。曾良は葬儀に参列していない。江戸で門弟の杉風(さんぷう)、野坡(やば)らと芭蕉供養句会を開いている。曾良の句「むせぶとも 芦の枯葉の 燃しさり」である。何とも切ない悲句である。

この年、神道の師である吉川惟足も死去する。元禄7年曾良は期せずして二人の師を失うことになったのである。これ以降、しばらくの間、曾良の足跡は明らかでない。記録がないのである。後に聞き書きを記したものに、「翁物故の後はしばらく俳諧にも遊ばず」とある。上記の句といいこの時代悲嘆に暮れていたのは想像に難くない。

これより歴史は下って元禄15年(1702)、芭蕉を偲ぶ旅に出る。初めて義仲寺を墓参し、芭蕉の更科紀行をなぞるように更科も行脚している。曾良にとって芭蕉翁の存在が如何に大きかったかうかがい知ることができるのである。

「河合曾良の事ども」編<続く>
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河合曾良の事ども (近畿への旅)

おくのほそ道の行脚を終えると、芭蕉は元禄3年、膳所(ぜぜ)の義仲寺(ぎちゅうじ)*を経由し上洛する。ほどなくして(元禄4年3月)曾良も師を追うように江戸を出立し近畿への旅に出る。これが曾良旅日記の帳面に書かれている元禄四年日記(近畿巡遊日記ともいう)である。
* もともとは木曾義仲の墓所であるが、芭蕉の遺言によりここに葬られている。

右の画像山本安三郎編著昭和18年7月13日発行の翻刻本で約5か月におよぶ近畿への旅の模様が書かれている。古本屋に僅かばかり現存するようだが、私は確認できていない。

近畿巡遊は名所旧跡や神社仏閣を訪れている。吉野(奈良県)・高野山・熊野・和歌浦(以上和歌山県)・大阪・須磨・明石(以上兵庫県)などを巡り、京都滞在中の芭蕉のところへ向かう。当時芭蕉は句集「猿蓑」を監修中でその手伝いに上洛したとする説が有力である。

そうであれば、江戸から京都へ直行すればよい。なぜ寄り道したのか?なぜ畿内*をくまなく一人旅しなければならなかったのか?左の地図を見ると生半可な旅程ではない。なぜ近畿巡遊の記録・覚書を残したのか?単なる観光見物としてはこと細かすぎるとも思われる。その目的は何だったのかと考えると謎である。

京都の滞在期間は2か月でその後伊勢長島へ戻り、逗留したところで近畿巡遊日記は終わっている。
* 左上の図は畿内の地図で赤線が京都滞在前、青線が京都滞在後の行程

河合曾良の事ども」編<続く>
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河合曾良の事ども (諸国巡見使)


おくのほそ道行程図(赤線) 出典:芭蕉と伊賀

河合曾良の事ども」シリーズは本稿で十本目のエントリになる。だらだら書くのはいい加減にして、間もなく完結させたい。芭蕉のおくのほそ道*は、日本の近世文学史上屈指の作品であり、紀行文中の最高傑作であることは万人が認めるところである。これに花を添えたのが随伴の曾良が遺した曾良旅日記である。このリンク先にも「奥州行脚の史実を正確に伝え、芭蕉の俳文を解明する根本資料として重要である」とある。曾良旅日記には俳諧書留も載っており、第一級の史料であことは論を待たない。拙ブログの前稿でほんの一部の章を紹介したので興味のある方はご覧ください。
* おくのほそ道の中の秀句で且つ私のお気に入りの句は本編の最終稿で掲載したい。

おくのほそ道は歌枕(名所旧跡)を訪ねての旅である。曾良は旅に先立ち巡歴予定の歌枕を調査*している。曾良旅日記の前半に「神名帳抄録」と「歌枕覚書」が載っている。曾良は俳人ではあるが、地理・歴史に明るかったことが数多い門弟の中で芭蕉の随伴に抜擢されたと考えられる。道案内人でありツアーガイドの役目を果たしたといえよう。
* 延喜式神名帳より調査している。

しかしながら旅先での曾良の行動は、芭蕉に随行する以外の目的や任務があったのではないかとする説がある。穏やかでないのは、少数派だが、曾良隠密説であるばかりか、芭蕉隠密説までネットに飛び出してくるありさまだ。なるほど、おくのほそ道の研究が進んでいるとはいえ、今も解明できない謎の部分があるのは事実だ。

例えば旅の行程の長さに驚かされる。約600里(2400Km)の距離を約150日間の日数で走破してしまう。そしてまた、これだけの大旅行の旅費をどう工面したのか?寂び侘びの生活をしていた芭蕉にそんな大金があったのか?芭蕉庵を手放し旅費に充てたとする説もある。名士からの多額の餞別もあったかも知れない。仮に旅費を賄えたとしてもその大金をどのように携帯したのか?付き人や警備の者もいない二人だけの旅だ。道中追い剥ぎに遭っても不思議でない。着ている物も武士のように頑丈なものではなく質素な服装が描かれている。曾良は法衣である。曾良旅日記には托鉢に出ているところが記されている。「一 十九日 快晴。予、托ニ出ル。朝飯後、図書家来角左衛門ヲ黒羽ヘ戻ス。」とある。

そこで曾良の略年譜を次のようにあらためて整理してみる。上述の不可解な部分の謎解きをしてみようという訳である。(笑)


略年表から私が注目する事柄は次の五つである。(1)寛文7年、徳川幕府による諸国巡検使の制度がほぼ確立したこと。(2)その翌年寛文8年、曾良が伊勢長島の大智院滞在時、長島藩へ仕官したこと。書記のような仕事に就いたといわれる。(3)天和元年、曾良江戸へ出立し吉川惟足に入門、神道を学んでいること。(4)宝永6年、幕府派遣の諸国巡検使の用人に任命されていること。(5)巡検使(用人)任務中客死している。

さてまとめに入る。以上注目した上の五つは歴とした証拠にはならないが、おくのほそ道の曾良は幕府の密使とか隠密ではない。ましてや芭蕉は歌枕を旅する俳諧師だ。曾良の任務は芭蕉の世話をしながら、陸奥方面への諸国巡検使の事前視察と考えられる。上のリンク先を見ても分かるように、歴史は下って天保7年(1836)の巡検使の動向によれば、巡検正使を使番、副使を小姓組・書院番より選び、編成している。供人数は40名程度を召し連れ、内、用人2名、給人2名、侍7名、徒歩5名、足軽中間又者が24名と書いてある。曾良は芭蕉亡きあと幕府派遣の巡検使の用人にまで出世したのである。従っておくのほそ道行脚は、その下積み生活だったと思料できる。このように考えると、先に述べた謎はすべて氷解するのである。

「河合曾良の事ども」編<続く>
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河合曾良の事ども (曾良旅日記)


奥州行脚出立日の記録(天理図書館 綿屋文庫 所蔵)

巳三月廿日、同出、深川出船。巳の下尅、千住ニ揚ル。一 廿七日夜、カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余。一 廿八日、マヽダニ泊ル。カスカベヨリ九里。前夜ヨリ雨降ル。辰上尅止*1ニ依テ宿出。間モナク降ル。午ノ下尅止。此日栗橋ノ関所通ル。手形モ断モ不レ入*2。一 廿九日、辰ノ上尅マヽダヲ出。一 小山ヘ一リ半、
*1 「暫」の字を消してある。 *2 手形も断(ことわり)もいらず。

上の画像は曾良旅日記(曾良自筆本)の本文書き始めの章である。「奥の細道随行日記」とか「元禄二年日記」などとも呼ばれる。もともと底本に表題がないことから、後年このように呼ばれたのである。今風にいえば旅のメモである。画像下の青字の行は萩原恭男翻刻による画像の頁部分を私が抜書きした。読み易いと思う。

この頁(青字の行)は、日付、時刻、天候、行脚距離、行程とその距離、宿泊地などが記されている。時刻が克明に記されていることに特徴がある。曾良旅日記はおくのほそ道本文の読解や研究に貴重な史料とされる。しかしここまで執拗なまでに時刻等にこだわり記録するのは、曾良の几帳面さだけでなく何か他の目的を暗示するかのようである。

もう一か所紹介しよう。おくのほそ道本文の「塩竈、松島」の章である。
五月八日 朝之内小雨ス。巳ノ尅ヨリ晴ル。仙台ヲ立。十符菅・壺碑ヲ見ル。未ノ尅、塩竈ニ着、湯漬など喰。末ノ松山・興井・野田玉川・おもはくの橋・浮島等ヲ見廻リ帰。出初ニ塩竈ノかまを見ル。宿、治兵へ。法蓮寺門前、加衛門状添。銭湯有ニ入。一 九日 快晴。辰ノ尅、塩竈明神ヲ拝。帰テ出船。千賀ノ浦・籬島・都島等所々見テ、午ノ尅松島ニ着船。茶ナド呑テ瑞岩寺詣、不レ残見物。開山、法身和尚(真壁平四良)。中興、雲居。法身ノ最明寺殿レ宿岩窟有。無相禅窟ト額有。ソレヨリ雄島(所ニハ御島ト書)所々ヲ見ル(とみ山モ見ユル)御島、雲居ノ坐禅堂有。ソノ南ニ寧一山ノ碑之文有。北ニ庵有。道心者住ス。帰テ後、八幡社・五太堂ヲ見。慈覚ノ作。松島ニ泊ス。久之助ト云。加衛門状添。

塩釜と松島の見物先を克明に書いてある。日付、時刻だけではない。ぶらりと見回るところと神社仏閣を使い分けている。神社は拝す、寺は詣でるなどである。また謂れや由緒も記されている。銭湯に入った話も、湯漬けを喰う描写もありおもしろい。

くり返すが、覚書とはいえ詳細に書かれているところが曾良旅日記の特徴であり、不思議なところである。
「河合曾良の事ども」編<続く>
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