西部劇と懐かしのカントリー&ウェスタン日記

現代とはかけ離れたOld Countryの世界ですがずっと続けていきます。興味のある方は時々のぞいてみて下さい。

本 “ 島津奔る" 下巻読み終えた ②

2023年12月04日 | 九州のおもしろ歴史

本 “ 島津奔る " 下巻を読み終えた ②

下巻では関ヶ原の合戦での薩摩 島津氏の動きをあつかっている。天下分け目の大合戦と解っていながらたった1500人程の軍勢しかない島津義弘軍。国元にもしきりに増援の要請をするが兄義久からは送れない…のひとこと。義弘の苦境を知った家臣達が組織的ではなくてそれこそバラバラに長駆 関ヶ原まで馳せ参じる…といった具合。鹿児島から琵琶湖近くの関ヶ原まで…驚きの距離だ🤣 

関ヶ原の合戦というのはそこに至るまでの武将間の根回し駆け引きがあり、生き残りを賭けた戦(いくさ)だったことをこの本で知ることができた。島津義弘は20歳の時から66歳(関ヶ原の合戦の時点で)まで合戦に明け暮れた人生であり、しかも負けたことがないという歴戦の戦国武将であったが、初めて敗戦を知る戦(いくさ)となった。 

島津らしいのは後ろに逃げるのではなく、正面の徳川家康の本陣を突破して退去するという破天荒なことをやったこと……後世に ” 島津の退き口 "  といわれて語り草になった。

甥の島津豊久 ( 日向佐土原藩主 ) を失ない、重臣の長寿院盛淳ほか数多の家臣達を失ないながらも逃げ切って大坂近辺から船で九州細島 ( 日向の ) にたどり着いている。そこからは陸路で霧島越えで鹿児島に帰郷したという……大変な苦労をした帰還であったことがわかります。

義弘は交渉して大坂城に人質として在城していた自らの室と息子 島津忠恒の正室亀寿のほか日向高鍋藩秋月種長 室まで連れ帰っている。秋月氏は秀吉の九州征伐の時に唯一島津方に味方した盟友であったからそんなことも頭にあったのかも知れないです。 

鹿児島では生き残って帰還した者が関ヶ原での敗戦での悔しさを口伝の形で後進の若者たちに伝えていったといわれています 

2023年10月31日の記事でしばらくしたら元に戻す予定

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 秋の夜長にカントリー&ウェ... | トップ | カントリーのレコードに出逢... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

九州のおもしろ歴史」カテゴリの最新記事