西部劇と懐かしのカントリー&ウェスタン日記

現代とはかけ離れたOld Countryの世界ですがずっと続けていきます。興味のある方は時々のぞいてみて下さい。

肥後 宇土城を訪ねて

2017年04月12日 | 歴史はロマン…九州の歴史を中心に
 
肥後 宇土城を訪ねて ・・・・キリシタン大名小西行長の哀れ 
熊本市から鹿児島の方へ鹿児島本線を下って普通列車の各駅停車なら5つ目の駅が宇土市だ。そこは戦国時代にはキリシタン大名の小西行長(~)の城下町だったところ。 休日を利用して1日小西行長の宇土城を訪ねた・・・・以前からぜひ行ってみたい城跡だった。 
戦国時代には熊本の加藤清正と並んで肥後一国を北と南で分け合って君臨した2大大名だった二人、天下分け目の関ヶ原の合戦でたもとを分かち、徳川方についた加藤清正は生き残り 豊臣方についた小西行長は敗れて没落した。本来は二人とも豊臣秀吉の子飼いの武将だったのに・・・・である。よく加藤清正は武断派、小西行長は文治派と表現されることが多い・・・・でも私はそんなに簡単には決められないのではと思っている。 没落していった者には正当な記録が残らないから勝者による死人に口なし的な記録しか残らないのだと思う。宇土城を訪ねて本丸跡にポツンと立っている小西行長の銅像を見ていると歴史好きの私のような人間には この人は正当な評価を受けているのだろうかと とてもあわれさを感じた。  
記録を見ると小西行長は秀吉の野望である朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に2度とも参加して先方を務めて加藤清正にひけをとらない活躍をしている。 秀吉亡き後も徹底して豊臣方についている信義に篤い武将であったのではないかな・・・・という気がしている。熊本城の繁栄をみるにつけ、距離的に近い宇土城のひっそりとしたたたずまいはかえって古城としての味わいがあって私は好きだ。 
    
さて、何の変哲もない宇土駅を降りたものの観光案内所らしいものは何にもなくてただ市内案内の地図看板があるだけだった(宇土駅というのは昔は田んぼの中の淋しい駅だったんではないかなあ)。 江戸時代には熊本の細川氏53万石の支藩として宇土藩3万石の城下町としてちょっとは栄えたはずなんですが、残念ながら城下町としての面影はほぼ皆無で、活気のない通過町という感じです。駅からずっと歩いていくと運河のような小川に出て石作りの眼鏡橋があり散策していると武家屋敷らしい家が一軒ありました。熊本地震で橋の欄干が壊れたようで渡ることはできませんでしたが、この辺りは電信柱や車がなければちょっと江戸時代の風情がある雰囲気でした。 
  
さらに行くと宇土市の中心街に出ますが、大きなビルのような建物はないのでのっぺらとした町という印象です。宇土高校のグランドに出くわし、通りがかりのお年寄りに ” 小西行長の銅像はどこにあるんですか ” と尋ねると ” そこの畑の横の細い道を行けばグランドの裏に城跡があるけんそこにあるよ ” とのこと。 20m行くと林の中に忽然と石垣が見えてきました・・・・”ああ、ここが小西行長の宇土城かぁ ”と。 小高い山に石垣があって小さな空堀になっている・・・・・
熊本城の規模に比ぶべくもなく石垣も小さいが、宇土城の説明版があったので見てみると本来はもっと大きな城であったらしく、石垣も地中に埋もれていて今の倍以上の高さはあるとのことでした。はじめに目にした宇土城の石垣。
   
関が原の戦いには何故か加藤清正自身は出陣していません・・・なぜなのか不思議。出陣した小西行長は敗れて捕らえられ、京都の六条河原で石田三成、安国寺恵瓊らと共に斬首されます。

関が原に出陣して留守になった小西行長の宇土城を加藤清正が攻め落とします・・・・・もとは同僚だった清正も決していい気持ちではなかったのではないかなあ。でもそんな中、清正のえらいところは敗れて降伏した小西行長の家臣達の多くを自らの家臣として召し抱えたという話があることです。実際熊本には元小西行長の家臣たちが住んだという宇土小路という地区があるんだそうです。
   
ところで、上の写真「戦国廃城紀行」という本に宇土城が載っています。この本の作家 澤宮 優さんは宇土の出身だそうで宇土高校時代に宇土城には何度も行ったとのこと ”三十年前まではやぶに包まれた荒れ果てた小山だった ” そうです、元和の「 一国一城令 」で壊され、島原の乱でも関連付けられて壊された小西行長の宇土城は以後廃城となって忘れ去られた・・・・だから今の石垣は発掘された後とのこと・・・・それに、地元出身でないと解らないような事も書かれています・・・・・曰く「 関が原で負けたために斬首され、領地も没収され、キリシタン大名であったため多くの寺社を破壊・迫害した大悪人にされたこと、行長は二重三重に鉄の首枷(かせ)をはめられた人物である。 私は行長の居城である宇土城の傍らで高校時代を過ごしたため彼に対する悪感情を身を持って体験してきた。すでに死して四百年が経つにもかかわらずである。徳川政権やかつての庶民から見た行長像ではなくありのままの姿を描いてみたいと思った」 とのこと。 
昭和55年(1980)に銅像が立てられる時も市役所に市民から脅迫めいた苦情が寄せられたとのこと。積年にわたって蓄積された小西行長を徹底的に悪人に仕立てようとするための感情的な操作があってのことだった・・・・と思われますね。まさに ”死人に口なし ” の一方的な押し付けのようにも受けとれますが。 今ではそうした古老達も亡くなって感情的な嫌悪感はなくなっている模様です。 熊本の加藤清正と小西行長・・・・・こんなにも人気に差ができた由縁はやはり人工的な操作なんでしょうきっと。 訪ねた宇土城はそれを物語る哀愁の城でした。熊本城にある宇土櫓は宇土城の天守閣だったのではないかという説があながち嘘ではないような気がします、櫓に ”宇土 ” という名前をつけたこと自体に意味があったのではないでしょうか・・・・・小西行長の宇土城はあんまり有名になって欲しくない、そっとしておいて欲しい古城跡です・・・・・終わり
コメント
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