西部劇と懐かしのカントリー&ウェスタン日記

現代とはかけ離れたOld Countryの世界ですがずっと続けていきます。興味のある方は時々のぞいてみて下さい。

健康について

2016年12月03日 | 医療の仕事
定期の健康診断 ひとり立つ  
大腸がんの手術を受けてから2年2か月を過ぎた 。何事もなく無事にきて健康で楽しく仕事もできて・・・・・とゆっくり時が過ぎていく。 まだ定期的に検診が必要で、今日も1年に1回の胃カメラ・大腸ファイバー検査に行った。 いつもドキドキするけれど、”どうもありませんよ ” の一言を聞いた時は‘ ああ自分は生かされているんだなあ ’-と感じることもしばしばだ。大好きなバーボンウィスキーも焼酎も普通に飲んでいるし手術をしたからって特に気を付けているようなこともない、ヨーグルトと野菜を食べることが多くなったくらいだ。 
最近アコーディオンの音が好きになって弾いてみたいと思うようになった、音に哀愁があって日本の唄に合うしカントリーにも cowboy song にも合うと思う・・・・・ぜひ手に入れて弾きこなせるようになりたい・・・・来年の希望
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肉親の訃報

2016年11月14日 | 医療の仕事
身内が相次いで亡くなった 
11月になって1週間の間に身内が2人亡くなった。2人とも1年近く闘病で頑張ったあとの死だった、できる限りのことはやった結果とはいえやはり淋しいものだ、身内が少なくなっていくのもこたえるなあ。年末はなるだけお酒は控えようと思う
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弟の誕生日に

2016年07月22日 | 医療の仕事
 
   弟の誕生日に 
何年経っても亡くなった弟のことは誕生日(7/21)が来るたびに思い出す。離婚して独りになってからはホントに何もかもひとりっきりで頑張ってきた・・・・・というのを知っていたから褒めてやりたい兄です。いつも残してきた息子と娘のことを思ってか、励みにしてか携帯にたくさんの写真が残っていた。 
恐らく心不全ではなかったかと思っているけれど、自分が近くにいればあんなに早く死なせはしなかったのに・・・・といつまでも後悔が残る。仕事を退いたら二人して日本全国を旅しよう・・・・・と話し合っていたものだ。  私たちの母が一番すきと言っていた写真、私は野球帽をかぶり、母によると弟はまだ歩けず三輪車を握らせているだけとのことだった。
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切なくなる言葉

2015年11月20日 | 医療の仕事
  
切なくなるような言葉

今は手術をしない整形外科医になっているせいか整形外科一般診療のほかお年寄りの慢性疾患患者さんの入院を担当することも多くなった。 9月中頃、ほかの病院から94歳のおばあちゃんNさんの全身管理・リハビリをお願いします と入院依頼があって自分が担当することになった。整形外科的には腰痛治療で引き受けられているものの 栄養障害と大きな頸部リンパ腫脹があって一人暮らしで台所で倒れていた・・・とのこと。栄養改善とリハビリで日常活動ができるようにと対処して、部屋を訪ねる度に話をした・・・満洲にいったこと、結婚してすぐにご主人が戦死して以来独りで生きてきたこと、私自身の両親のことなども聴かれたり等々昔話を始めたら記憶もしっかりして能弁になるどことなく可愛げのあるおばあちゃんだった。11月末になって頸部リンパ腫脹が思わしくなくなっていよいよ転院することになって入所先の終末期医療施設(緩和ケアハウス)へ紹介状を書いてあげた。 するとお礼にとお菓子を下さった。お菓子を有難う 元気でいてください-とお礼を言いに部屋を訪ねると・・・・私の手を握って ” 先生、長いこと有難うございました、私はお花の国に行きます・・・” と言われた。思わず切なくなって言葉が出ず、Nさんの両肩に手をやって頑張って下さいね・・・というのが精いっぱいだった。私の両親の世代に近いNさん、戦争の時代を生き抜いてきた人たちの中にはこんな境遇の人達が日本にはたくさんいるんだろうな・・・と思うことだった。 
 
<追記>新しい年(平成28年)になって1/19 Nさんが亡くなったと報告が来た・・・Nさんお菓子は美味しく食べましたよ

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つれづれに ( 健康が一番 )

2014年10月20日 | 医療の仕事
平成26年10/6~10/16まで大腸がんの手術で入院。検査を含めると約1ヶ月ほぼ My Blog から遠ざかっていました。また再開 始めます、一旦閉鎖状態にあった過去の記事も追々再掲載しますので興味があればさかのぼっての記事も見てみてください(ハンク秋山)
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つれづれに (検診に行った)

2014年10月01日 | 医療の仕事
九州大学病院の構内にあった史跡 と 近くの東公園にある史跡
 
九州大学病院に大腸ファイバー検査のために行った・・・・・大学病院というのはとにかく外来患者がめちゃ多いところで待ち時間ははんぱでなく1日がかりだ。退屈まぎれに広い構内の庭を歩き回ってみたら医療とは関係のない史跡があったので写真に撮った。
(1)現在テレビドラマになっている福岡藩祖の黒田官兵衛にまつわる史跡があって「利休釜掛の松・・・・・天正15年(1587)、九州平定を終え箱崎宮に滞陣した豊臣秀吉は、小寺休夢(福岡藩の藩祖黒田如水の叔父)らと和歌を詠じ、茶人の千利休や博多の豪商 神屋宗湛らと茶会を催しました。その際、利休は秀吉の命により、この地の松に鎖を吊して雲龍の小釜をかけ、白砂の上に散り敷いた松葉を集めて湯をわかしたと伝えられています。」・・・・・との説明。絵の右から2番目がどうも秀吉らしい
 
  
(2)もうひとつは歌人の碑 「長塚 節の逝去の地・・・・・長塚節(1879~1915年)は、正岡子規に歌の指導を受けたアララギ派の歌人であり、子規の没後、短歌雑誌”アララギ”の創刊に携わりました。また、作家としても小説”土”を執筆し、農民文学の確立に大きく貢献しました。明治45年(1912)、喉頭結核を患い、高浜虚子門下の俳人でもある九州大学病院の久保猪之吉博士のもとで治療を続けましたが、大正4年(1915)、その甲斐もなく37歳で亡くなりました。」・・・・・とありました。碑には写真も入れてありました 
   
(3)九大病院の最寄りのJR駅吉塚には東公園があって通り道だったので覗いてみた。 
東公園の一角に日蓮聖人の大きな銅像が立っている(約23mの立像で明治37年に17年の歳月を費やして建立されたそうです)、同じ公園内に元寇資料館というのもあった。私が小学6年生の頃に香椎に住んでいたことがあってその頃の東公園で銅像をみたけれどただ台座にポンと立っていただけの印象で周辺はほんとに公園然としていたと思う・・・・・ウン十年振りに見たら立派な場所になっていてびっくり。近くには元寇当時の亀山上皇の銅像もあって次回写真に撮る予定ですが、用がなければ来ないところだからなあ・・・・・元寇資料館はかなりマニアックな展示場ではないかなあ、でも来館者が少ないのか電話で前もって告げないと開けてくれないような展示館になっていました。残念、受付の人に資料パンフレットだけもらったのでした。元寇の時の蒙古軍の鎧、兜、弓などが置いてあるそうです・・・・・まさにこの場所が戦場だったらしいです。 元寇~日蓮~亀山上皇か・・・・・戦国時代や幕末に興味が行ってしまうのでちょっと知識としては弱いところ、ひまになったら調べてみようかな 
 
(4)九大病院正門から50m離れたところに崇福禅寺というお寺があった。そこの表門はもともと福岡城の大手門で 移築されたものとのことで、境内には今年話題のNHK大河ドラマ「 軍師黒田官兵衛 」 (黒田孝高)とその子 黒田長政の墓があるんだそうです。今回は通りから門だけを見学しましたが、近くに宮崎からの観光バスが停まっていてガイドさんに連れられて観光客がゾロゾロは入って行きました。受付の人に聞くとドラマのせいで今年は見物客が多いです・・・・・とのこと。 なるほど、門はお寺のというよりはより武骨な武家門という風情でした。 官兵衛の墓には後日行ってみよう
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つれづれに ( 気に入りの浮世絵 )

2014年08月03日 | 医療の仕事

素敵な絵心のある浮世絵をもらった 

私は整形外科医として今でも週に6日忙しい日々を送っている。 
自分のブログを持っています-というと 時々人に ”貴方は医者だからたくさん色々なことがあるでしょうからそんなことを載せてみたらいかがですか? ” と云われることがある。 確かにそうかもしれない……救急医療からスタートして整形外科医になり それこそたくさんの経験をしてきたし、忘れられない患者さんの想い出(喜怒哀楽)も沢山沢山ある。でも自分は1代限りだし、その方面のブログを書いている同業者の方がいらっしゃるでしょうし私の経験のことは自分の中だけで止めておきたい・・・・・という思いの方が強くてこれまで自分の仕事のことはほとんど書いていません、これからもそうです。 

今は手術からは引退して主に鹿児島で4日外来診察、博多では老人病院に2日診療とリハビリ担当の仕事をしている。仕事をもっとセイブしようと思えば出来ないことはないけれど こんな自分でも慕って来てくれる人( 主に老齢者 )がいるのできつくてもやはり辞めることは出来ない・・・・・と思っています。 私の好きな Cowboy Song について云えば年老いた牛達がたくさん牧場にいるので世話しないとやせ細ってしまうから Hard-working に耐えているカウボーイみたいな心境(smile)
 
 
そんな一人に85才のYさんという男性がいる。下半身麻痺で車椅子、私が博多で土曜日に行っている病院で必ず来てくれる・・・・・麻痺は治らないけれど今以上に衰えないようにとリハビリに来る。 話好きで私に昔の色々な話をしてくれるので、いつも私が話を丁寧に聴いて応対するからか来るたびに「絵を描いているから先生にあげます、100枚以上描いています」・・・・・と持ってきてくれるようになった。 気晴らしに描いているとのこと・・・・・風景画だったり静物だったりですが何枚か浮世絵を模写したのを下さった。 つたない筆致であっても絵心があっていいなぁ-と気に入っている。気持ちがこもっているので自分には宝物。 いつもカラーコピーして現物はお返ししている・・・・・今日の2枚はそんな中から、どうでしょうなかなか感じが出ているではありませんか  鯨に乗っているのは一寸法師かはたまた作者か?・・・・・Yさん有難う
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つれづれに ( 弟の旅立ち )

2012年01月09日 | 医療の仕事
 
平成24年1月2日最愛の弟が亡くなった、私より2つ下なのに。
年末まで山梨の大月というところで極寒の中 リニア新幹線のトンネル工事に従事して帰り、お正月を迎えてからのことだった・・・・・体力に自信を持っていた彼が体調の不良を訴えて31日救急車で近くの病院に運ばれ、検査と薬をもらって帰ってから1日しての出来事だった。 突然の弟の死の連絡を受けた時は仕事中だったけれど 動揺する気持ちを抑えながらも心の中で号泣した。 ブルーグラス ミュージックが好きで ごく若い頃からバンジョーを買って暇な時に弾いていた・・・・・若い頃から朝から晩まで働きづくめの仕事が多かったからバンドに属して演奏するようなことはなかったと思う。  東京に出向いて弟の遺品を整理していたら、別れた2人の子供達の沢山の写真等のほか バンジョー、ギター、テンガロンハットに混じって100枚ほどのLPレコードがあった・・・・・なかなか通好みのようなものもあってびっくり。
  
私が ”ブルーグラスの歌手はあまり感情を込めて歌うようなところがないからやっぱりカントリーを聴かなくちゃね ” と言ったことの影響か 何枚かカントリーのLPもあった、ところが私のオールドカントリーに影響されたのか化石みたいなレコードばかりだったのにはすこし苦笑い 。それでも 私の一番の Favorite singer 故ハンク・スノウのLPレコードがあったのは嬉しかった ・・・・・でも彼なりの選び方だったんだろうな。
  

将来 二人して全国の名所旧跡や温泉を巡ってお酒を飲みながらカントリー&ブルーグラス談義に花を咲かせよう-との希望はなくなったけれど、誰れにも看取られることのない死だったけれど いさぎよい最後に ”あっぱれ ”  と告げたい・・・・・いつかまた会おうな!!  from 兄      

( 写真は私達の幼い頃と弟の残したLPから ) 
 
平成27(=2017)年正月を迎えて雪の降る寒い博多、毎年お正月が来ると君のことを思い出すよ・・・・・合掌
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はじめての入院(医療の仕事 3)

2011年06月05日 | 医療の仕事
はじめての入院

仕事で博多と鹿児島を行ったり来たりする生活をもう10年続けていますが、先月 出先の鹿児島のホテルで朝 大量吐血して救急車で運ばれて出血性胃潰瘍で2週間入院生活をよぎなくされました。 
吐き気があってそれこそ便器に顔を寄せての小さな洗面器満杯くらいの新鮮血、凝血塊の吐血。鏡で自分の顔を見るとまるで血の気の無い白壁のような色だった ”癌か ” と思ったのがはじめの感想・・・・・立ち上がることが出来ずに這っていって勤め先の院長に電話をするのがやっとだった。ショック前状態になり救急車の中で生まれて初めて「 死ぬかもしれない- 」 と実感しました。救急車の中で 自分の身体からスッと抜け出ていくような体験をしましたが、後で思うと死ぬってそんなことかもしれないなと思ったものです。 
幸い適切な処置をしていただいて元気に回復し、あとは抗潰瘍薬の継続と食事の時よく噛むことの指導を得て昨日(6/4)退院・・・・・今回のことがあってたくさんの方にお見舞いを頂いたりお世話になりました。必ずしも私のグログを見て下さっている方々ばかりではありませんがこのページにも感謝の意を書いておきたく思います。東北大震災もそうでしたが、個人的な今回の出来事で生活スタイルや意識の変革を・・・・・といろいろ考えさせられました。 健康の有りがた味をこれほど感じたことはありません

尚、入院でブログ更新ができない間にコメントを頂きました ” 夢でいいから ” 様には返信ができなくて本当に申し訳ありませんでした・・・・・昨日はじめて目にして古い記事へのコメントでしたのでよく見てそれぞれに返信を寄せたいと思っています(謝)
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救急医療・・・想い出のABCD - 1

2010年08月17日 | 医療の仕事

想い出のABCD( 救急医療 )

正直のところ自分のブログに仕事のことは載せたくない、好きなことだけで通したいという思いがあります・・・・・でも、ひょっとしたことから忘れない想い出があって やっぱりこれだけは書いてすっきりさせておきたいということが沢山あって・・・・・そんなことを幾つか。 
なおABCDというのは救急医療現場で初めに対処する内容の順番を指しています。A(Airway=気道確保)、B(Breath=呼吸)、C(Circulation=循環系の確保)、D(Drug=薬使用)です

私の医師としてのスタートは救急医療だった。 T病院での最初の5年程はハードな毎日で、ありとあらゆる救急患者に出くわしました。「 やらないといつまでも出来ないぞ、集中して慎重にやれば出来るんだ 」 が口癖の脳外科医M先生からはホントに多くの事を学びました。 初めて独り立ちで当直をした時の緊張感は忘れられない・・・・・何の音も救急車のサイレンの音に聞こえて一睡もできなかった思い出。 いくつかの病院で経験した当直の夜に起こった忘れられない想い出がいくつか有ります。

(1)鹿児島市のT病院に勤めてまだ駆け出しの頃、8.6水害時に日豊本線竜ヶ水駅近くで起こった土石流に巻き込まれて運ばれてきたKさん。全身血の気が無く泥や草木が付着した見るも無惨なバラバラの左下腿、即切断と決まり 麻酔の話をした時 Kさんは私の目をジッと見て 「 先生このまま永久に目が覚めないってことないよね。」と云われた。「 大丈夫です 」 と答えたものの、輸血も無くAmputa(切断術)をして怖いほど不安だったあの時の私、緊張感でいっぱいだった。 幸い元気になられました。

(2)意識不明で入院中のSさんは意識回復した途端3階から飛び降り自殺をはかった。 運ばれて気管内挿管しようと頭を持った時まるで小石のつまった袋を握る感覚に思わずゾッとして身を引いた。頭骨が粉々に割れていたのです・・・・・無駄と解かっていてもABC( 救急医療の基本 )だけはやれ-と教えられていた私は無我夢中でした。今思うとそれは家族への配慮(やれるだけのことはやった)という意味があったのだと思っています。

(3)佐賀のI病院に勤めていた頃、雨の明け方バイク事故の大学生T君が運ばれてきました。ヘルメットをしたままでピクリともしない。救急隊の話では溝にはまり込んでいたという。ダメだとは思ったけれど、家族が来るまでは・・・・・と心肺蘇生を行ないました。 死亡診断に 「 頚椎骨折 」 と書いたものの、除去するのに苦労するほどの全面覆いのヘルメットで呼吸が出来なかったのではないか・・・・・と今でも思うのです。 駆けつけた母親が動かないT君に「 KちゃんKちゃん・・・」 と おそらく赤ん坊の頃から呼んでいたであろう名前を消え入りそうな声で何度も呼び続けていました・・・・・いたたまれない気持ちだった私。1週間ほどして母親から対応に感謝する旨の丁重な手紙を頂いた・・・・・。

(4)ある夜、近くの小児科の先生が1才くらいの喘息の幼児を運んでこられた。既に全身蒼白で無呼吸でした。一応挿管して酸素投与するも小児の血管確保は難しく、鎖骨下に針を刺して輸液ルートをとり 指3本で心マッサージをしました。とてもかわいい男の子で、全てが終わった時 「 僕ぅー! 長く生きられなかったね 」 とそっと声をかけました。何とも悲しい気持ちだったあの時。

(5)高速道路整備中に突っ込んできたトラックにはねられたS青年。搬送時には腹部が裂けて腸が露出し絶命していた・・・・・看護婦さんと2人で腸を押し込んで縫うだけのむなしい作業。交通事故の悲惨さを思い知らされる出来事でした。
あまりの外傷や骨折の多さに整形外科医としてやっていこうと決断したきっかけでもありました。

悲しい想い出が多かったのですが色々な事を学びました。
それぞれの場にあっても家族にも取り乱すような人は全くなく、古くからの日本人の死生観が生きている・・・・・と感じたのもこの頃でした。同時に、こうしたことの連続では自分も参ってしまう-と感じて 野球をしたり、お酒を飲んだり映画や音楽を楽しんだりして気分転換をはかる努力をしたのもこの頃でした。 今はその頃の元気はないけれど、体力の続く限りはこの終わりのない仕事を続けていこう
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