設計が面白いからこの職業を続けている。(と思っている。)
しかし設計はとてもメンドクサイものでもある。
何故ならたくさんの不自由がついてまわるからだ。
オファーを受けた時には建物の用途やコスト、工期が決められており、敷地には形状、方位、法的規制などがまとわりついている。
中心市街地などでは工事すること自体もままならないことがある。
それでなくても膨大な要望や法律、条例などに縛られている。
こういった山積みの不自由の中をもがきながら進んでいくうちに、時間切れという最強の不自由が押し寄せてくる。
こんな状況が続いていると、「自由に設計したいのぉー」とぼやいたりするのだが、
この「自由」というのは意外と曲者でもある。
例えば見渡す限り地平線が続く広大な砂漠で何かを設計する場合はどうなるのだろうか。
ギザのピラミッドなどは砂を上から降らせて自然にできる角度でつくられているらしいが、そもそも何故四角錐なのか?
機能は何なのか?
配置の理由は?
こうやってたくさんの?が並んでくる。
不自由が少ないと判断基準が希薄になり、「何故こうするのか」の理由を求める逆説的なパラドックスに陥ってしまう。
真っ白な紙を渡されて「何を描いてもいい」と言われた時の難しさと同じだ。
要するに「自由」も「不自由」という様相の一つにすぎないわけだ。
結局、設計という行為は不自由であるからこそ成立している。
この不自由の中をどれだけうまく泳ぎ切れるか。
それこそが設計者の能力である。
文句を言う前に己の能力を磨くべし。
それでも「もう少しマシな不自由であってほしい」と思わずにはいられない。
しかし設計はとてもメンドクサイものでもある。
何故ならたくさんの不自由がついてまわるからだ。
オファーを受けた時には建物の用途やコスト、工期が決められており、敷地には形状、方位、法的規制などがまとわりついている。
中心市街地などでは工事すること自体もままならないことがある。
それでなくても膨大な要望や法律、条例などに縛られている。
こういった山積みの不自由の中をもがきながら進んでいくうちに、時間切れという最強の不自由が押し寄せてくる。
こんな状況が続いていると、「自由に設計したいのぉー」とぼやいたりするのだが、
この「自由」というのは意外と曲者でもある。
例えば見渡す限り地平線が続く広大な砂漠で何かを設計する場合はどうなるのだろうか。
ギザのピラミッドなどは砂を上から降らせて自然にできる角度でつくられているらしいが、そもそも何故四角錐なのか?
機能は何なのか?
配置の理由は?
こうやってたくさんの?が並んでくる。
不自由が少ないと判断基準が希薄になり、「何故こうするのか」の理由を求める逆説的なパラドックスに陥ってしまう。
真っ白な紙を渡されて「何を描いてもいい」と言われた時の難しさと同じだ。
要するに「自由」も「不自由」という様相の一つにすぎないわけだ。
結局、設計という行為は不自由であるからこそ成立している。
この不自由の中をどれだけうまく泳ぎ切れるか。
それこそが設計者の能力である。
文句を言う前に己の能力を磨くべし。
それでも「もう少しマシな不自由であってほしい」と思わずにはいられない。
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